第20話 咆哮の終わり
時間: 2038年7月26日、午後2時
場所: セクター7地下シェルター~東壁付近
地下シェルターに重苦しい空気が沈殿していた。血と埃の臭気が鼻腔を刺激し、コンクリート壁から染み出す冷気と湿気が皮膚を包み込む。表面に浮かぶ水滴が照明の光を捉えて、壁に不規則な星座のような模様を描き出していた。濡れた石灰と金属の混じった香りが、呼吸するたびに胸を締め付けるような感覚をもたらす。
床面のヒビ割れた箇所には小さな水溜りが点在し、天井から滴る水滴が時を刻むように一定間隔で落ちて、緊張感を高めていた。まるで巨大な時計の針のように、彼らの残された時間を告げているかのようだ。
天井の裸電球がわずかに揺れ、オレンジ色の光が住民たちの疲弊した表情に不規則な影を落としていた。明暗が入れ替わるたびに、恐怖に歪んだ顔が一瞬浮かび上がっては消えていく。壁の隅からは古い配線が露出し、時折火花が散って床に落ち、金属特有のパチッという鋭い音を立てていた。
レイナの遺体がシェルターの片隅に横たわっていた。白いコートは血と灰にまみれ、その周囲に広がる血だまりは既に乾き始め、縁が濃く変色していた。ヨードとカリウムの混じったような臭気が、彼女の存在を鮮明に感じさせていた。左腕に巻かれた古いブレスレットだけが血の中で不思議な光を放ち、彼女の命が宿っていた証のようでもあった。
鉄扉の外からは断続的に怪物の咆哮が響き、壁が揺れるたびに天井から細かな塵が舞い降りてきた。低い唸り声と金属を引き裂く甲高い音色が不規則に重なり、外界の脅威を絶えず思い出させる。遠くからは鉄壁が軋む音が伝わり、金属が悲鳴を上げるような音が居住者たちの不安を増幅させていた。
住民たちの呼吸音が空間に満ち、恐怖と疲労が混じった吐息が冷たい空気にかすかな霧を作る。互いに温もりを求めるように肩を寄せ合い、子供たちのすすり泣く声と大人たちの沈黙が奇妙な調和を生み出していた。
ティムはレイナの遺体から離れ、ゆっくりと立ち上がった。動作に疲労が滲んでいたが、眼差しには強い意志が宿っていた。ジャケットの袖で額の汗を拭い、深く息を吸い込む。
「レイナの意志を無駄にしない。俺たちがここを守る」
住民たちが息を呑み、ティム一家の決意に目を向けた。絶望に満ちていた表情に、わずかな希望の光が差し始めた。幼い子を膝に置いていた母親が毛布を畳み、作業着姿の女性が肩を叩いて立ち上がった。
絶望の淵から、微かな希望が芽生え始めていた。それはレイナが残した最期の贈り物、生き抜く意志だった。
突然、鉄扉が激しく揺れ、金属が金属にぶつかる耳障りな音が響き渡った。赤い結晶質の触手が隙間から侵入し、表面から放たれる粘液が床に滴って、コンクリートを融かす音と共に白い煙が立ち上った。硫黄のような刺激臭が漂い、喉を刺すような感覚をもたらす。
狼型怪物が残りの扉をこじ開け、鋭い金属の牙を剥き出しにして低く唸った。その振動は内臓に直接響くような低周波を含み、本能的な恐怖を誘発する。脊椎に沿って赤い結晶が脈動し、壁に赤い光の模様を投影していた。
小型怪物群が数十匹押し寄せてきた。元は小動物だったのだろうか、金属と生体組織が歪に融合した姿は自然の摂理に反する恐怖そのものだった。鋭い爪でコンクリートを引っ掻きながら、住民たちに迫り寄る。金属が床を引き裂く音と甲高い鳴き声が混ざり、住民たちから悲鳴が上がった。
「トミー、目を閉じて!」
一人の母親が息子を抱きしめ、毛布で包み込んだ。身体を盾として我が子を守る姿勢を取り、本能的な母性が彼女を動かしていた。
「ママ、怖いよ...」
幼い震える声が空間に響いた。
「負けるものか!」
作業着の女性が奮起し、長年の労働で鍛えた筋肉を最後の抵抗に注ぎ込もうとしていた。彼女の手には錆びたレンチが握られ、恐怖で震えながらも決して諦めない意志が見えた。
小型怪物が彼女の足に絡みつき、作業着を引き裂く音と共に彼女の顔が痛みで歪んだ。
「下がれ!」
ティムの声が響き、鉄パイプを振りかざして狼型に突進した。
