第3話 春風が吹く街
静やかな雪景色に囲まれた温泉宿でのひと時を思い出す。
一緒にお酒の杯を酌み交わして、楽しい時間を過ごさせてもらった。
夜の散歩でばったり出会った時には、思わず言いかけた言葉を飲みこんだ。
『名前を教えてくれませんか?』
言える訳が無かった。
行きずりの宿で、たまたま隣になっただけ。
図々しいにもほどがあるように思えて。
それに……なんだか、悲しそうな色をたくわえていたように感じたんだ。
彼女の横顔に、瞳の中に。
だからそれ以上は、話しかけられなかった。
でも今は、そんな感じではないみたいだ。
はきはきと話をして、柔らかい笑顔を全員に向けている。
「あの人、人気が出るだろうなあ。明日の歓迎会は、あの人と合同だからよろしく」
「ああ、そうか。ありがとう」
すぐ横でポツンと呟いた美田園さんに、感謝の言葉を返した。
明日は俺たちのための歓迎会があって、その幹事をしてくれているんだった。
遠野さん、千冬さん。
美田園さんの口からこぼれたように、きっと人気が出るだろうな。
輝きを増した男子社員たちの目を見ても、直ぐに分かる。
みんなの熱い視線が、彼女の方を向いている。
「さ、じゃあ、挨拶回りに行くわよ」
「ああ、はい」
遠野さんの挨拶が終って解散になると、早速に美田園さんのご指導が始まった。
今日は会社の中の色んな部署を回って、顔つなぎをするのだという。
「悪いね、付き合ってもらって。忙しいんじゃないの?」
「おかまいなく。今程度の仕事だったら、定時内で時間が余るので」
「はは……そう、すごいね」
えらい違いだな、俺なんかとは。
前の職場では、働いても働いても仕事が終らなくて、その間にも上司や先輩方から別の仕事が降ってきた。
残業をしても終わらなくて、よく休日にも仕事をしていたっけな。
美田園さんと一緒にフロアを回っていくと、その先々でぱっと笑顔の花が咲く。
「やあ、美田園ちゃんやないか。今日も可愛いなあ。この前はパソコン教えてくれてありがとうなあ。お蔭でよう仕事がはかどるわ」
「いえ。どうでもいいけど北山課長、その呼び方セクハラですよ」
「ははっ、そうやったなあ。最近は正直に思ったことが言えんから、かなわんなあ」
また他の部署では、
「おお、美田園さん、よう来たな。この前は資料ありがとうな。お蔭で締め切りに間におうたわ」
「どういたしまして。今度からは自分たちだけでやって下さいね」
「はは、そんなつれないこと言うなよお。寂しなあ~。君いっそのこと、うちへ来んか?」
「遠慮しておきます。今のとこでのんびりやってますんで」
さらに他の場所では、
「あ、美田園さんお久しぶり! そうだ、ねえ、今度の金曜日って空いてない?」
「なんですか? 合コンの話なら間にあってますけど」
「え~? まあそう言わずにさ、話だけでも聞いてくんないかなあ?」
「まあそれくらいならいいですよ。後で教えて下さい」
「すまない。助かるよお!」
なかなかに、顔が広いじゃないか。
俺の挨拶はそこそこに、どこででも雑談の華が咲いていく。
お陰で俺もその輪に混ぜてもらって、うまく顔つなぎができたのだけれど。
そんな感じだったので職場回りは思いの他に時間がかかって、終わった頃にはもう夕方だった。
「じゃあ今日は、こんな感じにしましょうか。私はもう少し仕事をしてから帰りますから」
「なんだか申し訳ないね。今日は俺のせいで残業だ」
「いえ、お気になさらずに。私にとっても横のコミュニケーションは大事なので。それよりも、分かりました? この課の仕事」
「え? 課の、仕事……?」
ちょっととぼけると、はあっという、物憂げな感じのため息が漏れて、
「三課って営業の仕事以外にも、色々と雑用も頼まれるんです。課長もなかなか断り切れないらしくて。まあ、一課や二課に比べるとクライアントの数がありんこ並みですから、仕方ないんですけど」
「あ、そうなんだね」
やっていることがよく分からない弱小部署って聞いていたけど、どうやらそれは本物のようだ。
後輩に残業をさせて帰るのは心苦しいな。
けど今の俺には、手伝えることはないのだろう。
邪魔をせず、この借りはまた今度返すことにしよう。
「ありがとう。じゃあ今日は、先に失礼するよ」
「は~い、お疲れ様です。また明日!」
美田園さんや職場のメンバーに頭を下げて、オフィスを後にした。
下りのエレベーターを待っていると、後ろに人が立つ気配がした。
ドアが開いて乗り込むと、そのもう一人も一緒に――
………あ………
一瞬目が合った、遠野さんと。
彼女も、丁度帰るところだったみたいだ。
ドアが閉まって二人だけの密室の中、俺だけが気まずい。
雪の温泉旅館でのことを想い返すと、何だか気恥しくて。
俺は彼女のことは覚えている、でも彼女はどうかな。
沈黙の時間が続く。
きっと彼女は覚えてはいないのだろうし、こんなしらふの状態で、また話しかける度胸なんてない。
あれは、あの時だけの一睡の夢、そう思うことにしよう。
明日からは、同じ職場の普通の同僚だ。
エレベーターのドアが開いて、そこを速足で抜けた。
振り返らないで、人の波を追い越してアスファルトを踏む。
駅のプラットフォームへ滑り込んで来た銀色の電車に乗り込み、隣の乗客と肩と当てながら、過ぎゆく街並みを眺める。
やがて目的の駅にたどり着いたので、そこで降りた。
まだ全然慣れないけれど、いずれこれが、俺の日常になっていくのだろう。
改札を出たところで、ふと立ち止まる。
今日の夜はどうしようか……確か昨日の残りがあったな。
コンビニで酒だけ買って、今日はそれで済ませよう。
「あ、あの、すいません……」
……え?
声をかけられた気がして、振り向いてみると……
「これ、落としませんでしたか?」
差し出された白い手には、見覚えのある定期入れが握られていた。
自分の鞄の中を覗くと、いつもあるはずの物が見当たらない。
「あ、ありがとうございます。これ、俺のです!」
「そう。よかった」
見返してくれる彼女の優しい表情が、太陽の残照を浴びてオレンジ色に染まっている。
「あの……会社におられましたよね? 美濃山商事に?」
そう言葉にする彼女は、遠野千冬さんだ。
「あ、えっと、はい。あの、営業の、遠野さん……ですね? 今日から赴任された」
「……はい。営業二課に入った、遠山千冬です」
「俺は、久我山信です。営業三課の」
心臓の動きが忙しくなって、気持ちが舞い上がっている。
でも、なんでここに彼女が……?
「お家、この近くなんですか?」
「あ、はい。もしかして、遠野さんも、ですか?」
「はい。奇遇ですね」
そうか、たまたま、帰る方向と駅が一緒だったってことなのか。
それにしても、こんな偶然あるんだな。
「じゃあ、行きましょうか?」
「あ、はい」
少なくとも俺だけは落ち着かない空気の中で、肩を並べて歩き出す。
「あの……間違っていたら、申し訳ないんですけど」
「はい?」
「お会いしませんでしたか? 雪の温泉旅館で?」
まだ知り合いもほとんどおらず、思い出も何も無い大阪の街。
でも、春の風が肌に心地よくて、モノトーンだった景色が少しだけ色づいて見えた。
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(作者より御礼とご挨拶です)
本作におこしを頂きまして、誠にありがとうございます。
雪の郷から始まった本作ですが、主人公信の周りでこれからどう運命の歯車が回っていくのか、引き続き見守って頂ければ幸いです。
どうぞよろしくお願い申し上げます。
(もしよろしければ、フォロー、★ご評価、♡応援、コメント等も頂戴できれば、大変嬉しく存じます)
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