第26話 再会と試練の道
東京、2015年秋 / セクター7分室、2038年7月26日
2015年、エリザの記憶 - アランとの再会
エリザ・コート、25歳。東京ビッグサイトの国際学会会場は世界中から集まった科学者で賑わっていた。ガラス張りの壁から秋の陽光が差し込み、床に幾何学的な模様を描き出していた。中央スクリーンには最新のナノテクノロジーに関する発表が映し出され、青白い光がプレゼンターの顔を照らしていた。
エリザは黒いスーツに白いハイネックのブラウスを身につけ、胸元の名札には「Dr. E. Coates - Cambridge University」と記されていた。本名のコートではなく、わずかに変えたコーツを使うのは、過去との繋がりを薄めるための小さな努力だった。金髪は後ろで一つにまとめられ、かつての緑の瞳は今や青みを帯びていた。硬い表情の中に、過去の痛みを隠しているようだった。
タブレットには自己増殖プログラムのシミュレーション結果が表示され、エリザは小さく呟いた。
「制御は…まだ完全じゃない」
声は低く、周囲に聞こえないよう抑えていた。指先がスクリーンを滑り、データを確認する動きは無駄のない効率性を感じさせた。画面上でナノマシンの制御機構の設計図が回転し、複雑なアルゴリズムが横に表示されていた。
ポスターセッションのブースでは、「ナノマシンを用いた環境再生技術」と題した彼女の研究が展示されていた。ポスターには水質浄化の過程が視覚的に示され、汚染された黒い水が段階的に澄んでいく様子が記録されていた。
『母さんの小川を…取り戻したい』
2004年の黒く濁った水面の記憶が脳裏をよぎり、胸が痛んだ。科学の道を選んだのは母の敵を打ち負かすためだけでなく、失われた自然を取り戻すためでもあった。復讐心と再生への願いが彼女の中で絡み合っていた。
そこへ一人の男性が近づいてきた。アラン・ウェイド、27歳。茶色の髪が風になびき、青い目が温かな光を放っていた。8年前よりも大人びた顔つきになり、目尻に小さなしわが刻まれていた。グレーのスーツを着こなし、ネクタイは緩め、襟元のボタンが外されていた。エリザを見つけると躊躇いながら近づき、その足取りには期待と不安が混じっていた。
「エリザ…やっぱり君だ」
彼の声は柔らかく、懐かしさを含んでいた。エリザは顔を上げ、一瞬凍りついた。時間が止まったような感覚があり、胸の奥で何かが崩れ落ちる音がしたような気がした。
「アラン…何でここに?」
彼女の声は冷たさと驚きが混じり、タブレットを強く握りしめた。指の関節が白く浮かび上がった。
「俺も学会で発表してるんだ。ナノマシンの環境応用について…君の研究、すごいね」
アランの声には真摯さがあり、彼女を見つめる目は8年前の別れの痛みを今も抱えているようだった。体が彼女に傾き、何かを伝えようとする必死さが見て取れた。
「あなたには関係ないよ。ウェイドの人間が…ここにいるなんて」
エリザの声は低く、警戒心に満ちていた。2007年の森での別れが鮮明に蘇り、喉が詰まるような感覚を覚えた。
アランは目を伏せ、静かに言った。
「エリザ、俺は変わったよ。ウェイド・インダストリーズとは距離を置いたんだ」
彼の目には真剣さがあり、手のひらを上に向けて差し出す仕草には降伏の意味が含まれていた。エリザの表情が揺らぎ、かつての感情が少しずつ表面に浮かび上がってくるのを感じた。
「距離を置いた?あなたの父が母さんの小川を汚したのに…そんな言葉で済むと思う?」
彼女の声に込められた怒りと悲しみは、年月を経ても薄れていなかった。むしろその感情は結晶化し、より鋭い刃となっていた。