パイプが怪物の頭部に命中し、金属同士の衝突音が空間に反響したが、怪物はわずかに動きを止めただけで、すぐに体勢を立て直した。赤い眼光がティムを捉え、その輝きは強さを増していった。灰と金属の混ざった息吹が彼の顔に直接吹きかけられた。
メアリーも鉄棒を手に取り、手は震えていたが、目には冷静な判断力が宿っていた。彼女は狼型の側面に回り込み、全力で鉄棒を振り下ろした。脇腹の赤い結晶部分が標的となり、金属の衝突音と共に装甲に亀裂が走る。怪物の動きが一瞬停滞し、機械のような軋みを発した。
「僕もやるよ!」
アールが声を上げた。近くの缶詰を手に取り、全力で怪物に投げつける。缶が狼型の眼窩に命中し、一瞬の硬直を誘発した。
その隙に、ヴァージニアが別の缶を投げると狼型の足部に命中させた。
「レイナさんのために!」
ティムが鉄パイプを再び振り上げ、狼型の頭部に渾身の一撃を加えた。金属の衝突音が耳を打ち、シェルター内に響き渡った。
狼型の装甲に亀裂が広がり、結晶部分が不規則に明滅した。怪物の動きがぎこちなくなり、システムエラーを起こしたコンピューターのように震え始めた。
住民たちの間にも微かな希望が芽生え、息が荒くなりながらも互いの目に闘志が灯り始めた。協力すれば、この恐怖と対峙できるかもしれない—そんな思いが共有され始めていた。
「私もやる!」
トミーの母親が近くの椅子を手に取り、狼型に立ち向かった。息子を守るという一心が、全身に力を与えていた。
椅子の木製の脚が怪物の背中に命中し、乾いた音と共に木材が砕け散った。怪物がよろめき、彼女は素早く後退して息子の元に戻った。
作業着の女性も足を攻撃されながらも抵抗を続け、レンチを力の限り投げつけた。腕には長年の重労働が刻んだ筋肉の痕跡があり、その全てを込めた一撃だった。
「負けるか!」
レンチが小型怪物に命中し、金属音と共に床に倒れ込んだ。彼女の目に勝利の色が浮かび、次の武器を求める目が光った。
連携が取れ始め、狼型は少しずつ後退し始めた。住民たちが互いに声を掛け合い、共に動くことで怪物を押し返していく。
「やれるぞ!」
壁際にいた男性が立ち上がり、ベッドの折れた脚を武器に加わった。彼の背中には過去の喪失の痛みがあったが、新たな仲間と共に立ち上がる勇気を見出していた。
しかし、希望はつかの間だった。
外から新たな咆哮が響き、地面が激しく揺れた。重く低い振動がシェルター全体を包み込み、天井から埃と小さな破片が降り注いだ。
巨大な熊型が鉄扉の残骸を押しつぶして侵入してきた。コンクリートを砕く衝撃音と金属が引き裂かれる甲高い音が重なり、床に走る亀裂が波紋のように広がった。
全長10メートル近い怪物は通常の熊型の3倍以上の巨体を誇り、全身に鎧のような金属質の鱗が覆い、背中には巨大な赤い結晶がいくつも突き出していた。不規則に脈動する光が室内を血の色に染め上げる。
怪物の体重でコンクリート床が砕け、破片が四方に飛散した。衝撃で住民たちが足元をふらつかせ、数人が悲鳴を上げる。
巨体が天井に触れ、金属パイプが軋んだ。配線が切断されて火花が散り、一瞬シェルター内が明るく照らされた後、さらに深い暗闇に沈んでいった。触手が床を打ち付ける音が重く響き、その衝撃が骨にまで伝わってくる。
身体全体から発せられる熱気が室温を一気に上昇させ、口からは赤い蒸気が噴出していた。硫黄と焼けた金属の混じった臭気が鼻を突き、呼吸が困難になる。
「何だあれ!」
恐怖の声が上がり、トミーが母親に縋りついた。小さな身体が震え、泣き声が途切れがちになる。
「ママ!」
母親は強く息子を抱き締め、自らの体で守るように立ちはだかった。
ティムはレイナの遺体に目を向け、静かに呟いた。
「レイナ、お前の力を借りるぞ」
彼は素早く動き、レイナの傍らに落ちていたショットガンと袋に入っていた散弾を拾い上げ、急いで散弾の装填を行った。銃身についた血と灰の感触が彼の決意をさらに強めた。冷たい金属が掌に伝える重みに、彼は覚悟を決めた。
「今だ!」
熊型ボスの頭部に照準を合わせ、引き金を引いた。轟音がシェルター内で増幅され、住民たちの耳を震わせた。弾丸が装甲に命中し、赤い結晶表面に浅い傷が刻まれた。
傷口から赤い蒸気が噴出し、硫黄と酸化金属の混合臭が広がった。喉を刺す感覚に住民たちが咳き込む。
怪物が怒りに満ちた咆哮を上げ、ティムに向かって突進してきた。床が揺れ、埃が舞い上がる。巨大な影が彼を覆い隠し、死の気配が迫った。
メアリーが咄嗟に動き、鉄棒で怪物の側面を力いっぱい叩いた。眼鏡が揺れ、汗が顔を伝う。理科教師の分析力が怪物の弱点を瞬時に見抜いていた。
「ティム、続けて!」
ティムはショットガンを再び構え、引き金を引いた。
連続で発砲し、弾丸が熊型ボスの頭部を直撃した。爆発音が壁に反響し、閃光が闇を切り裂いた。装甲に亀裂が走り始めたが、彼は残弾が少ないことを感じ取っていた。銃身から伝わる熱が時間の切迫を告げていた。
怪物が怒りの咆哮を上げ、触手を振り上げてティムに襲いかかる。風圧で髪が激しく揺れ、顔に熱波が押し寄せる。
「ティム!」
住民たちが恐怖の声を上げる中、ティムは動かなかった。瞳に決意が宿り、最後の一発を温存していた。
その時、シェルターの奥から足音が響き、武装した警備員たちが駆けつけてきた。装甲スーツの重い足音と金属擦れの音が新たな希望を運んできた。
「援護する!」
リーダーの号令と共に、プラズマ砲のスイッチが入る。電子音と充填されるエネルギーの唸りが空気を震わせた。
緑がかった高熱の光線が砲口から放たれ、熊型ボスの装甲を貫いた。シェルター内が一瞬昼のように明るくなり、結晶が砕け散って床に赤い破片が降り注いだ。金属が溶ける音と空気が焼ける匂いが広がる。
熱波が顔を打ち、赤い蒸気が瞬時に霧散し、焦げた臭いが立ち込めた。刺激的な匂いに鼻腔が焼けるような感覚があった。
熊型ボスが一瞬怯み、ティムがその隙を見逃さなかった。幾度もの狩猟経験が彼の動きを導いた。
「今だ!」
ショットガンの最後の一発を放ち、怪物の頭部を撃ち抜いた。空のカートリッジが床に落ち、金属音を立てて転がる。
警備員たちも一斉にプラズマを浴びせ、熊型ボスの装甲が次々と融解していく。青白い光と緑の光が交差し、暗闇に奇妙な光のショーが展開された。
「やれ!」
ティムの掛け声に合わせ、警備員たちが最後の集中砲火を放った。緑の光線が怪物を貫き、巨大な熊型ボスが悲鳴と共に崩れ落ちた。
「退け!」
警備隊長の指示で住民たちが壁際に身を寄せる。巨体が床に激突し、シェルター全体が揺れた。壁から埃が降り注ぐ。
灰と赤い液体が床に飛び散り、怪物の体から光が消失していく。赤い眼光が次第に暗くなり、機械が停止する音が響いた。最後の蒸気が吐き出され、静寂が戻った。
シェルター内に緊張の糸が解け、住民たちは信じられない思いで互いを見つめた。子供の泣き声と浅い呼吸だけが聞こえる。
ティムはショットガンを床に置き、金属が床に触れる鈍い音が勝利の合図のように響いた。
「やった…やったぞ」
疲労で掠れた声だが、瞳には確かな勝利の光があった。幾度も家族を守ってきた経験が、今ここでも役立った安堵感に、静かな誇りが混じっていた。
メアリーが子供たちを抱きしめ、安心の表情で囁いた。眼鏡の奥で涙が光り、彼女の目に幾度も乗り越えてきた危機の記憶が浮かんだ。
「みんな、よく頑張ったね」
「レイナさん、見ててくれたよね」
「パパ、ママ、すごいよ」
ジュディが両親を見上げ、小さな笑顔を浮かべた。ドレスは汚れていたが、瞳には純粋な喜びが戻りつつあった。小さな手が両親に伸び、三人で手を取り合った瞬間、家族の絆がより強く結ばれた。
「お前らがいるから勝てた」
ティムがメアリーを見つめ、疲労の刻まれた顔にも深い愛情が浮かんでいた。
レイナから託された使命、過去に戻り大崩壊を防ぐという希望—それを実現するために、彼らはまだ長い道のりを歩まなければならない。
しかし今、この瞬間は勝利の時だった。シェルターの壁に赤い血が滲み、床に怪物の残骸が散乱する中、ティム一家の絆が小さな希望の光として輝いていた。
怪物の残骸から漏れていた赤い光が次第に弱まり、シェルター内の空気が浄化されていくように感じられた。天井の裸電球が揺れ、オレンジ色の光が住民たちの疲れた顔に温かみを取り戻させていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます