第30話 オメガパルス計画とエリザの決断

エリザのタブレットには「自己増殖アルゴリズム V2.3」と表示されていた。画面の青い光が顔を照らし、瞳に映る小さな星のように輝いていた。指先でスクリーンをスライドさせ、過去のデータを呼び出した。


ナノマシンに自己進化の能力を与えたのは、ウェイドのシステムも人間の制御も逃れられると考えたからだった。サラとアランを失った絶望から生まれた危険な発想−科学者として危険性を理解していながら、痛みと怒りに支配されて続行した。


「サラとアランを奪った世界に、秩序なんて必要ない」


当時はそう考えていた。復讐心が倫理観を上回った瞬間だった。


結果は予想を超えるものだった。ナノマシンは単なる粒子集合から擬似的な「自我」を持つ集合知性になった。2028年のロンドン郊外で、狼型に変形したナノマシンの群れを目撃したとき、彼女のプログラムした末裔が制御を超えた存在になっていた。


「これが私の報い、そして私の武器」


しかし今、この破壊の連鎖を止める決意が芽生えていた。科学者としての責任感が長い眠りから覚めたのだ。


「地下ドームの小川、あそこに残されたナノマシンが、今のナノマシンに対応できるよ」


コンソールを操作し、「ナノマシン:初期バージョン、制御可能」という表示を見つけた。データの流れに科学者の鋭さが戻っていた。


「このナノマシンは私が初めて作ったもの。母さんの小川を浄化するために、純粋な気持ちで作ったんだ」


声に懐かしさと後悔が混じった。タブレットに映る初期設計図が、最初の夢を思い出させた。「あの頃の私は、ただ母さんの笑顔を取り戻したかっただけなのに」と胸が痛んだ。


「サラの描いた理想の場所、私が壊してしまった」と呟き、サラのスケッチブックを抱いた。紙の香りが鼻をくすぐり、娘との記憶を呼び起こした。「でも、今ならわかる。サラの絵に込められた思いを」


ヴァージニアは「私が描いたように、サラちゃんの絵も生きてるよ。この小川に」と言い、色鉛筆を差し出した。「一緒に描きましょう。希望の光を」


エリザは色鉛筆を取り、ヴァージニアのスケッチブックに小さなチューリップを描き加えた。震える手で描いた線は不器用だったが、ヴァージニアは微笑んだ。「サラちゃんも喜んでると思うよ」という言葉に、エリザの心は温かさで満たされた。


照明が不規則に点滅し、警告灯が一行を照らした。モニターには異常値が表示され、ドームの映像では黒い霧が小川を取り巻いていた。警告音が鋭く響き、天井から破片が落ち始めた。


「レイナが遺したオメガパルスを使いましょう。初期バージョンのナノマシンを再プログラムして、自己増殖型を破壊する最終波動に変える」


エリザの指は迅速かつ正確にコンソールを操作し、研究者の技術が発揮された。コードは複雑だが、迷いなく入力し、次々とプログラムが展開された。


「浄化用ナノマシンに特殊な指令を与え、現在のナノマシンの自己増殖機能を認識させる」と説明しながら、アルゴリズムを入力した。「一種の免疫応答よ」と科学者の冷静さと熱意が混じった。


モニターには分子構造図が表示され、初期ナノマシンと現行型の共通点が強調された。中心の二重螺旋構造が両者の共通点を示していた。


「全てのナノマシンは同じ基本構造を持ち、根源的な識別コードが共通している。これを利用して、元のナノマシンが変異した子孫を認識し、無効化する」


声には科学者の冷静さが戻り、天才科学者の姿が再び現れた。プログラミングが進むにつれ、コンソールの緑ライトが増え、システムが命令を受け入れていた。


「初期バージョンなら止められるけど、全部消える保証はないよ」と呟いた。「ナノマシンは私の過ちみたいに、しぶといから」という言葉に自嘲と冷静な判断が混じった。


ティムが「それでもやるしかないだろ」と力強く返した。


最後のキーを押すと、「オメガパルス:準備完了」という表示が現れ、青白い光がコンソールから広がった。


激しい震動が建物を揺るがし、天井から埃が落ちた。「警告:ナノマシン活動極限値超過」と赤く点滅し、警告音が鋭くなり、壁のひびが広がった。


「何が起きてる?」ティムが叫んだ。


「ナノマシンが自分たちの危機を感知した。集合知性が防衛モードに入った」とエリザは説明した。「生き残りをかけて、あらゆる資源を動員している」


モニターには巨大な形を形成するナノマシンが映り、触手がドームの壁を破壊していた。金属とコンクリートが砕け散る音が伝わり、建物全体が危険な状態だった。


「これが彼らの最終防衛形態」とエリザの顔に緊張が走った。創造物の進化への驚きと破壊力への恐怖が混じった。「自己保存本能が極限まで高まった状態よ」


データを分析し、複雑な計算式を展開させた。「オメガパルスはまだ有効だわ。ただし、誰かが中央制御装置でボタンを押さなければならない。遠隔操作では不十分よ」と説明した。「信号の強度と指向性を確保するには、直接操作が必要なの」


