第21話 エリザの記憶と罪の告白

時間: 2038年7月26日、午前3時

場所: セクター7制御室


制御室は異様な緊張に包まれていた。赤い警告灯が不規則に明滅し、暗がりと光が入れ替わるたびに空間の輪郭が歪むように見える。天井からは年代物の配線が蜘蛛の巣のように垂れ下がり、時折青白い火花が散って一瞬だけ闇を払う。


機械群から発せられる低い振動音が床から伝わり、空気中の微粒子が警告灯の赤い光を受けて舞い踊るように漂っていた。灰と金属の混合物がこの空間特有の宙に浮いた感覚を生み出し、光の中で揺れるたびに状況の切迫感を強めていた。


空気は重く澱み、消毒液の刺激臭と焦げた配線から漏れる金属の匂いが混ざり合い、嗅覚を刺激していた。古いコンソールから発せられるオゾンの痕跡と、長い間換気されていない空間特有の閉塞感が肺を圧迫するようだった。


埃に覆われたコンソールのボタンに触れるたび、軋むような抵抗感がエリザの指先に伝わってきた。艶を失った金属表面は彼女の体温を吸い取り、冷たさだけを残した。指から滲む血が金属に落ち、乾きながら小さな染みを形成していく。そのパターンは操作パネルに散らばる無数の過去の痕跡に新たな一つを加えるだけだった。


エリザは灰色の制服に身を包み、その上から白いコートを羽織っていた。かつては純白だったそのコートも、今では灰と時間の流れで色褪せ、袖口や襟元には微かな血痕が残っていた。


彼女の短い黒髪は額に張り付き、汗で濡れた毛先が頬を伝って揺れる。顔には疲労の線が深く刻まれ、かつての科学者としての冷静さは今や執着と憎悪に飲み込まれていた。


左頬の傷跡は古い事故の名残で、制御室の冷たい光に照らされてより一層生々しく見えた。無意識に指先がその傷をなぞるように動き、過去の痛みを再確認するような仕草だった。


冷徹な青い瞳がモニターを凝視し、その奥には憎しみと狂気の炎が燃えていた。科学者としての分析力を示す鋭さと、被害者としての激情が同居する複雑な眼差しは、彼女の内なる葛藤を映し出していた。眼窩の下に浮かぶ青い血管が不眠と執着を物語っていた。


背後では技術者たちが慌ただしく動き回り、彼女の指示を遂行するためにパネルを操作していた。額には不安の汗が浮かび、急かされる呼吸音が部屋に響いていた。


「侵食率40%を超えました!」


一人が震える声を上げた。警告灯の照射が彼女の顔に不規則な影を落とし、頬の傷痕をより鮮明に浮かび上がらせる。それは過去の傷を常に思い起こさせるように、明滅を繰り返していた。


正面のディスプレイには無数の赤い光点が蠢き、ナノマシンの活動が制御不能なまでに拡大していることを示していた。それは赤い血の海のように、静かに確実に広がっていく様子を映し出していた。


「東壁、崩壊しました!」


別の技術者が声を上げ、恐怖で喉が詰まったような音色だった。震える指がパネルの上を走り、無力な抵抗を続けていた。


パネルを握るエリザの手が震え、爪が金属に食い込んで耳障りな音を立てた。それは彼女の内なる混乱と怒りを象徴するような不協和音となって空間に響いた。


「ティム一家…お前らがアランとサラを奪った過去を私の前に突きつけた」


深い井戸から響くような虚ろな声で、憎悪と絶望が滲み出ていた。過去の喪失感と現在の怒りが混ざり合い、理性の最後の砦を崩していくのが感じられた。


コンソールのスイッチを乱暴に叩くと、「ガン!」という鈍い音が空間に響き渡った。


「もう守る必要はない。ここは終わらせる」


彼女の冷酷な命令に、警告灯がさらに激しく点滅し、周囲の温度が急上昇したように感じられた。機械の唸りが高まり、熱気が室内に充満していく。エリザの呼吸が荒くなり、乾燥した空気が喉を刺激した。


モニター越しにシェルターの様子を眺め、冷ややかな目でティム一家を見下ろす。怪物との戦いに勝利した彼らの姿が映し出され、画面が次々と切り替わる。狼型や熊型ボスが倒れていく瞬間が映し、シェルター内の混乱と勝利が交互に映し出されていた。


「レイナが信じた連中…私の家族を殺した過去が引き起こした亡霊どもか」


声には嘲りが滲み、唇の端がわずかに歪んだ。その表情には、かつての美しさの痕跡と、現在の狂気の兆候が同居していた。


コンソールを操作し、「2025年6月20日、ドーセットの森」と表示させる。映像に映るのは小川の水面に漂う赤い粒子と、それに触れるティム一家の姿だった。


波紋が広がり、赤い粒子が子供たちの手に引き寄せられるように動く様子が鮮明に映っていた。


「赤い光がチカチカしてる!」


記録からアールの声が流る。


「あの小川…母さんの人生を狂わせた場所だ」


彼女はデータを次々と呼び出し、ナノマシンの記録を掘り下げていった。キーボードを操作する音が彼女の焦りと共に加速していく。


スクリーンには「2025年6月20日、大規模浄化実験失敗:ナノマシン残留、時空異常発生」と表示され、続いて「2027年7月26日、ウェイド・インダストリーズ研究施設:ナノマシン暴走、死者多数」という記録が現れた。


赤い警告文字が過去の悪夢を鮮烈に思い起こさせる。


エリザの手が一瞬止まり、指先がかすかに震えた。青い瞳に過去の痛みが浮かび、声が低く沈んだ。


「2027年の暴走したナノマシンが私の全てを奪った」


一瞬瞼を閉じ、11年前の記憶が鮮明に蘇った。まるで昨日のことのように、心に焼き付いた記憶の断片が次々と浮かび上がる。


2027年の夏、ウェイド・インダストリーズ研究施設の庭。陽光が木々の間から斑に差し込み、芝生が鮮やかな緑を見せていた。暖かな風が頬を優しく撫で、夏の花々の香りが空気を甘く彩っていた。


そこには彼女の夫アランと娘サラの姿があった。アランは37歳、仕事に打ち込みながらも家族との時間を何より大切にする温かな男性だった。彼の優しい笑顔と大きな手の温もりは、エリザの心の支えだった。サラはわずか7歳、好奇心旺盛で聡明な子で、両親の知性を受け継いでいた。彼女の笑い声は清らかな鈴のように響き、金色の髪が日差しを浴びて輝いていた。


二人は芝生の上で戯れていた。アランの白いシャツが風に揺れ、サラの赤いワンピースが庭に一輪の花のように色を添えていた。


「サラ、見て。カエルだよ」


彼の低く優しい声が娘に語りかける。大きな手がそっと小さなカエルを包み込み、サラの瞳が興奮で輝いた。緑の瞳に好奇心が満ち、小さな手が父親の手に伸びる。


「パパ、私も触りたい!」


アランは優しくカエルを娘の手に移した。小さな生き物が彼女の掌で震え、サラの顔に驚きと喜びの表情が広がる。


エリザの母親も側にいて、穏やかな笑顔で二人を見守っていた。白髪が風に揺れ、長年の研究生活で培われた知恵と優しさが刻まれた表情には安らぎがあった。


彼女の傍らでエリザがデータパッドを手にし、冷静な口調で報告していた。環境修復プロジェクトの責任者として高く評価されていた彼女の姿は現在とは異なり、希望と誇りに満ちていた。