「俺は知らなかったんだ。父のしたことを…俺が償うよ。エリザ、君を失いたくない」
アランの言葉は切実で、その声には若い頃の熱意と、大人になった男の決意が混じっていた。瞳は真っ直ぐエリザを見つめ、そこに嘘はなかった。
エリザは一歩後ずさり、声を震わせた。
「償う?母さんを返せるの?」
その言葉には皮肉だけでなく、本当の疑問も含まれていた。失われたものを取り戻す方法があるのなら、彼女はそれを知りたかった。
「復讐じゃ何も変わらない。俺と一緒に…新しい道を」
彼は手を差し出した。掌には細かな傷が刻まれていた。研究者として実験を重ねてきた証だろう。その手は若い頃よりも大きく、強くなっていた。
エリザの瞳が揺れ、アランの青い目を見つめた。8年前に別れた少年は、今や決意に満ちた男となっていた。彼女の中で過去と現在が交錯し、固く閉ざした心の扉が少しだけ開きかけるのを感じた。
「アラン…」
彼女の声は柔らかくなり、その一言に多くの感情が込められていた。
休憩時間、二人は会場の外に出た。イチョウの葉が黄金色に舞い落ち、東京湾の水面が夕陽に照らされて輝いていた。水面に映る高層ビルが揺れ、光と影が美しい模様を描いていた。
アランが静かに口を開いた。
「エリザ、俺は本気だ。君と一緒にいたい。ナノマシンを…再生のために使おう」
彼の声には確信があり、目は未来を見据えていた。
エリザは拾ったイチョウの葉の葉脈をなぞりながら言った。
「再生…母さんの小川はもう戻らないよ」
その言葉には諦めと、科学者としての冷静な分析が混じっていた。
アランはポケットから小さな薄紙に挟まれたチューリップの押し花を取り出し、そっと彼女に差し出した。
「君の母さんが好きだった花だろ?」
花弁は薄く押し潰され、かつての赤い色が淡く残っていた。時間を超えて保存された生命の形に、エリザは言葉を失った。
彼女はそれを静かに受け取り、目を細めた。
「母さんの…チューリップ」
その一言には、長い年月を経て初めて見せた弱さがあった。硬く閉ざした表情に、柔らかさが差し込んだ。
「アラン…あなた、変わったの?」
彼女の声には疑いと共に、信じたいという願いも含まれていた。エリザ自身、科学者として変わったように、アランもまた変わりうるのではないかという希望が芽生えた。
アランは彼女の手をそっと握り、真摯に言った。
「俺を信じてくれ。君を守りたい」
温もりがエリザの指に伝わり、不思議と安心感が広がった。肌と肌の接触という単純な行為が、言葉以上の力を持つことに気づいた。緑の瞳に涙が浮かび、心の中で問いかけた。
『母さん、私…どうすればいい?』
夕陽が二人の影を長く地面に伸ばし、イチョウの葉が風に舞い上がった。その瞬間、彼女の心に小さな春が訪れたのかもしれなかった。
2038年7月26日、午後2時 - セクター7分室、地下通路
ティム一行は副制御室の地下階段を降り、冷たい空気が漂う暗い通路に足を踏み入れていた。階段の石は滑りやすく、苔が表面を覆い、湿った感触が靴底を通して伝わってきた。壁からは水が染み出し、小さな滴が床に落ちて規則的な音を立てていた。
裸電球が弱いオレンジ色の光を不規則に放ち、壁に長い影を作り出していた。数メートル先は暗闇に包まれ、天井は低く、閉塞感を強めていた。
ティムはプラズマ砲を肩に担ぎ、静かに言った。
「レイナの言った実験ドームは、この先にあるはずだ」
額の汗がジャケットを重く感じさせていたが、彼の意志は揺るがなかった。メアリーは子供たちを身近に寄せ、警戒しながら囁いた。
「気を抜かないで。ナノマシンがまだ近くにいるわ」