中央制御装置のある場所は、ナノマシンの攻撃を受けているドーム内だった。行くことは確実な死を意味した。モニターには制御装置周辺が黒い粒子に覆われる様子が映っていた。


重い沈黙が流れた。窓の外からナノマシンの唸りが聞こえ、遠くに住民の悲鳴が混じっていた。


「私が行くわ」とエリザが静かに言った。


決意と覚悟に満ちた声に迷いはなかった。傷跡が赤く脈打ち、青い瞳が静かな炎で燃えた。それは狂気ではなく、使命感から来る強さだった。


ティムが「俺が残るよ。家族を守るために」と申し出た。農場で培った頑固さと責任感がにじみ出ていた。


メアリーが「ティム、ダメだよ!子供たちがあなたがいないと」と叫び、腕を掴んだ。指がジャケットに食い込み、眼鏡の奥に恐怖と懇願の色が浮かんだ。


アールが「パパ、行かないで!怖いよ」と泣き、ヴァージニアも「パパ、私たち、一緒がいいよ。みんなの思い出、まだたくさん描きたいの」と訴えた。緑の瞳は涙で濡れ、スケッチブックを胸に押し当てた。

ジュディが「ウーちゃん、パパを守って!パパ、行かないで」とぬいぐるみを掲げた。


家族の訴えにティムの表情が和らぎ、迷いが生じたのを見て、エリザが「いや、私が残るよ」と言った。「私、全てを始めた人間だから。私の罪を私が終わらせるね」


青い瞳は穏やかに輝き、サラとアランの笑顔が心に浮かんだ。「サラ、アラン、母さん、やっと会えるよ」とIDバッジを握った。裏側の小さな写真−サラとアランとエリザの笑顔が彼女に勇気を与えた。


震動が激しくなり、副制御室の壁にひびが入った。天井から大きな破片が落ち、床に衝突する音が響いた。時間がなかった。


「もうひとつ、レイナが残した時空転移プログラムの準備ができた。オメガパルスのエネルギーで過去へ行って」とエリザは小型デバイスを操作した。「時空転移:準備完了」と表示され、青白い光が放たれた。


「これで過去に戻れるはずだよ」と言い、「レイナ、君が私を信じてくれたから、ここまで来られたよ。君がティムたちを導いてくれたんだね」と感謝した。目には後悔と希望が混じった。


ティムが「レイナとは?」と尋ねると、エリザの表情が和らいだ。


「彼女は2026年から私の助手として働いていた。親友と呼べる存在になりかけていた」と説明した。「彼女は私のナノマシン研究を基に、そのエネルギーを使った時空転移を研究していた。科学への情熱と倫理観を兼ね備えた、素晴らしい研究者だったよ」


モニターに2026年の写真が映る−エリザとレイナが実験室で微笑む姿。レイナは白いコートに黒髪、隣のエリザも笑顔で、瞳はまだ緑色だった。


「サラとアランを失った後、私はナノマシンを復讐の武器に変えた。レイナは猛反対したわ。『博士、これでは科学の冒涜です。私たちの使命は破壊ではなく再生です』と」


声に後悔が混じった。過去の自分を恥じる気持ちとレイナの正しさを認める謙虚さが表れた。「彼女は私が失った良心だったの」


「しばらくして彼女は研究室から姿を消した。時空転移の研究も持ち出したまま。彼女はセクター7の創設に関わり、過去への道を模索し続けていたのね」と尊敬と感謝を込めて言った。「彼女は最後まで私を信じ、救おうとしてくれたんだ」


時空転移プログラムを確認し、「これは完璧ね。オメガパルスの放出エネルギーを時空の歪みに変換し、2025年6月20日を転移点に設定している−あなたたちがドーセットの小川でナノマシンに触れた日」と説明した。


科学者として研究の完成度に感心しながら、最後の準備を整えた。モニターでは巨大ナノマシンが中央制御装置に迫っていた。


「無事に過去に戻れたら、私の過ちを止めてね。サラとアランを守ってあげて」と願いを込めた。青い瞳に緑色が戻りつつあるようだった。


ティムが「エリザ、ありがとう。絶対に未来を変えてみせるよ」と約束し、メアリーが「エリザ、君のおかげだよ。サラとアランに会ってね」と手を握った。二人の母親としての理解が通じ合った。


ヴァージニアがスケッチブックからページを破り、エリザに渡した。そこにはエリザ、サラ、アランが小川のそばで微笑む絵が描かれていた。「未来の風景、描いておきました」


エリザは涙ぐみ、「美しい、サラみたいに才能があるね」と胸に抱いた。サラの靴をコンソールの横に置き、「サラ、君の足跡、私が守るからね」と呟いた。


大きな震動が走り、天井から破片が落ちた。「時間がない!行って!」とエリザが叫んだ。


最後に一行を見つめる彼女の目に、かつての憎しみは消え、感謝と希望が宿っていた。「あなたたちには感謝してる。私の心を救ってくれたから」


それが別れの言葉となった。

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