「浄化実験、順調ですね」


母親の目が温かく輝き、遠い地平を見るように言った。


「自然を取り戻す第一歩よ。サラが大きくなったら、もっと緑の世界を見せてあげられるわ」


優しい風が髪を揺らし、小さなカエルの鳴き声が庭に響いていた。穏やかな陽光が肌を包み、平和な時間が静かに流れていた。


しかし、その記憶は唐突に暗転した。暖かな光景が、灰色と赤の悪夢へと一変する。


ナノマシンが自己増殖して暴走した。


アランがサラの手を強く握り、逃げ惑う姿。灰が雪のように降り注ぎ、周囲は悲鳴に包まれていた。かつて白かったシャツは灰で灰色に変色し、サラの赤いワンピースも埃で色褪せていた。


「サラを!」


アランの声は恐怖に震えながらも、愛する娘を抱いて守っていた。


「早く!この先のシェルターへ!」


エリザは施設の制御室に閉じ込められ、ナノマシンの暴走を止めようと必死にコンソールを操作していた。モニター越しにアランとリサを見守ることしかできず、無力感に苛まれていた。冷たい機械が彼女と愛する人々の間に立ちはだかり、ガラス越しの映像は既に遠い存在のようだった。


モニターには赤い警告が点滅し、「ナノマシン制御不能」という文字が踊っていた。彼女の手が震え、キーボードを叩く音が制御室に響き渡る。


そして運命の瞬間が訪れた—アランとサラがナノマシンに襲われ崩れていく光景がスローモーションで映し出される。


まさに悪夢だった。愛する家族の悲鳴がエリザの耳に残り続けた。その声は魂に刻まれた消えない傷となり、永遠に癒えることのない痛みとなった。


「私が殺してしまった…私が殺してしまった…」


目を閉じたまま呟く声は掠れ、感情の重みで途切れがちだった。大切な人々を全て失った喪失感が彼女を締め付け、呼吸が乱れる。深い悲しみが胸を引き裂いていた。


強引に目を開き、モニターに映るティム一家を再び見つめる。憎悪の炎が青い瞳に戻り、やり場のない怒りと悲しみが交錯していた。


「そして今、お前らがそのナノマシンに触れてここに現れた。お前らは母さんの実験の残骸が引き起こした私の罪の証だ」


声に憎しみが滲み、アランから贈られた銀の指輪を強く握り締めた。金属が軋んで指に食い込み、鋭い痛みを生むが、それすら感じないかのようだった。心の奥の喪失感に比べれば、物理的な痛みなど取るに足らないものだった。


「ティム一家、お前らが私の家族を奪った過去を呼び戻した。お前らが現れたせいで、私は全てを終わらせる」


「2025年、母さんの浄化実験の穢れ、その残骸が2027年にアランとサラを灰にした。お前らがそのナノマシンに触れてここに現れた瞬間、私の前にあの日の悪夢が蘇った」


言葉には怒りと悲しみが織り交ざり、唇が微かに震えていた。

モニターに映るティム一家がレイナの遺体の側で手を重ね合う姿を見て、冷笑を浮かべた。


「レイナの意志だと? 笑わせるな。お前らが過去から這い出てきたせいで、私の守りは無意味になったんだ」


彼女はレイナの亡骸に一瞬目を留め、元同僚を失った痛みが胸をかすめた。だがすぐに、その感情は怒りに飲み込まれた。


エリザは再びデータを確認し、実験記録の詳細を調べた。画面には数値と図表が並び、過去の記録が現在の状況と対照された。「ウェイド・インダストリーズ、浄化実験失敗。ナノマシン残留、時空異常発生。2027年、ロンドン暴走事件に接続」という文字が映し出された。


乾いた笑みを浮かべる。かつての彼女の笑顔は温かく、同僚を勇気づける光を放っていた。今やそれは冷たく、悲痛なものに変わっていた。


「母さんが好きだった自然を救おうとした実験が人間の手で汚され、私から家族を奪った。そして今、お前らがその残骸を運んできた」


母親の写真が入ったロケットを取り出し、静かに見つめながら呟いた。金属は冷たく、内部の写真は時を経て色あせていた。微笑む母とサラの姿が、過去の幸せを切なく物語っていた。


「私は母さんの夢を守りたかった。セクター7を維持し、ナノマシンを制御して人間に希望を与えようとした」


頭を苦しげに振り、黒髪が揺れた。額に浮かぶ汗が光を受け、表情に深い苦悩が刻まれる。冷静だった科学者の顔は、今や葛藤と絶望に引き裂かれていた。


「でもティム一家が現れた。あの小川での失敗が2027年の悪夢に繋がり、そして今、2038年に私の前に現れた。お前らがここにいる限り、私の家族を奪った罪は消えない」


自分に言い聞かせるように呟き、母の遺した指輪を強く握り締めた。金属が肌を刺す感覚が、彼女の決意をさらに強めていた。その痛みだけが、彼女にとって現実を確認する唯一の方法だった。


「お前らが過去から来たせいで、私の守る理由はなくなった。私のナノマシンがセクター7ごと全てを灰に変える」


唇が歪み、不気味な笑いが漏れた。その音は苦痛に満ち、制御室に冷たくこだました。それは笑いというより、長年抑え込んでいた痛みが噴出したものだった。


「もう守らない。これが私の正義だ」


声には狂気が混じり、制御室の空気が凍りついたようだった。技術者たちが不安げな視線を交わし、恐怖の汗が額を伝う。


エリザはコンソールのスイッチを次々と操作し、命令を下していった。科学者として精密機器を扱ってきた正確さはまだ失われていなかったが、今はその技術が破壊のために使われようとしていた。


「全システム、ナノマシン解放モードへ」


メインスクリーンに赤い警告メッセージが点滅し、「危険:ナノマシン制御解除」と表示された。制御装置の安全機構が一つずつ解除されていく様子が画面に映る。


若い技術者が恐怖に声を震わせて叫んだ。


「エリザ様、やめてください!」


彼女は振り向きもせず、冷たく一喝した。


「黙れ」


鋭く響く声に、技術者は怯えて後退した。彼の表情から血の気が引き、同僚たちと恐怖の目配せを交わした。


次々とボタンを押していくエリザの指先から、赤い光が制御室をさらに濃く染めていく。機械のビープ音が高まり、システム解除の進行を告げていた。


モニターに映るティム一家の姿を再び観察する。彼らの表情に浮かぶ希望と決意が、エリザの怒りをさらに煽った。


「ティム、メアリー…お前らがレイナの希望を継ぐなら、私がその全てを潰す。お前らの未来も、私の過去も、灰に還る」


アランとサラとの最後の記憶が鮮明に蘇り、心の中で呟いた。


『愛する人たちの幸せだった日々を、私が終わらせる』


白いコートの裾が動きに合わせて揺れ、血と汗に濡れた手がわずかに震えていた。科学者としての精密な操作にも、今や予測不能な乱れが混じっていた。


制御室の外では鉄壁が崩れる音が遠くから響き、激しさを増す灰嵐の唸りが迫っていた。荒れる自然の怒りのような音は、彼女自身の心の嵐を映し出しているかのようだった。


最後のスイッチを押すと、低い機械音と共にナノマシンの完全解放が始まった。「プロトコル解除完了」という機械的な女性の声が制御室に響き、最後の安全装置が外れた。


制御室の温度が急上昇し、警告灯が狂ったように点滅を続けた。赤い光が彼女の顔に断続的に当たる中、エリザの表情に一瞬の迷いが浮かんだ。アラン、サラ、そして母親との平和だった日々の記憶が、最後の良心として彼女の心をかすめた。


しかし、それはすぐに消え去り、冷たい決意だけが残された。彼女の中の科学者はすでに死に、残っていたのは復讐に燃える灰の女王だけだった。


終わりの始まりは、ここから加速していくのだ。セクター7の壁が崩れ、ナノマシンの赤い波が街を飲み込み始める中、エリザの決意だけが冷たく光り続けていた。

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