第5章 エリザの記憶

第22話 純粋な夢と歪んだ刃

ドーセット、1998年夏


エリザ・コート、8歳。


目を覚ますと、古びた木造の家の屋根に厚い苔が這うのが窓越しに見えた。昨夜の雨で深緑に染まった苔の表面が光を柔らかく反射し、その隙間から水滴が軒を叩いて小さな音を立てていた。窓ガラスの細かいひびは蜘蛛の巣のような模様を描き、朝露が七色に屈折させる光を通していた。薪ストーブで温められた部屋には、かすかな樹液の甘い香りが漂っていた。


狭い部屋の壁には母マーガレットが描いたチューリップの水彩画が掛けられていた。色あせた赤と黄色の花は、懐かしい温もりをエリザの心に広げる。彼女は目をこすり、毛布を跳ね除けてベッドから飛び降りた。冷たい床板が裸足に伝わり、木目のざらつきが皮膚を心地よく刺激した。


白いパジャマの裾が膝上で揺れ、金髪が肩に跳ねる。寝ぐせで広がった毛先が頬に触れてくすぐったい。緑の瞳には朝の光が宝石のように映り込み、少しずつ眠気が覚めていく。


「気持ちいいな。ずっとこうならいいのに。外、きれいだよ」


エリザの声は眠気で掠れながらも弾むような響きを持ち、小さな部屋に軽く響いた。窓に近づき、ガラスに息を吹きかけて曇らせ、指で丸を描く。曇ったガラス越しに外の風景がぼやけ、彼女の顔に笑顔がこぼれた。


裏口のドアを開けると木の枠が軋み、朝の空気が冷たく清々しい湿り気と共に押し寄せてきた。チューリップの甘い香りが鼻腔に広がり、大地が目覚めるような匂いが彼女を包み込んだ。


草が足裏に冷たく触れ、朝露で濡れた土が指の間に挟まり、地面に沈む感触が全身を駆け上がる。裏庭に並ぶチューリップの列が風に揺れ、一枚の赤い花びらが舞い落ちた。森の木々は朝日に照らされて葉が金色に輝き、遠くの小川の水面がきらめいていた。


「きれいだな。小川に行きたいよ」


エリザの声が風に溶けていく。


「母さん!」


彼女の声は高く、家の壁に跳ね返って裏庭にこだました。台所から母マーガレットが顔を出す。


「おはよう、エリザ」


母の声は朝露のように優しく透明だった。黒髪が肩に落ち、朝日に当たると琥珀色の光沢を帯びて揺れる。左手の中指の銀の指輪が光り、小さな虹を作り出していた。


母が手を差し出すと、エリザは駆け寄ってその手を握った。小さな手が母の温もりに包まれ、土の匂いと指先の荒れた感触が混ざり合った。


「母さん、今日も小川行くよね?」


エリザが期待に胸を膨らませて尋ねると、母は穏やかに頷いた。


「もちろんよ」


その言葉は蜂蜜のように甘く、エリザの心に染み入った。


二人は森へ向かって歩き始めた。小道に転がる石ころを飛び跳ねるように進み、頭上では鳥のさえずりが軽やかに響き、葉の間を通り抜ける風が優しいハーモニーを奏でていた。


森の奥に流れる小川の岸辺には苔むした石が並び、澄んだ水が底の小石を鮮明に映し出していた。カエルが跳ね、緑の体が一瞬光って波紋を広げる。魚が銀の矢のように泳ぎ、尾びれが水を揺らして細かい泡を立てた。


エリザはパジャマの裾を気にせず岸辺に膝をつき、湿った草の冷たさが伝わってきた。ためらいなく水に手を浸すと、透き通るような冷たさが指先から腕に電流のように走った。指の間を水が流れ抜け、自然の律動が自分の中に流れ込むような不思議な感覚に包まれる。


「冷たい!」


彼女の笑い声が森に響き、カエルが驚いて跳ねた。母がしゃがみ込み、水に触れた。


「自然の命だよ」


母の穏やかな声がエリザの心に染み込み、魂の真実として刻まれていった。エリザは母の横顔を見つめ、濡れた睫毛の下の瞳に空と森が映っているのを見た。


「母さんみたいに優しいんだ。私も守りたい」


エリザは水面に映る母の姿を見ながら呟いた。母が笑い、「一緒に守ろうね」と手を握り直す。温もりがエリザの小さな手を包み、その安心感は胸いっぱいに広がった。エリザは目を閉じ、この瞬間を永遠に記憶に留めたいと願った。「母さんと一緒なら、何だってできる」そんな確信が小さな心に灯った。


母がスケッチブックを渡し、「描いてごらん」と促す。エリザは鉛筆を握り、魚の曲線やカエルの丸い目を丁寧に描き始めた。線が命を創り出すような不思議な感覚に浸りながら、水面に映る木々の影を緑の色鉛筆で塗っていく。赤と黄色のチューリップを加え、「母さんの花だよ」と呟くと、母が「きれいね」と優しく頷いた。


母の言葉にエリザの胸は温かさで満たされた。褒められる喜びと、創作を通じて深まる絆に、小さな体が興奮で震えた。


「私、自然を守る人になる!」


エリザの声が森に響き渡り、鳥が驚いて飛び立つ。腕を高く上げた小さな手は、未来への誓いを象徴していた。


母は「エリザならできるよ」と頬を撫で、「母さんも一緒に見守っているからね」と言った。その言葉に無限の勇気が湧いた。


「母さんがそばにいてくれたら、ずっと守れるね」


エリザが笑顔で言うと、母は「ずっと一緒だよ」と静かに頷いた。二人の笑顔が小川に映り、水面が陽光に輝く。風がチューリップの香りを運び、エリザの髪を優しく揺らした。時間の流れが止まったかのような完璧な平和。エリザの心に刻まれた永遠の一瞬だった。


セクター7制御室、2038年7月26日、午前11時30分。


エリザが目を開けた。そこは森ではなかった。赤く染まる警告灯と機械音が支配する制御室。あのぬくもりは、もうどこにもなかった。


記憶の中の小川のせせらぎと現実の機械音が脳内で不協和音を奏で、過去の純粋さと現在の歪みが交錯する。


赤い警告灯が制御室内で不規則に点滅し、赤黒い影を映す。コンソールの低い唸り声は獣の咆哮のようで、かつての小川の優しい音色とは対照的だった。埃と機械油の入り混じった空気が、森で感じた清潔な風の記憶を汚すように感じられた。


エリザはゆっくりとモニターに映るセクター7の住民たちを冷ややかに見つめる。かつての緑色だった瞳は、今や冷たい青に変色し、憎しみと復讐の炎が奥底で燃えていた。モニターの光が顔に反射し、左頬の傷跡を浮き彫りにする。


「母さん、私は…守れなかった」


エリザの声は低く掠れ、制御室に孤独に響いた。その言葉には少女時代の純粋さはなく、長い時を経た深い悔恨と怒りが混じっていた。警告灯の赤い光が彼女の顔を不気味に照らし、左頬の傷跡を浮き立たせる。指が母から贈られた指輪を握り潰すように締め付け、金属が軋む小さな音が心の閉ざされた扉を強引に開けるようだった。


「母さんが教えてくれた自然を、人間が汚した。私が信じた優しさは裏切られた」


呟く声に狂気が宿り、青い瞳が鋭く光る。彼女の手がコンソールを激しく叩き、鈍い音が制御室に響き渡る。ディスプレイ上の赤い点がさらに増え、ナノマシンの活動が加速していることを示していた。赤い点は血のように画面上に広がり、彼女の復讐心の具現化のようだった。