彼女の声は小さいが力強く、冷静さを保っていた。眼鏡の曇りを拭う仕草に、落ち着きを取り戻そうとする意志が見えた。
アールは暗い通路に恐怖を感じながらも、小さく呟いた。
「パパ、暗いよ…怖い」
通路の奥から、低く唸るような音が聞こえてきた。空気が振動し、床が微かに揺れる。その音は機械的でありながら、どこか生き物の呼吸のようだった。
ティムは足を止め、「何か来るぞ、準備しろ」と声を上げた。プラズマ砲の緑色の照準光が暗闇を貫き、彼の体が家族を守るように前に出た。
突然、通路の天井から黒い粒子が雨のように降り注ぎ、床で蠢きながら人型に変形し始めた。液体金属のような流れるような動きで形を作り、人の姿に近づいていった。
身の丈2メートルほどのヒト型ナノマシンが姿を現し、表面は波のように揺れ動き、目に見立てた赤い光が点滅していた。人間を模しながらも、完全に異質な存在感を放っていた。腕が伸び、刃物のように鋭く変形した。
警備員が一歩前に出て、「下がれ!俺が引きつける」と叫んだ。装甲スーツのプラズマ砲を発射すると、緑色の光弾が命中し、爆発音が通路に響いた。しかし、黒い粒子はすぐに再構成され、元の形に戻っていった。
「くそっ、効かねえのか!」
警備員は腕からブレードを展開し、突進した。金属と金属がぶつかる音が通路を震わせ、火花が散った。スーツに深い傷が刻まれ、血が滲み始めた。
「ティム、行け!俺が時間を稼ぐ!」
警備員はナノマシンを押さえつけようとしたが、黒い粒子がスーツの隙間から侵入し、装甲が溶け始めた。
「熱い…!」
叫び声が通路に響き、スーツが崩れ落ちた。彼の犠牲が一行に逃げる時間を与え、勇気ある行動が全員の心に刻まれた。
ティムは「急げ!実験ドームまであと少しだ!」と叫び、一行を率いて走り始めた。プラズマ砲の発射音と共に、ヒト型ナノマシンの動きを一時的に阻んだ。
メアリーが突然足を止め、「ティム、右の通路に何か見える!」と言った。鋭い観察眼が暗闇の中で何かを捉えていた。
指差す先の壁には小さなパネルが光り、「River」と入力する欄が表示されていた。青白い光が通路を照らしていた。
アールが「レイナさんが…『River』って言ってた!」と思い出し、パネルに駆け寄った。科学への興味が恐怖を忘れさせたようだった。
「River」と入力すると、金属音が響き、壁がスライドして隠された通路が現れた。冷たい風が吹き込み、遠くで水の流れる音が聞こえた。地下深くでそのような音を聞くことの違和感に、全員が一瞬立ち止まった。
ヴァージニアは「レイナさんの導きだよ、急ごう!」と言い、スケッチブックを抱える手に力が入った。
ティムは「全員入れ!俺が最後だ」と命じ、プラズマ砲でナノマシンを足止めしながら後退した。
住民たちが隠し通路に飛び込み、ジュディは「ウーちゃん、パパを待ってて!」と小さく叫んだ。
壁が再び閉まり、ナノマシンの刃がコンクリートを削る音が背後で響いたが、内部には届かなかった。
ティムは肩で息をしながら「警備員…ありがとう」と呟いた。目に感謝と悲しみの色が混じっていた。
一行は暗い通路を進み、遠くに見える光と小川の音に導かれるように歩いていった。足音が通路に響き、心臓の鼓動が早まる。未知なるものへの恐怖と期待が入り混じった緊張が全員を包んでいた。
2015年秋~2016年、イギリス - 新たな始まり
エリザとアランは東京での再会から数週間後、連絡を取り合うようになっていた。最初は学会の議論という名目だったが、次第に話題は個人的なものへと変わっていった。
東京の浅草、仲見世通りを二人で歩く。提灯の赤い光が石畳を照らし、屋台からは甘い煎餅の香りが漂っていた。通りは観光客で賑わい、その中に二人の姿が溶け込んでいった。
エリザは黒いコートを纏い、金髪が肩に流れていた。表情には少しずつ柔らかさが戻りつつあった。アランは「煎餅食べる?」と袋を揺らし、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
「…別にいらないよ」
エリザは素っ気なく答えたが、アランは「一口だけだって」と勧め、彼女は渋々受け取った。醤油の香ばしさが口に広がる。
「…まあ、悪くないかな」
彼女の唇の端が微かに上がり、心が軽くなるのを感じた。8年間閉ざしていた心が、少しずつ開きつつあった。
浅草寺の境内に入ると、巨大な提灯が門に吊るされていた。アランが「願い事しない?」と誘い、青い目が彼女を見つめていた。
エリザは首を横に振った。
「願いなんて…叶うわけない」
2004年の黒い小川の記憶が脳裏をよぎるが、アランが彼女の手を取って前に進んだ。彼の手の温もりが心地よく感じられた。
「俺はさ、君と一緒にいたいって願うよ」
アランは5円玉を投げ、軽やかな音が響いた。エリザの心に微かな希望が灯った。
「アラン…バカっぽいね」
彼女も5円玉を握りしめ、小さく呟いた。
「母さん…私、間違ってないよね?」
賽銭箱に投げると、1998年の澄んだ小川の記憶が一瞬よみがえり、母の笑顔が心に重なった。
12月、渋谷のクリスマスイルミネーションの下を歩く二人。青と白のLEDが街を彩り、カップルたちの笑い声が響いていた。東京の冬の夜は冷たかったが、二人の間の空気は温かだった。
エリザは少し照れたように言った。
「クリスマスなんて…どうでもいいよ」
するとアランが小さな箱を差し出した。青いリボンの白い箱が、街の光を反射していた。
「エリザ、メリークリスマス」
箱を開けると、銀のペンダントが入っており、その表面にはチューリップのモチーフが刻まれていた。花びらの一枚一枚まで精巧に表現されていた。
「母さんの…チューリップ?」
エリザは呟き、瞳が震えた。枯れた庭の記憶が重なり、胸が痛んだ。失われた母との繋がりを、アランが形にして返してくれたことに深い感動を覚えた。
アランが優しく言った。
「君が笑ってくれるように…って思ってさ」
エリザはペンダントを握りしめ、小さく「ありがと」と言った。言葉に震えがあったが、心からの笑顔を見せた。その表情は彼女自身をも驚かせるほど自然なもので、忘れていた感情が蘇ってくるのを感じた。
2017年春、エリザとアランはイギリスの小さな教会で結婚式を挙げた。石造りの教会には歴史の重みがあり、ステンドグラスから差し込む光が床に色とりどりの模様を描いていた。
エリザはシンプルな白いドレスを身にまとい、金髪はゆるやかに肩に落ちていた。瞳には幸福感が宿り、手に持ったブーケには母が愛したチューリップが添えられていた。
アランは黒いタキシードを着こなし、青い目が温かく彼女を見つめていた。
牧師の「愛を誓いますか」という問いかけに、アランは迷いなく「誓います」と答えた。
エリザは一瞬目を閉じ、心の中で母に語りかけた。
『母さん…私、幸せになってもいいよね?』
母の願いは自然を守ることだけでなく、娘の幸せでもあったはずだと、彼女は今なら理解できた。そして静かに目を開け、「うん、誓うよ」と応えた。声には揺るぎない決意があり、幸せへの権利を自らに認めた瞬間だった。
涙がゆっくりと頬を伝い、ドレスの裾に落ちていった。それは悲しみの涙ではなく、長い冬を越えて迎えた春の訪れを祝福する温かな涙だった。
サラの誕生と地下実験ドーム
2018年夏、エリザとアランの間に娘が生まれた。彼らは「サラ」と名付けた。病院のベッドでエリザは新生児を抱き、その温もりと重さが彼女に現実感をもたらした。
腕の中の赤ちゃんは白い毛布に包まれ、小さな手が時折動いていた。蝋細工のように完璧な指が空気を掴もうとしている。柔らかな産毛に覆われた頭、まだ見ぬ世界への好奇心が眠る閉じた瞼。
「サラ…私の宝物だよ」
エリザの声は感情で震え、母親になる経験は科学者としての冷静さを超えた本能的な喜びと責任感をもたらした。
アランはベッドの横に座り、妻と娘を優しく見つめていた。疲れた表情にも幸せが溢れていた。
「エリザ、よく頑張ったね。サラ、最高にかわいい」
彼の声には感動と誇りが混じり、手がそっとサラの頬に触れた。その接触が三人の絆を確かなものにしていた。
エリザは小さく呟いた。
「母さん…私、お母さんになっちゃった」
涙が頬を伝い、胸に広がる愛情が彼女を包み込んだ。失われた母への思いと、生まれた娘への愛が重なり合い、彼女の心に完全な円を描いた。
2019年、エリザとアランはサラを連れて、ドーセットのウェイド・インダストリーズ地下実験ドームを訪れた。アランが父親の会社を継いだ後、最初のプロジェクトとして建設したものだった。
実験ドームの入り口は森の奥に巧みに隠され、苔に覆われた鉄の扉は自然と一体化していた。周囲の木々が入り口を隠し、秘密の場所のような雰囲気を醸し出していた。
ドーム内部は広大な空間が広がり、天井の人工光源から青白い光が降り注いでいた。太陽光を模して作られ、植物の成長に必要な波長を完璧に再現していた。
中央には小さな小川が人工的に作られ、水面が光に照らされて揺らめいていた。水は透明で、底の小石まではっきりと見え、かつてエリザが母と過ごした小川の姿を正確に再現していた。
両岸にはチューリップが咲き誇り、赤と黄色の鮮やかな花が並んでいた。花びらは光を反射し、水面に映り込んでいた。
エリザは感慨深げに呟いた。
「母さんの小川…ここで再現したんだ」
記憶が鮮明に蘇り、母と手をつないだ夏の日々が重なった。失われたものを科学の力で取り戻す試み。それは彼女の復讐から再生への旅の集大成だった。
アランは彼女の側に立ち、微笑みながら言った。
「エリザ、すごいよ。サラにも見せたいね」
腕の中のサラは好奇心に満ちた目で空間を見回し、「あー」と声を上げた。まだ言葉を話せない幼い娘だが、その目には母譲りの鋭い観察力が宿っていた。
エリザは小川のそばに膝をつき、水面に映る自分の姿を見つめながら静かに語りかけた。
「母さん…私、家族ができたよ」
水面に映る三人の姿がゆらゆらと揺れ、愛情が彼女の心を温かく包み込んだ。かつて冷たく閉ざしていた心が、今は愛で満たされていた。
感謝の涙が一滴、透明な水に落ち、小さな波紋を広げていった。その波紋は過去から未来へ、母からサラへと繋がる命の連鎖を象徴しているようだった。
やがてサラは成長するにつれ、母と同じく絵を描くことを好むようになった。チューリップや小川の絵を描いては、エリザに「きれい?」と尋ねる姿に、自分の幼い頃を重ねていた。
緑の瞳を持ち、金髪を風になびかせるサラは、若かりし日のエリザを映す鏡のようだった。しかし、その瞳には彼女が経験したような痛みはなく、純粋な喜びと好奇心が満ちていた。
エリザは娘に母の教えを伝え、科学と自然の調和の大切さを教えていった。それは失われた母との約束を果たす方法でもあった。
セクター7分室、2038年7月26日、午後3時 - 実験ドームへの到着
ティム一行は隠された通路をさらに進み、冷たい空気が流れる中、息が白く結露していた。足音が石の床を叩き、静寂の中で異様に大きく響いた。
ティムは警戒しながら前進し、「もうすぐだ…光が見える」と呟いた。額の汗を拭い、目を細めて先を見つめた。プラズマ砲を構える手に緊張で力が入っていた。
通路の先からは水の流れる音が大きくなり、光も強まっていった。不思議な違和感が全員の心を捉え、現実とは思えない感覚を覚えさせた。
遠くから鳥のさえずりのような音が聞こえ、不思議な違和感を一行に与えた。地下深くで鳥の声を聞くという非現実的な体験に、皆が立ち止まりそうになる。
ティムが足を止め、驚いた声を上げた。
「この音…川の音だ」
プラズマ砲を下ろし、耳を澄ませる。確かに小川のせせらぎと鳥の鳴き声が聞こえていた。地下でそのような自然音が響くことの不思議さに一同が静まり返った。
メアリーが「ティム…」と呟き、眼鏡の奥の目に驚きの色が浮かんだ。科学者としての常識が、目の前の現象を理解できずにいた。
ヴァージニアが「バンガロー近くの川みたいだよ」と言い、スケッチブックをめくった。描かれていた小川の絵と聞こえてくる音が奇妙に一致していた。
一行はさらに通路を進み、ついに光の源に辿り着いた。通路が突然広がり、目の前に広大な空間が開けた。
「これは…」
ティムの声が途切れた。鋼鉄と科学が支配するセクター7の地下で、まるで異世界のような光景が広がっていた。
広大な地下ドームの天井には、太陽のように明るい人工光源が取り付けられていた。青空のような錯覚を覚えさせる天井が、自然の完璧な再現を目指していた。
中央には小川が流れ、透き通った水が石を打ち、心地よい音を奏でていた。水面下の小石まではっきりと見え、時折魚が尾を振って泳ぐ姿も見えた。
小川の両岸には赤と黄色のチューリップが咲き誇り、その香りが空気に溶け込んでいた。花びらは光を受けて輝き、まるで宝石のように見えた。周囲には他の野花も咲き、色彩が目を楽しませていた。
メアリーが震える声で言った。
「これは…ドーセットの森の小川」
彼女の目に涙が浮かび、ヴァージニアがスケッチブックを開いて確認するように見比べた。
「同じだよ…私が描いた小川と同じ」
彼女の緑の瞳が驚きで見開かれ、スケッチブックのページをめくると、そこにはこの光景そのものが描かれていた。鉛筆の線が現実と重なり、不思議な一致が全員を驚かせた。
アールが「どうして?」と尋ね、科学的好奇心と子供らしい驚きが混ざった表情を浮かべていた。
ジュディは「きれい…」と呟いた。幼い彼女の目に映る光景は純粋に美しく、単純な喜びを与えていた。
ティムが小川に近づき、水に手を浸した。冷たい感触が指先から手首に伝わり、まるで本物の小川のようだった。水は冷たく透明で、指の間を流れる感触はあまりにもリアルだった。
「これが…エリザの秘密か」
ドームの壁には多くのコンピューター画面が埋め込まれ、ナノマシンの制御システムが並んでいた。高度な科学技術と自然の完璧な再現が、奇妙な対比を見せていた。
中心に一つの大きなコンソールがあり、画面にはエリザとアラン、そして幼い女の子の写真が表示されていた。三人は笑顔で、互いに寄り添う幸せな家族の姿だった。
メアリーが近づき、「これは…」と呟いた。
「エリザの家族?彼女にも家族がいたの?」
彼女の声には驚きと共感が混じり、一人の母親として別の母親の写真を見つめる目には理解の色が浮かんでいた。
写真の女の子は金髪に緑の瞳を持ち、母親によく似た姿で笑っていた。手にはスケッチブックを持ち、誇らしげに掲げている。瞳には純粋な喜びが輝いていた。
「この子…ヴァージニアに似てる」
メアリーの言葉に、ヴァージニアが写真を覗き込んだ。確かに、彼女とこの少女には不思議な共通点があった。同じ緑の瞳、金髪、そして絵を描くことへの情熱。それは偶然なのか、それとも何か深い意味があるのか、誰にも分からなかった。
ティムがコンソールの側面に取り付けられた日誌を見つけ、開いた。埃をかぶった表紙を開くと、きれいな筆跡で記された文字が現れた。
「2019年、ドーセット実験ドーム完成。サラのために母の小川を再現」
彼は読み上げ、全員に向かって言った。
「エリザには娘がいたんだ。サラという名の」
彼らの前に広がる人工の楽園は、エリザが失った過去への郷愁と、娘に伝えたかった母の記憶を形にしたものだった。科学の力で失われた自然を再現し、新しい世代に伝えようとする試み。
水面に映る光が揺らめき、流れる水の音が静かに響く中、ティム一家は自分たちとエリザの過去が運命的に繋がっていることを感じ始めていた。ヴァージニアとサラの類似性、レイナとエリザの関係、そしてこの場所に導かれた理由。
遠くからナノマシンの唸り声が再び聞こえ始め、彼らはこの場所に隠された真実を見つけ出さなければならなかった。ドームの天井に小さなひびが走り、黒い粒子が少しずつ降り始めていた。
「この小川…レイナはこれを私たちに見せたかったんだ。何か意味がある」
ティムの目は小川から写真、そしてコンソールへと移り、それらを繋ぐ糸を必死に探していた。
彼らの運命とエリザの過去が交差する決定的な瞬間が、今まさに訪れようとしていた。
地下ドームの小川が青白い光を放つ中、ティムはコンソールの奥に隠された扉を見つける。「封印エリア」と刻まれたプレートが錆び、赤い結晶が脈打つ。アールがコンソールを叩くと、扉が軋みながら開く。薄暗い部屋は埃が舞い、壁に古いデータパッドが並ぶ。中央に立つのはハーヴェイ。灰色のローブが揺れ、単眼鏡の目が家族を捉える。杖を突く手が震え、知性の宿った目に深い後悔が宿る。「マクレーン…また会えたな。」
ティムが拳を握り、「爺さん、なぜここに?」と問う。ハーヴェイは低い声で答える。
「エリザは私がレイナのメモを解析したと疑い、フェスティバル後にこのエリアに幽閉した。だが、レイナが残したメッセージを届けるためだ。」
データパッドを起動し、2004年の映像が映る——エリザの母マーガレットがウェイド・インダストリーズの工場の前で「自然を守れ!」と叫び、プラカードを掲げる。ハーヴェイの声が重く響く。
「エリザの夢は自然を守ることだった。だがウェイドがそれを無視し、彼女の心を壊した。」
映像はマーガレットの葬式に切り替わり、14歳のエリザの憎しみが映る。「彼女は人間を憎んでいたが、サラのスケッチに希望を見ていた。」
ヴァージニアがスケッチブックを握り、「サラの絵…私のと同じ?」と呟く。ハーヴェイは頷き、
「お前たちの絆がエリザを救う鍵だ。レイナが解析したオメガパルス—ナノマシンの自我を停止するコード—がこのドームのコンソールに隠されている。彼女は死ぬ前、記録保管室に断片を残した。それを私が解析した。」遠くでナノマシンの唸り声が響き、ハーヴェイの目が翳る。
「私はエリザのナノマシン研究を黙認し、大崩壊を招いた。レイナの希望がお前たちに私の罪を償わせる。急げ。エリザが全てを灰にする前に。」
ティムが家族を見回し、「爺さんの言う通りだ。行くぞ。」と決意を固める。ハーヴェイは杖を握り、
「私の罪も…お前たちに託す。」
と呟き、影に消える。
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