消えた老女

本庄 楠 (ほんじょう くすのき)

第1話 首つり自殺

 福岡県宮若市で農家の夫婦が自殺した。夫が六十八歳で妻が六十二歳だった。夫の名前は大山武、妻の名は菊子と云った。家族は夫婦以外では八十二歳の武の母親がいて三人暮らしであった。母親は百代と云った。

 武夫婦には息子が一人居るが、大手のタイヤメ-カ-に勤めていた。現在、横浜の工場で働いている。息子は横浜で家庭を持ち、子供も二人いた。

 夫婦の首つりを発見したのは隣組の主婦で、西中登美子と云った。武の家からの距離は歩いて十分くらいである。登美子は回覧板を持って大山武宅を訪れた際に変事を発見したのである。

 時刻は朝の九時過ぎだった。登美子は玄関の格子戸を開け、いつもの様に家の中に向かって

「大山さん回覧板です」と声を掛けたが返事が無かった。いつもだと必ず武か菊子が奥から

「はあい。今行きます」と応えて出て来るのだが、この日はそれが無かった。

 彼女の家と大山家とは隣同士で気安い仲だったので、登美子は勝手に、玄関から中に入って回覧板を置いて帰ろうと思って、一瞬、部屋の奥を覗いたのである。手前に六畳間があり、奥の座敷の八畳間とは太い木で造られた鴨居で仕切られている。鴨居と天井との間は十センチ程の隙間があった。その鴨居に夫婦がぶら下がっているのが目に入ったのである。鴨居にロープを吊るして向き合って首を吊っていたのである。

 ロープを鴨居に掛け、その両端を首輪のようにそれぞれの首にグルグルと二重に巻き付けて端っこを固く結んでいた。ロープは黒と黄色の縞模様のトラロ-プであった。立ち入り禁止の区域などに使用する強靭なロープである。

 二人がぶら下がっていた鴨居は大人二人の体重でもしっかりと持ちこたえて、しなったりしていなかった。

 登美子は驚愕した。「えっ!」と叫んで、その場にへたり込んでしまった。足が、がくがく震えて止まらない。血の気が引いた。それでも、何とか立ち上がって自宅まで帰って来たのである。そして、亭主の四郎に

「お父さん、け、警察に電話!」四郎は真っ青な顔で息せききって、喘ぎながら叫んでいる女房の顔を見て、走り寄って来た。登美子から事情を聞いた彼は家の中に駆け込んで警察に電話したのだった。

 二十分後に直方のおがた署から警察官と刑事が駆け付けて来た。検視官も同行していた。四人掛かりで鴨居から下ろしたが、両人とも既に死亡していた。男は黄色の作務衣で、女の方は白地に赤のラインが縦に入ったパジャマを着ていた。トラロ-プは九ミリのもので強靭なロープであった。

 登美子は発見当時の状況を詳しく刑事から訊かれた。彼女は怯えた顔で、見たままの事をすべて話した。そして、最後に疑問に思ったことを一つだけ刑事に喋ったのである。それは、自殺した大山武の母親の百代が家に居ない事であった。

 刑事の山本は登美子に

「母親はいつも家に居たのですか?」

「はい。居たはずなのですがねえ。認知症があって、武さんが見張って面倒を看ていましたから」山本刑事は不審に思って、更に登美子に訊いた。

「貴方が百代さんを最後に見たのは何時頃でしたか?」

「それが最近見て無いのですよ。一ヶ月くらい前に武さんに訊いたら病院に入院していると言われました」と登美子は応えた。彼女が百代を最後に見たのは半年以上前の六月の初めだった。その日は日曜日だったので、登美子は孫娘を連れて神社にお参りに行ったのである。小学三年生の孫娘の早苗は農道の左側の山の中腹に建っている神社が気に入っていた。

 百十段ある階段を昇って行くと急に平地が開けて、神社が出現するのである。その景色の変化が早苗は好きだった。神社の御神木の木々の間からは集落が一望できるのであった。それで、祖母の家に遊びに来た時には良く二人で神社にお参りに行くのであった。

 早苗は宗像に両親と三人で住んでいた。月に二回くらいの頻度で土曜日から日曜日に掛けて、宮若の祖母の家に泊まりに来ていたのだった。そして、日曜日の朝は(バアバ)の登美子との神社参りを楽しみにしていたのだった。

 登美子はこの時に武が母親の百代の手を取って散歩しているのに出会ったのである。「おはようございます。散歩ですか?」と声を掛けたら、武が

「はい。そうです。おふくろにも健康のために運動させてあげないといけないですからね」と微笑みながら応えたのである。早苗が百代に向かって

「おばあちゃま、おはようございます。」とにこにこして挨拶をすると

 百代は目を細めて

「まあ、まあ。お嬢ちゃん、お早う!」と応えたそうである。

 その時の百代は大層機嫌が良さそうで、にこにこしていたと言うのであった。

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