第29話 対決
セクター7副制御室、2038年7月26日、午後6時30分
エリザへの説得
鉄扉が軋み、エリザが副制御室に入った。重い足音がコンクリートの床に響き、空洞に落ちる石のような冷たい反響を生んだ。薄暗い部屋は埃に覆われ、コンソールの青い光が壁に不気味な影を投げかけていた。床を這う光の中で埃の粒子が舞い踊った。
壁にはナノマシンの侵食による黒い染みが広がり、触手のような模様を描いていた。隅の作業デスクには古びたスケッチブックと色あせた写真が散らばり、若かりし頃のエリザとアラン、そして小さなサラの笑顔が捉えられていた。現在のエリザからは想像できない明るさと純粋さがそこにはあった。
黒い制服は汗と灰にまみれ、左頬の傷跡は赤く腫れ、青黒く変色してナノマシンの感染を示していた。短く刈られた金髪が額に張り付き、冷たい青い瞳がコンソールを捉えた。人間らしい感情は消え、目的だけが残っていた。
「ここだよ、ナノマシンの制御コードを完全に解放する」
声は無機質に響き、壁に映る影は人間の形を留めていなかった。手に持つナノマシン容器の中で黒い粒子が蠢き、内側から容器を叩くように光を放っていた。
モニターにはセクター7上空の映像が映り、濃密な黒雲が渦巻き、赤い稲妻が走っていた。地上では住民が逃げ惑う姿が小さく映っていたが、エリザの表情に変化はなかった。
ティムたちが副制御室の入り口に現れた。蒸気のような白い息を吐きながら、走ってきた様子だった。衣服は汗と埃にまみれ、顔には疲労が刻まれていた。
ティムが一歩踏み出し、「エリザ!やめてくれ!これ以上、破壊を広げないで」と叫んだ。声は切迫感に満ち、喉から絞り出すように掠れていた。
額の汗が目に入り、オリーブ色のジャケットの縫い目が裂け始めていた。プラズマ砲を握る手が震えたが、目には決意が宿っていた。
エリザはティムたちを睨み、「愚かな人間たち、まだ抗う気?」と呟いた。その声は氷のように冷たく、目には人間離れした光が宿っていた。
メアリーが前に出て、「エリザ、あなたの心にはまだ愛があるよ。サラとアランのために、やめて」と訴えた。
アールが「エリザさん、家族が大好きだったよね?パパとママみたいに、サラちゃんとアランさんを思い出して」と呼びかけた。
ヴァージニアはスケッチブックを胸に抱き、「レイナさん、私たち、エリザさんを救いたいよ」と小さく祈るように呟いた。
ジュディが「ウーちゃん、エリザさんを助けて!大好きって言ってあげて」とぬいぐるみを掲げた。
ティムが近づき、「エリザ!サラとアランを思い出してくれ!復讐じゃない、家族を守るために戦うんだ」と叫んだ。
コンソールのモニターが点滅し、2019年の地下ドームの映像が流れた。白いドレスのサラが「ママ、大好き」と笑い、アランが「エリザ、俺たちは家族だ」と言っていた。古いフィルムのような映像に映る三人の笑顔は、エリザの現在の姿と痛ましい対比を見せた。
エリザの青い瞳が揺らぎ、「サラ、アラン」と呟いた。声が震え、コンソールを握る手が緩んだ。2019年の記憶が鮮明によみがえり、サラが小さな手で頬を撫で、「ママ、笑っててね」と言う声が聞こえた。母マーガレットと同じ色の瞳を持つサラ−自分自身も昔はその色だったことを思い出した。
ヴァージニアの緑の瞳を見て、エリザは胸の奥で何かが動くのを感じた。過去の自分と娘の面影が、目の前の少女と重なった。
しかし、頭を振り、「いや、ウェイドが私の全てを奪ったんだ」とコンソールを叩いた。金属音が鋭く響き、部屋が振動した。モニターに「ナノマシン増殖:加速」と表示され、壁のひびが広がった。ナノマシン容器の中の粒子が激しく動き、ガラスにひびが入り始めた。
復讐への渇望と科学者の理想が衝突し、エリザの心は引き裂かれていた。母の夢を守る初心はどこに消えたのか。浄化のためのナノマシンが今は破壊の道具となっていた。彼女の顔に矛盾した感情が浮かび、傷跡が赤く脈打った。
「サラ、アラン」と自問するように呟いた。「あなたたちが見ているなら、私をどう思う?」
その言葉に久しぶりに感情が宿り、自問自答の開始と共に変化の兆しが見えた。
ティムが「エリザ!お前も家族を守りたかっただろ?俺たちも同じだ!サラとアランのために、やめてくれ」と訴えた。
青い瞳に雲がかかり、復讐心と愛がせめぎ合った。脳裏にサラの笑顔−実験室でチューリップの絵を描き、誇らしげに見せる娘の姿が浮かんだ。「ママ、見て!チューリップの絵、上手に描けたよ」という喜びの声。その記憶が復讐心と戦い始めた。
ヴァージニアが一歩前に進み、スケッチブックを開いた。「エリザさん、見て」と言い、ページを広げた。紙の擦れる声が静寂を破った。そこには「希望の光」と題された小川の絵が描かれ、チューリップ型の光の波紋が水面から立ち上がっていた。線は若干不安定だったが、観察力は卓越していた。
エリザはヴァージニアの絵を見つめた。その描き方はサラに似ていた−花びらの曲線、水の波紋の表現、そしてヴァージニアの緑の瞳はサラと同じ色だった。この偶然とも思えない一致に、科学者の好奇心が刺激された。
「私、絵を描くのが好きなの。レイナさんが言ってた、『絵は心を映す鏡』って」とヴァージニアは静かに語り始めた。「小川が教えてくれたの。希望はいつも、どんな闇の中にもあるって」
エリザの胸に痛みが走った。サラの絵に救われた日々、最も暗い時に「お絵描き日記」で家族との絆を感じていたことを思い出した。目の前の少女の絵が、同じ温かさで語りかけていた。
「その絵」と呟き、デスクのサラの「お絵描き日記」に目をやった。
ヴァージニアは続けた。「この小川の光、チューリップみたいでしょ?きっと誰かの思いが残ってるんだと思う。誰かが愛した人のために描いた夢みたいに」
この言葉がエリザの心に染み込み、積み重ねた憎しみの壁が崩れ始めた。体から緊張が解けていくのを感じた。
エリザの手が震え、コンソールから離れた。不安定ながらデスクに歩み寄り、サラのスケッチブックを手に取った。表紙を撫で、ページをめくると「理想の場所」と題された絵が現れた。サラが描いた青い小川とチューリップ、幸せな家族の姿。時間の痕跡が残るページは、指先に過去の温もりを伝えた。
「サラも絵を描くのが好きだった」とエリザは柔らかく呟いた。「毎日、お絵描き日記をつけて、どんなに苦しい日も、この絵が私を支えてくれた」
青い瞳に、かつての緑色が一瞬戻ったように見えた。
ヴァージニアは近づき、自分のスケッチブックを差し出した。「私も毎日描いてるの。大切なことは忘れないように」と緑の瞳に純粋さと知恵を宿して言った。
エリザは二つのスケッチブックを並べて見た。チューリップの描き方、小川の波紋、日付の書き方まで、不思議な共通点があった。線の特徴、色の配置、構図−全てが奇跡的な一致を見せていた。
単なる偶然ではないと科学者のエリザは感じた。彼女の研究対象だったナノマシンが、時間を超えてティム一家をここに導き、目の前の少女がサラの魂の一部を受け継いでいるかのようだった。
「サラの絵、あなたの絵」と声を震わせ、涙が頬を伝った。「まるでサラが生き返ったみたい」
11年間積み重ねた憎しみの壁が崩れ落ち、母としての愛が再び顔を出し始めた。傷ついた魂に光が差し込み、長い冬の後の春の兆しのように温かさが広がった。
ヴァージニアは微笑んだ。「芸術は時間を超えるって、レイナさんが教えてくれたの。絵を描くと、大切な人とつながれる」
エリザがアランのIDバッジを取り出し、指でなぞった。傷だらけの金属カードにはアランの笑顔が写っていた。
目を閉じ、深く息を吸う。心に母マーガレットの笑顔が浮かび、「エリザ、あなたは優しい子だよ。間違えたら、やり直せばいい」という声が聞こえた。せせらぎの向こうでサラが「ママ、こっちだよ」と手を振っていた。
「母さん、サラ、アラン、私、間違ってたよ」と呟き、青い瞳が開いた。狂気が消え、穏やかな光が宿っていた。「ティム、みんな、ありがとう」
ヴァージニアはエリザの手を取り、「絵を描くと、心が伝わるの」と言った。小さな温かい手が、冷たい指に生命の温もりを与えた。エリザはスケッチブックを開き、「サラもこんな風に光を描いてた」と微笑んだ。「あなたの中に、サラの魂を感じる」
その言葉は単なる感傷ではなく、科学者としての洞察だった。ナノマシン実験が時空に残した痕跡が、この少女に何らかの影響を与えたのかもしれない。
ティムが「エリザ、ナノマシンを止める方法があるはずだ!君ならできる」と言い、メアリーも「エリザ、君ならできるよ。サラとアランのために」と励ました。
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