第24話 光と影の交錯
ドーセット、2007年春~秋 / セクター7、2038年7月26日
春の陽光がドーセット高校の校庭を照らし、芝生は若々しい緑に染まっていた。しかしその輝きも、遠くの工場煙突から立ち上る煙の影に時折覆われた。風に揺れるタンポポの綿毛が光を集め、小さな宝石のように空へと舞い上がる様子は、壊れつつある自然の中でなお命を繋ごうとする強さを感じさせた。
校舎の赤レンガは工場の煤で黒ずみ、窓枠のペンキは剥がれていた。指でレンガに触れると、黒い粉が付着し、呼吸するたびに喉奥が痛んだ。遠くには森の奥に聳えるウェイド・インダストリーズの煙突が見え、そこから立ち上る黒煙が空を侵食していた。
エリザ・コート、17歳。
彼女はベンチに腰を下ろし、スケッチブックを膝に抱えていた。緑の瞳は鋭く、常に警戒するように周囲を見回している。内に秘めた怒りが時折目に宿る炎となって現れた。鉛筆が紙の上を走り、かつての小川を描き出すが、それは澄んだ水ではなく、黒い線で塗りつぶされていた。
「人間は愚かだ」
エリザは低く冷たい声で呟いた。その声には14歳で母を失った少女の痛みと、3年の時を経て硬く結晶化した怒りが含まれていた。遠くから女子生徒たちの笑い声が断片的に届き、彼女の耳に刺さった。
「エリザって暗いよね」「母さん死んでからおかしくなった」
その声に、彼女は唇を噛んだ。歯が唇に食い込み、微かな痛みが走るが、その痛みは心の傷に比べれば取るに足らなかった。
『母さんの小川を…守れなかった』
心の中で呟き、スケッチブックの黒い線を濃くした。
そこへ一人の若者が近づいてきた。アラン・ウェイド、18歳。茶色の髪が風に揺れ、青い目が温かな光を放っていた。肩幅の広い体に紺色のブレザーを着こなし、笑顔には優しさが満ちていた。
「ねえ、君、エリザ…エリザ・コートだろ?絵が上手いんだね」
アランの声は明るく、穏やかだった。エリザは顔を上げ、緑の瞳で彼を鋭く見据えた。
「誰?ただの落書きだよ」
エリザの声は冷たく、スケッチブックを素早く閉じた。表紙が閉じる音が乾いた響きを立て、その動作には他人を寄せ付けない意志が表れていた。
「ごめん、驚かせた。俺、アラン・ウェイド。生物学のクラスで一緒だろ?君のスケッチをチラっと見たよ、エリザは自然が好きなんだね。俺もだよ」
アランはためらうことなく言葉を継ぎ、その表情に嘘や打算が見られなかった。風が彼の髪を揺らし、額に落ちた前髪をそっと手で払う仕草に無邪気さが感じられた。エリザの目が微かに揺らいだ。不意に彼の名字が脳裏に引っかかる。
「どうでもいいよ」
彼女は無愛想に答えたが、その声には以前の鋭さが少し欠けていた。話しかけられることに慣れていない彼女は戸惑いを覚えた。
アランはベンチに座り、彼女に語りかけた。彼の肩がエリザの肩に触れそうになり、彼女は反射的に体を引いた。
「一緒に森に行かない?自然を見ると、気分が良くなると思うよ」
アランは熱心に誘った。その目には純粋な好奇心と優しさがあり、エリザは不思議と脅威を感じなかった。彼女はアランの青い目をじっと見つめ、そこに嘘がないことを感じ取った。目は人の心を映す窓だと母はよく言っていた。
「…一度だけなら」
エリザは警戒心を捨てきれないまま答えた。
『どうせすぐ裏切るよね。みんなそうだったから』
心の奥で警告のベルが鳴っていたが、アランの誠実さに少しだけ心を開いてみようと思った。
週末、エリザはアランとドーセットの森へ向かった。苔むした古いオークの木々が聳え立ち、木漏れ日が地面に斑模様を描いていた。光と影の対比が、過去の幸せな記憶と現在の暗さを象徴しているようだった。小川の名残が細く流れ、かつての澄んだ水面は消え、底の小石も曇って見えるだけだった。
アランが「こっちだよ!」と手を振った。彼の声には子供のような無邪気さがあり、それが森の静けさに生命を吹き込むようだった。エリザはスカートが枝に引っかからないよう気にしながら歩いた。
