第6章 希望の彼方へ
第27話 浄化の夢と崩壊の影
ドーセット、地下ドーム、2025年6月1日
エリザ・コート、35歳。
地下実験ドームは人工的な冷気に包まれていた。青白い光がコンクリートの壁を照らし、湿った空気が肌を刺した。壁に並ぶナノマシン制御装置は湿気で曇り、パネル上の水滴が光を屈折させて虹色に輝いていた。モニターのグラフが不規則に跳ね、唸りを発していた。
中央を流れる小川の水面は人工光に輝き、底には色とりどりの小石が並んでいた。水の流れる音が壁に反響し、閉鎖された空間に不思議な安らぎをもたらしていた。両岸のチューリップは人工光の下で花びらの縁が萎れ、香りも自然のものより弱かった。
壁の一角には7歳のサラが描いた絵が貼られていた。色鉛筆で描かれたチューリップと笑顔の家族の姿が、冷たい空間に温もりを添えていた。「ママとパパとサラ」と幼い字で書かれ、線はまだ不安定だが、花びらの曲線や表情には驚くほどの繊細さが宿っていた。隣には「サラのお絵描き日記」から取った「チューリップと私」という絵も貼られ、自画像の緑色の瞳は、母親エリザのそれを忠実に再現していた。
エリザは白衣を羽織り、金髪が肩に乱れていた。目の下には疲労が刻まれ、頬は青白かった。緑の瞳は母マーガレットと同じ色で、ドーセットの森を思わせる深い色合いをしていた。その目には科学者の冷静さと母親の愛情が共存していた。白衣のポケットに入れた母の指輪を時折確かめる仕草が、過去への執着を物語っていた。タブレットには「浄化機能テスト:シミュレーション完了」と表示され、データグラフが安定した曲線を描いていた。
「今日、ナノマシンの浄化機能を試すよ」
声は平坦で、喉の奥がかすかに引きつった。科学者の自信と母親としての不安が交錯していた。
アランがグレーのシャツを着て隣に立ち、青い目でエリザを見つめていた。額に刻まれた細かなしわと薄くなり始めた髪が年齢を感じさせたが、目に宿る優しさは変わらなかった。ポケットに忍ばせたメモ帳は、新しいアイデアを書き留める習慣の証だった。
「エリザ、浄化機能って安定してる?サラもいるんだし、慎重に」
声に懸念はあったが、それ以上に妻への信頼が響いていた。指先が無意識にシャツの袖をつまんだ。
ドームの隅でサラが小さなスケッチブックにチューリップを描いていた。金髪が肩に流れ、集中する様子は母親そっくりだった。
「ママ、小川きれいだね!」
幼い声がドームに反響した。白いドレスが膝で揺れ、金髪が赤いリボンで結ばれていた。色鉛筆を握り、花びらを丁寧に塗り重ねる様子に、年齢を超えた芸術的センスが光っていた。
「ママ見て!こっちの花は赤いけど、こっちは黄色と赤をまぜてオレンジにしたの」
サラの集中力は高く、彼女の真剣な表情にエリザは思わず微笑んだ。スケッチブックをめくると、小川の風景や実験室の様子が子供らしい筆致で描かれ、日付が整然と記されていた。
「お絵かき日記、毎日描いてるの」
サラの誇らしげな宣言に、エリザの緊張した表情が緩んだ。
エリザは一瞬サラに目を向け、「母さんの夢をここで再現したんだよ」と呟いたが、すぐに表情が引き締まった。1998年の記憶がよみがえり、母と過ごした小川の情景が鮮明に思い出された。あの日の自然の香りが鼻腔に蘇り、実験室の人工的な空気と対比された。
エリザが制御装置に向かい、「まず、この小川を汚してみる」と言った。ボタンを押すと、上流から黒い液体が流れ出し、油膜が水面に広がった。小川の透明度が失われ、底の小石が見えなくなった。チューリップの根元に染み込み、花びらが灰色にくすんだ。空気中に刺激臭が広がり、目が痛くなった。
アランが眉をひそめ、「エリザ、本当に大丈夫?」と不安げに尋ねた。足が小さく後じさり、呼吸が浅くなった。
サラが「ママ、川が黒くなっちゃった!」と驚き、スケッチブックを胸に抱いた。緑の瞳が大きく見開かれたが、恐怖より好奇心が強く光っているのを見て、エリザは娘の強さを感じた。サラはすぐに「黒い川」とメモを書き加え、色を取り替えて水面を黒く塗り始めた。
「絵にも描いておかなきゃ。ママの実験」
科学者の娘としての誇りがサラの声に表れ、エリザは思わず笑みを浮かべた。
「これでいい、現実の汚染を再現しただけ」とエリザは呟き、タブレットで「汚染率 90%」を確認した。次の段階へ進むため、別のボタンを押してナノマシンを投入した。
黒い粒子が水面に広がり、油膜を分解し始めた。泡が立ち、かすかな「シュー」という音が聞こえた。水の透明度が徐々に回復していくにつれ、チューリップも生気を取り戻した。
「浄化率 60%... 80%... 90%」
エリザの声には科学者の冷静さと、母として娘に成功を見せたい期待が混じった。小川が澄み、水面が穏やかに揺れて底の小石が再び見え始めた。空気の刺激臭が薄れ、かすかに花の香りが戻ってきた。
アランが「エリザ、成功じゃん!」と笑い、青い目が輝いた。肩の力が抜け、胸を撫でおろした。
サラは拍手し、「ママ、すごいよ!」と声を弾ませた。すぐに新しいページを開き、「ママの魔法」という題で青い水と復活したチューリップを描き始めた。
「ママはお魔法が使えるの。黒いのを全部きれいにするんだよ」
エリザを白衣の「魔法使い」として描きながら、無邪気に説明する娘の言葉に、母の心は暖かさで満たされた。
しかしエリザは「まだだよ」と呟いた。タブレットが示すように、完全な浄化には至っていなかった。画面の隅に「残留汚染物質:5%」という表示が気になった。
「母さん、これでいいのかな?」
一瞬の迷いが目を曇らせた。ポケットの母の指輪を握り、冷たい金属が掌に食い込んだ。
セクター7制御室、2038年7月26日
セクター7制御室内のメタルチェアに腰掛けたエリザの青い瞳が開かれた。13年前の実験の記憶が鮮明に蘇り、現実との乖離が心を引き裂いた。
赤い警告灯が不規則に点滅し、その光が頬の傷跡を浮き彫りにした。コンソールの唸り声が小川のせせらぎとは対照的に耳障りに響き、埃と機械油の臭いが鼻をついた。
モニターに映るセクター7の住民たちを冷淡に見つめるエリザの姿は、かつての科学者の面影を残しつつも、変わり果てていた。母の形見の指輪を握りしめる指に力が入り、金属が軋んだ。
「母さん、私は守れなかった」
声は低く掠れ、制御室に虚しく反響した。40年の時を経た悔恨と怒りがその言葉に滲んでいた。
「母さんが教えてくれた自然を、人間が汚した。私が信じた優しさは裏切られた」
コンソールを激しく叩く音が響き、ディスプレイの赤い点が増殖した。ナノマシンの活動が加速している証拠だった。
技術者が「エリザ様、制御不能です!」と叫んだが、彼女は無視してティム一家を画面越しに見据えた。
「お前たちに過去を変える力があるなら、私の罪を裁いてみせろ」
その言葉には挑発と後悔が同居していた。母が教えた愛と、現在の行動との矛盾に自らの心が引き裂かれる感覚に襲われた。
一方、地下シェルターではティム一家が次の行動を決めようとしていた。
突然、地面が震え始めた。最初は微かな振動だったが、徐々に強まっていった。コンクリート壁にひびが走り、天井から灰色の埃が舞い落ちた。
「何が起きてるの?」「外に出られないの?」「助けて!」
恐怖の叫び声が重なり合った。トミーの母親は本能的に毛布で息子を包み込み、「トミー、隠れて!」と声を振り絞った。
ティムはレイナのショットガンを握り、緊張した面持ちで周囲を見回していた。額の汗が埃で灰色に染まっていた。
「分室の地下に行くしかない。エリザを止めなきゃ」
警備員が「分室まで案内する。プラズマ砲の弾は少ないが、やるしかない」と前に出た。
シェルターの鉄扉が軋み、外からはナノマシンの唸りが迫ってきた。鉄が曲がる音と、壁を這う摩擦音が全員の緊張を高めた。
ティムが「行くぞ!」と叫び、一家は地下通路へと向かった。湿ったコンクリート壁から水滴が染み出し、不安定な照明が影を歪ませた。
一行が通路を進むうち、遠くでナノマシンの赤い光が強まり、低い唸り声が響いた。未知の危険への恐怖と、それに立ち向かう決意が交錯する緊張が彼らを包んでいた。
制御室では、エリザがデータを呼び出していた。ディスプレイには「1998年、ドーセット小川:ナノマシン初期試作用スケッチブック」と表示され、8歳のエリザが小川で絵を描き、母が「きれいね」と笑いかける映像が流れた。しかし、スケッチブックの端には赤い粒子が染み込み、紙が変色していた。幸せな記憶が汚されていく様子に、彼女の心が震えた。
「母さんの実験が、私の夢に混じった」
喉が詰まる感覚に襲われた。純粋だった記憶が実験の一部だったという真実に、息が浅くなった。
青い瞳が一瞬曇り、かつての緑色が戻ったように見えた。母の指輪に触れる指先が、彼女を現実に引き戻した。
画面は「2025年、ティム一家接触」という映像に切り替わり、アールが「赤い光がチカチカしてる!」と言う様子が映った。
「お前たちがこのスケッチを汚し、アランとサラを奪った連鎖を始めた」
声には怒りと深い悲しみが混じった。コンソールを強く握る手の関節が白く浮かんだ。
「母さんとの約束を裏切った人間を、私は許さない」
その声には冷たい決意が刻まれていた。制御室の警告灯が激しさを増し、赤い光が彼女の肌を血のように染めた。
技術者が「ナノマシンの暴走が加速しています!」と叫んだが、エリザは冷たく睨み、「黙れ」と一言だけ返した。
モニターに映るティム一家を見つめ、静かに呟いた。
「お前たちが私の純粋な夢を奪った」
その声の奥には、取り返しのつかない喪失感と、かつての少女への郷愁が隠されていた。制御室の空気が歪み、終わりの始まりを告げるように重く沈んでいった。
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