技術者が震える声で「エリザ様、もはや制御不能です!」と叫ぶが、彼女はそれを完全に無視し、モニター越しにティム一家を冷たく見据えた。


「お前たちに過去を変える力があるなら、私の罪を裁いてみせろ」


エリザの声には憎しみと挑発が混じり、同時に自己の行為に対する後悔が隠されていた。母が教えた愛と、今の自分の行動との矛盾に、心が引き裂かれる感覚に襲われる。


一方、セクター7地下シェルターでは、ティム一家が次の行動を決めようとしていた。


突然、地面が震え始めた。


微かな揺れから始まり、徐々に強まる。コンクリートの壁に細かいひびが走り、天井から埃が雪のように舞い落ちる。肺に入り込んだ灰色の粒子が喉を刺し、乾いた咳が響いた。


「何が起きてるの?」 「外に出られないの?」 「助けて!」


恐怖に満ちた声が重なり合う。


トミーの母親は本能的に動いた。毛布を掴み、息子の小さな体を包み込む。彼女の腕は震え、目は恐怖で見開かれていた。


「トミー、隠れて!」


彼女の声は壊れた楽器のように震え、シェルター内の静寂を切り裂いた。


血と埃の臭いが漂う閉鎖された空間で、ティムはレイナのショットガンを手に持ち、緊張した面持ちで周囲を見回していた。額に浮かんだ汗が埃で灰色に染まっていた。


「分室の地下に行くしかない。エリザを止めなきゃ」


ティムの声は掠れていたが、決意に満ちた響きがシェルターに反響した。その声には震えがあったが、家族を守る意志は揺るがなかった。心の中で呟いた。


メアリーは子供たちを背中に庇い、眼鏡の奥の目が決意に燃えていた。彼女の思考は冷静さを保ちながらも、母としての強さが胸に宿っていた。


「ティム、私たちならできる」


彼女の視線は子供たちへの愛情で満たされ、その愛は科学的な事実よりも確かな真実として彼女の心を支えていた。


「レイナが信じた希望を、私が守る」


彼女は静かに呟き、ネックレスが揺れて冷たい金属音を立てた。


警備員が前に進み出た。鎧のような装甲スーツが動くたびに重い金属音が響き、顔を覆うヘルメットの隙間から鋭い目が光っていた。


「分室まで案内する。プラズマ砲の弾は少ないが、やるしかない」


彼の声は機械的で冷たく、肩にはプラズマ砲のエネルギーが青白く光っていた。


シェルターの鉄扉が軋み、外からは新たな咆哮が響き渡る。金属がゆっくりと曲がる音と、遠くから響く不気味な唸り声が混じり合う。シェルターの壁を何かが這うような鈍い摩擦音が、全員の背筋を凍らせた。


シェルターの出口へ向かうティム一家。後方でカイがアールを呼び止める。


「アール、僕たちここでお別れかな」アールが振り返り、寂しそうにうなずく。


「うん…でも、また会えるよね?」カイが微笑む。


「うん、きっとだよ。いつか君を探す」


リサがメアリーの肩をそっと掴み、優しく告げる。


「ありがとう、あなたたちに会えてよかった。気をつけてね」


メアリーは涙を抑えて微笑む。


「あなたたちも生きてね、必ず」


ティムが頷き、二人をしっかり見つめる。


「必ず、未来を変えて戻ってくる」


その言葉を胸に刻んで、一家は決意を新たにシェルターを出る。


ティムが「行くぞ!」と叫び、一家と警備員は地下通路へと向かい始めた。通路は湿気を帯び、コンクリートの壁からは水滴が染み出していた。裸電球の光が不安定に揺れ、壁に映る影が不気味に伸縮していた。


ティムはショットガンを構え、「レイナの意志を継ぐ」と決意を込めて呟いた。


一行が通路の奥へと進むにつれ、遠くでナノマシンの赤い光がちらつき始め、低い唸り声がより強く響いてきた。緊張感が空気を重く包み込み、未知なる危険への恐怖と、それに立ち向かう決意が入り混じった雰囲気が一行を包んでいた。


セクター7の制御室では、警告灯が激しさを増し、赤い光が彼女の青白い肌を血のように染め上げる。技術者が「ナノマシンの暴走が加速しています!」と恐怖に震える声で叫んだ。


しかしエリザは彼を冷たく睨み、「黙れ」と一言だけ返した。


モニターに映るティム一家が地下通路を進む姿を冷たく見据え、エリザは静かに呟いた。


「お前たちが私の純粋な夢を奪った」


声は低く沈み、抑えきれない憎しみが溢れ出ていた。制御室の空気は熱と緊張で歪み、終わりの始まりを告げるかのように重く沈んでいった。

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