アランが立ち止まり、キツツキが木を叩く姿を指さした。赤い頭が素早く動き、コツコツという音が規則的に響く。木屑が地面に舞い落ち、太陽の光を浴びて輝いていた。
「生きてる」
エリザは小さく呟き、心が不思議と軽くなった。鳥の動きに宿る生命力が、彼女の内側に忘れかけていた感情を呼び覚ました。
『母さんが愛した自然みたい』
かつて母と森を歩いた記憶が鮮明に蘇り、胸が痛むような懐かしさで満たされた。アランが双眼鏡を手渡し、「もっと近くで見てみて」と促した。
エリザは恐る恐る双眼鏡を受け取った。アランの指が彼女の指に触れ、意外な温かさを感じる。双眼鏡を覗くと、キツツキの姿が大きく映し出され、羽根の一枚一枚まで鮮明に見えた。鳥の目は鋭く、生きることへの本能的な強さを感じさせた。
「こんなにきれいなんだ」
エリザの声には驚きが混じり、心が一瞬明るくなった。三年間閉ざしていた心の窓が少しだけ開いたような感覚だった。アランは木の下に腰を下ろし、彼女のスケッチブックを手に取った。
「これ、小川?」
アランは真剣な表情でスケッチを見つめた。黒く描かれた水面に、彼の眉が少し寄る。
「うん」
エリザは短く答えた。その「うん」には過去への後悔と、誰かに理解してほしいという願いが込められていた。
「僕の家の近くにも川があるよ。夏は蛍が飛ぶんだ」
アランの声には懐かしさと喜びが混じり、目が夢見るように遠くを見つめた。
「父と?」
エリザは思わず聞き返し、心に鋭い痛みを感じた。父ジェームズとの冷たい関係が頭をよぎる。母の死後、彼らの間には越えられない壁が生まれていた。
「うん、楽しかったよ」
アランの無邪気な返事が彼女の心を刺した。父との思い出を語る彼の幸せそうな表情と、自分の状況との違いが、羨望となって胸に広がった。
エリザは黙り込み、スケッチブックの汚れた小川を見つめた。指先が紙の上を撫で、そこに描かれた暗い水面が、今の自分の心を映しているように感じた。
『母さんとの時間はもう戻らない。でも…』
不思議なことに、アランと過ごす時間が少しずつ彼女の心を解きほぐしていくのを感じ始めていた。
逢瀬は続き、やがて毎週森で会うようになった。当初の「一度だけ」という言葉は忘れられ、エリザは次第にアランとの時間を楽しみにするようになった。六月の終わり、アランは野に咲く花を摘んでいた。紫色の小さな野花が彼の指の間で揺れ、森の緑によく映えていた。
「君に似合うよ」
アランはエリザの髪に花を挿した。その仕草には優しさと敬意があり、彼女は思わず顔を赤らめた。花の香りが鼻をくすぐり、心地よさを感じた。
「バカみたい」
エリザは小さく呟いたが、心は温かさで満たされていた。言葉とは裏腹に、彼女の顔には微笑みが浮かんでいた。
『母さんのチューリップみたい』
母が庭で育てていたチューリップの記憶が鮮やかに蘇り、その記憶は今や痛みではなく、温かな懐かしさとして胸に広がった。彼女の頬が薄く赤くなり、三年ぶりの心からの笑顔がこぼれた。
木陰に座り、アランがスケッチブックに手を伸ばす。そのページには黒い線だけでなく、緑や青の色が戻り始めていた。
「見せてよ」
「やめて」
エリザは反射的に言ったが、その声に本気の拒絶はなく、むしろ照れが含まれていた。アランはそっとスケッチブックを開き、そこに描かれた小川と森の絵を見つめた。
「君の心が見えるみたいだ」
アランの素直な感想に、エリザは顔を赤らめた。自分の内面を見られるという経験は新しく、怖くもあり、同時に解放感も感じた。
「何!?見ないでよ」
エリザは慌ててスケッチブックを閉じたが、その動作には以前の攻撃性はなく、照れ隠しのようだった。
学校では、エリザはいつも孤立していた。教室の隅でスケッチブックを開き、窓から見える工場の煙突を見つめるのが日課だった。そこへアランが近づき、「一緒に食べない?」と誘ってきた。彼の手には二つの弁当箱があり、片方を彼女に差し出した。
「一人でいい」
エリザは習慣的に拒絶したが、その声には確信がなかった。彼女の心は少しずつアランに対して開いていることを自覚していた。
アランはそれを気にせず隣に座った。弁当箱から立ち上る湯気と共に、温かい香りが広がった。空腹感を刺激され、思わず喉が鳴った。
「君、笑わないね」
アランは真剣な表情で言った。彼の目は彼女の心の奥まで見通しているようだった。
「笑う理由がないよ」
エリザは小さく答えた。以前のような攻撃的な調子はなく、むしろ寂しさを含んでいた。
「僕が理由になるよ」
アランの言葉に、エリザの緑の瞳が揺らぎ、唇の端がわずかに上がった。それは笑顔と呼ぶには小さすぎるものだったが、長い冬の後の最初の芽吹きのように貴重だった。
「…少しだけなら」
彼女の声は小さく、しかし確かな変化を告げていた。
『母さんも笑ってほしいって言ってたよね。きっと今も見てるなら、喜んでくれるかな』
笑顔を忘れていた少女の心に、小さな温かさが芽生えていた。
家では、エリザと父ジェームズの距離は広がる一方だった。夕食時、テーブルには冷めたスープが置かれ、父は無言でテレビを見つめていた。かつては家族の団欒の場だったダイニングテーブルが、今や二人の間の距離を象徴するような冷たい場所になっていた。
「学校はどうだ」
父の声は疲れていて、質問は形式的だった。目はテレビに向けられたまま、娘を見ようとしない。
「普通」
エリザも同様に短く返した。その「普通」という言葉の中に、アランとの出会いや森での時間は含まれていなかった。それは自分だけの、誰にも汚されたくない宝物のようだった。
母のいない食卓では、スプーンが皿に当たる音だけが静寂を破っていた。二人は同じ空間にいながら、異なる世界に住んでいるようだった。
七月の夕暮れ、森の丘で二人は並んで座っていた。夕日が木々を赤く染め、空がオレンジに燃えていた。雲は薄い金色に輝き、生暖かい風が肌を撫でていた。
アランが真剣な表情でエリザを見つめた。
「エリザ、君は暗い目をしてる。でも、笑ってほしい」
彼の声は静かだが、力強かった。エリザは膝を抱え、夕日を見つめた。
「笑う理由なんてないよ」
エリザは低く答えたが、その声は以前のような冷たさではなく、悲しみを含んでいた。心の奥にある傷が言葉に滲んだ。
「僕が理由になる。それじゃダメかな?」
アランが彼女の手を握り、温かさが指先から伝わってきた。彼の掌は少し荒く、小さな傷があったが、その温もりは彼女の心に染み入った。エリザは驚いたが、手を引くことはしなかった。
「こんな何もできない嫌われ者なのに…」
長い間心の奥に押し込めてきた言葉が、突然の親密さに触発されて口から漏れた。声には怒りより深い悲しみが込められていた。
「僕は違うよ。君を守りたい」
アランの言葉に、エリザは複雑な感情を覚えながらも、彼の手を握り返した。その温かさは母の手を思い出させ、忘れていた安心感が全身を包み込んだ。
『母さんが信じた優しさって、こんな感じだったのかな』
彼女は小さく呟き、胸に広がる温かさを少しずつ受け入れ始めた。
「エリザ、君が笑うなら、僕、何でもするよ」
アランの声には切実さがあり、瞳には純粋な思いが宿っていた。
「何でもって…バカみたい」
エリザは言葉で拒絶しながらも、心では彼の思いを受け止めていた。
アランは静かに彼女に近づき、額に軽くキスをした。風が二人の髪を絡ませ、金髪と茶色が夕日の中で交じり合った。その瞬間、エリザの心に母の死以来初めて、幸せという感情が訪れた。
「君が大好きだよ、エリザ」
アランの言葉は風に乗って彼女の心に届き、凍えていた感情を少しずつ溶かしていった。
「…何?」
エリザは小さく返したが、その言葉には拒絶ではなく、信じられない思いが込められていた。心がほどけていくような不思議な感覚に包まれる。
二人は草の上に寝転がり、空を見上げた。最初の星が瞬き始め、アランの肩に触れる感覚に安心感を覚えた。
「いつか君を蛍の川に連れて行くよ」
アランは夢を語るように言った。その声には未来への希望が込められていた。
「蛍…見たい」
エリザは小さく答えた。その言葉は、彼女が初めて口にした素直な願いだった。母の笑顔が脳裏に浮かび、「エリザ、笑って」という声が聞こえるような気がした。
『アランと一緒なら、笑えるかも…』
彼女の心に、小さな春の芽が育ち始めていた。
夜、家に戻ったエリザは母の指輪を握りしめ、呟いた。
「母さん、私、アランを信じていいよね?」
銀の冷たさが指に伝わり、心が揺れた。母の死以来、人を信じることが怖かった彼女にとって、アランへの思いは未知の領域だった。
『彼は違うよね。母さんが見たら、きっと喜ぶよね』
そんな思いを抱きながら、彼女は母への思慕と新しい感情の間で揺れ動いていた。
八月、森で会ったアランは何か考え込むような様子だった。眉間に皺が寄り、視線が落ち着かない。その異変にエリザは敏感に気づいた。
「父が何か計画してるみたい」
アランは言いよどんだ。その声には不安と罪悪感が混じっていた。
「計画?」
エリザは首を傾げ、胸が締め付けられるような予感がした。
「森の一部を使うらしい」
アランの言葉は曖昧だったが、エリザの心に警鐘を鳴らした。
学校に戻ると、噂が広がっていた。廊下や教室での小さな会話が彼女の耳に届く。
「ウェイド家が工場の拡張の為に森を伐採するらしい」
その言葉を耳にしたエリザは凍りついた。脳裏に母の抗議活動が蘇り、心臓が激しく鼓動した。顔から血の気が引き、青ざめていく。あの小川が、あの森が、またウェイド家によって破壊される—。彼女はアランに詰め寄った。
「あんた、あのウェイド家の子なの?」
エリザの声は怒りに震え、目には裏切りの痛みが浮かんでいた。
「…そうだよ。でも、僕はそのつもりじゃなかった」
アランの顔は青ざめ、目には苦悩が宿った。肩が落ち、声は弱々しかった。
「母さんを殺した工場の子があんただったの?」
エリザの声は途切れがちになり、胸の奥から怒りが込み上げた。死んだと思っていた感情が再び燃え上がり、体を震わせた。
「知らなかったんだ!僕の父がそんなことしたなんて…」
アランは必死に弁解したが、エリザの耳には届かなかった。彼女の中で、母の死と工場の煙突、そしてアランの存在が一つに繋がり、怒りと裏切りの感情が渦巻いた。
「知らなかったって…あんたの家の金で生きてるのに?」
エリザの声は冷たく尖り、かつての氷のような目が戻っていた。信頼を裏切られた痛みが、彼女をさらに硬く閉ざしていく。
「アラン…私はあんたを信じてたのに」
その言葉には激しい非難と悲しみが含まれていた。初めて心を開いた相手が、最も信じられない人物だったという皮肉。それは彼女の心に新たな傷を刻んだ。
九月、ドーセットの森での最後の日。
遠くから伐採の機械音が響き、森を切り裂いていた。金属が木に噛み込む音と、倒れる木の悲鳴のような音が空気を震わせた。エリザは森の縁に立ち、遠くの機械を見つめていた。黄色い重機が木々を倒し、緑の命が次々と失われていく。
アランはエリザに必死に声をかけた。
「エリザ、待って!僕、父と戦うよ。君のために変わる!」
彼の声には真摯さがあったが、エリザの心は再び氷のように冷たくなっていた。母の死以来築き上げてきた壁が、さらに高く強くなっていた。
「母さんを裏切った人間が何だって?あんたの父が殺したんだ」
エリザの声には怒りと憎しみが混じり、目には涙が浮かんでいた。信じることの痛みを再び味わった彼女は、もう二度と心を開くまいと決めていた。
「ちがう…。僕は君を失いたくない」
アランは泣きそうな顔で彼女を見つめ、手を伸ばした。その手は震え、目には本物の悲しみが浮かんでいた。
「エリザ!僕には君が必要なんだ!」
その叫びには絶望と愛が混じり、森の空気を震わせた。しかしエリザの心は決まっていた。
「遅いよ。あんたには変えられない」
エリザは背を向け、心が暗く沈むのを感じた。再び一人になることの寂しさと、裏切られた痛みが胸を締め付けた。脳裏では小川が黒く濁り、母の姿が水中に沈んでいく。そしてアランの笑顔が、父ウェイドの冷たい顔に変わっていく幻影が彼女を苦しめた。
アランの手は届かなかった。彼は立ち尽くし、エリザが去っていく姿を見つめていた。その背中は小さく、しかし硬い意志を感じさせた。
「人間は変わらない」
エリザは静かに呟き、重い足取りで森を後にした。しかし、離れていく途中で一度だけ振り返り、木々の間に小さく見えるアランの姿を目に焼き付けた。彼の肩は落ち、顔には深い悲しみが浮かんでいた。二人の間に流れる空気には、言葉にならない思いが満ちていた。
涙が頬を伝い、言葉にならない思いが胸に満ちた。
「アラン…」
言葉が途切れ、風に消えていった。最後まで口にできなかった「愛している」という言葉は、彼女の心の奥深くに沈んでいった。
セクター7、2038年7月26日、正午
制御室でエリザが目を閉じ、2007年の記憶を振り返っていた。昔の痛みが今も生々しく感じられ、胸の奥が締め付けられるようだった。
「あの時、私はアランを信じてたのに。ウェイド・インダストリーズが私の全てを奪った」
彼女は静かに呟き、青い瞳を開いてモニターに映るセクター7の危機を冷ややかに見つめた。かつての緑色の瞳は今や氷のような青に変わり、その中には深い痛みと怒りが宿っていた。モニターの光が顔に反射し、頬の傷跡がより鮮明に浮かび上がる。
「母さんの夢を汚した人間に救いはない。ナノマシンは私の刃だ。お前たちに私の痛みを見せてやる」
「ウェイドが私の希望を奪った。そして今、ティム一家がその罪を繰り返す」
一方、ティム一家と住民たちは地下シェルターを出て、分室へ向かう途中だった。セクター7の地下通路は湿ったコンクリートの壁から水滴が染み出し、不安定に揺れる裸電球が通路を照らしていた。
ティムが声を張り上げた。
「急げ!分室まであと少しだ!」
汗で濡れた顔を拭い、肺が燃えるように熱かったが、家族を守る決意が彼に力を与えていた。ショットガンを握る手に力が入り、関節が浮かび上がった。
メアリーは子供たちを近くに引き寄せ、「みんな、離れないで!」と叫んだ。
住民たちも走っていたが、トミーの母親が足を滑らせて倒れた。膝を強く打ち、痛みで顔を歪めた。
「トミー!」
彼女は息子を抱きしめ、身を丸めた。母性の本能が自分より子を守るよう命じた。ナノマシンが腕に触れ、赤い火傷が広がる。皮膚が焼けるような痛みに、彼女は歯を食いしばった。
作業着の女性が「立て!」と手を差し伸べた。その声には威厳があり、パニックの中でも冷静さを失わなかった。
ティムは「もうすぐだ!諦めるな!」と叫び、その声に農場で培った頑固さと、父親としての強さが込められていた。分室の鉄扉が見えてきたが、同時にナノマシンの竜巻も加速し、轟音と共にセクター7全体を飲み込もうとしていた。
空が暗くなり、赤い稲妻が地面を叩き、爆発音が響き渡る。ナノマシンが空気中で形を変え、巨大な鳥の姿で飛翔していた。その姿は死神の翼のようだった。
「急げ!間に合わなくなるぞ!」
ティムは最後の力を振り絞って一行を引っ張り、ついに鉄扉に辿り着いた。扉を開けると、冷たい空気が流れ出し、薄暗い通路が奥へと伸びていた。
ティムは決意に満ちた表情で言った。
「ここでエリザを止める」
彼の瞳には揺るぎない決心が宿っていた。手の皮が裂け、血が滴っていることにも気づかないほど、彼の意識は家族を守ることだけに集中していた。過酷な旅と戦いを経て、ついに真実に近づこうとしている彼らの前に、エリザの過去と現在が交錯する分室への道が開かれていた。
灰色の廊下に浮かぶ赤い警告灯の下で、希望と恐怖が入り混じる空気が満ちていた。彼らの足音が重い静寂を破り、レイナの意志を継ぎ、エリザの怒りに立ち向かう小さな家族の決意が、次の一歩を踏み出そうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます