第19話 レイナの戦いと希望の継承
時間: 2038年7月26日、午後1時
場所: セクター7東壁~地下シェルター
地下シェルターは灰色のコンクリート壁に囲まれ、冷気が肌を刺すように伝わってきた。消毒薬の鋭い香りと数十人の緊張した汗の臭気が混ざり合い、呼吸するたびに窮屈さが増していく。細かいひび割れた床に天井からの水滴が不規則なリズムで落ち、その音が静寂の中で異様に響いていた。
オレンジ色の裸電球が揺れ、壁に不気味な影絵を投影する。頭上の錆びたパイプから低いうなり声が漏れ、外からの衝撃で壁の亀裂が広がるたび、埃と小さな破片が降り注いだ。吸い込んだ微粒子が喉を乾かし、口の中に金属味が広がる。
鉄扉の外からは自動砲台の発射音と怪物の咆哮が絶え間なく押し寄せ、壁が震えるたびに灰の粉が舞い上がった。鈍い衝撃音と金属が引き裂かれる甲高い音が不規則に入り混じり、終末の交響曲を奏でていた。
更に不安を掻き立てるように、ナノマシンの赤い結晶が壁の亀裂から滲み出し始め、脈打つような光で床を照らしていた。血のように赤く鮮やかで、微かに脈動する様子はまるで息づいているかのようだった。
住民たちは身を寄せ合い、恐怖に震える吐息が混ざり合っていた。誰かの小さなすすり泣きと、誰かの囁くような祈りが空間に満ちる。子供たちの泣き声が時折響き、大人たちは無言で手を握り合っていた。
メアリーは中央で子供たちを集め、落ち着いた声で語りかけた。
「大丈夫、私たちが一緒だから」
ジュディはぬいぐるみを胸に抱き、震える唇で囁いた。頬には涙の筋が銀色に光っていた。
「ウーちゃん、みんなを守るよ!」
ドレスの裾を不安そうに握り、ぬいぐるみに顔を埋めるように抱きしめた。純粋な心が想像上の守護者に安全を求め、幼い直感が迫り来る危険を察知していた。
ティムは物資を確認し終え、錆びた金属箱に腰を下ろした。膝の痛みと背中の疲労が重くのしかかる。手のひらには農場で使った道具の痕跡が刻まれていた。
「水10本、缶詰15個…3日も持たねえ」
突然、重いエンジン音が響き、地面が揺れた。轟音と金属車輪の走行音がシェルターの壁を通して伝わり、住民たちの表情が変わる。
「何だ!?」と顔を上げ、怯えた目が鉄扉に向けられた。祈りを口にする者や、子供を抱きしめる者、緊張が空間を支配した。
シェルターの古いモニターが点滅し、青白い光が暗闇を切り裂いた。灰の渦を突き進むランドマスターの姿が映し出される—錆びた緑色の装甲車両、巨大なタイヤが灰を巻き上げ、上部のキャノン砲が回転して火を噴いていた。
「あれは…」
ティムの言葉が途切れる。彼の目に希望の光が灯った。
レイナの声がスピーカーから響いた。雑音交じりながらも、彼女の力強い意志が明確に伝わってきた。
「みんな!希望を捨てるな!」
住民たちの顔に一瞬の光が戻り、腕を組んでいた男が姿勢を正し、泣いていた少女が顔を上げた。
画面に映るレイナは血と灰にまみれ、乱れた黒髪が揺れていた。顔には決意と痛みが混在し、青い瞳に強い光が宿っていた。
ランドマスターを崩壊した東壁に突進させ、車体で狼型怪物を薙ぎ倒す。金属が潰れる異質な音が響き、生物の肉体ではなく、金属が潰される音色がこの存在の異形性を物語っていた。
「狼型の数を減らす。警備員、援護を頼む!」
荒い息遣いとわずかな呻き声が混じる中でのレイナの指示に、警備員たちが応じた。キャノン砲からの砲弾が炸裂し、爆発音がシェルターの壁を震わせる。赤と橙の閃光が一瞬闇を払い、住民たちの顔を浮かび上がらせた。
警備員たちが「了解!」と応じ、自動砲台が青白い光線を放った。狼型の数体が煙と共に崩れ落ちる。
だが、怪物の群れが車体に飛びかかり、鋭い爪が装甲を切り裂き始めた。金属の断裂音が響き渡り、車内のレイナの姿が揺れた。歯を食いしばり、ハンドルを強く握り締める姿が映っている。
孤立したランドマスターの前に、5メートル級の巨大熊型怪物が立ちはだかった。車体全体を覆うような巨躯は、赤く光る眼窩から憎悪を放っていた。
低い咆哮と共に巨大な前足がランドマスターを打ちつけた。車体が滑り、装甲が歪む音が尾を引く。衝撃でレイナが操縦席に頭を打ち、額から血が滴り始めた。
「まだだ!まだ終わらない!」
掠れた声にも決意は揺るがない。連射されるキャノン砲の弾丸が熊型の肩に命中するも、装甲に走った亀裂は赤い結晶によってすぐに修復されていく不気味な光景が映し出された。
周囲には狼型怪物の数が増え、車体を完全に包囲していく。黒い波のように押し寄せ、そこかしこに赤い眼光が点在していた。
熊型の爪が再びランドマスターを襲い、側面を直撃した。金属が軋み、車体が大きく傾く。衝撃でモニターが一瞬乱れる。
シェルターのスクリーンを通して、レイナが激しく揺さぶられる姿が映る。額からの血が顔を伝い、白いコートにも赤い斑点が広がっていた。
「うっ…!」
彼女の痛みの声がかすかに漏れ、住民たちが息を呑んだ。次の瞬間、熊型の爪が車体を貫き、鋭い切っ先がレイナの腹部を捉えた。白いコートに鮮血が広がり、操縦ハンドルに滴り落ちていく。
「レイナ!」メアリーが叫び、ティムが鉄扉に向かって踏み出した。アールとヴァージニアが泣き出し、ジュディがぬいぐるみを強く抱きしめる。
しかしレイナは諦めなかった。顔に苦痛の表情が走るが、瞳には冷静な決意が残っていた。
「最後にこれを喰らえ!」
歯を食いしばり、震える手でキャノン砲の照準を合わせる。血に濡れた指がコントロールパネルをなぞる様子が画面に映し出された。
キャノン砲が熊型の頭部に命中し、赤い光が一瞬掻き消えたが、すぐに回復した。爆発で周囲の灰が舞い上がり、一時的な混乱が生まれる。
その隙にレイナは車体から這い出ようとしていた。鮮血が彼女の後に点々と落ち、白いコートの大半が赤く染まっている。
巨大な体での体当たりにランドマスターが横転した。エンジンが悲鳴を上げ、重い車体が地面に叩きつけられる音が反響した。衝撃でシェルターの壁が震え、埃が住民たちの頭上に降り注いだ。
モニターが雪嵐のように乱れ、映像が途切れた。住民たちの息が止まり、緊張が高まる。祈りを口にする者や、すすり泣く音だけが静寂を破っていた。
画面が再び安定し、横転した車体からレイナが這い出す姿が映った。血に濡れたコートが重くなり、よろめきながらもシェルターの入口に向かって走る。彼女の足跡が灰の上に血の跡を残していく。
熊型怪物が追いかけ、その爪が地面を切り裂く音が響く。地面が揺れ、レイナが鉄扉に辿り着き、必死に叩く姿がモニターに映る。彼女の顔には痛みが浮かび、唇は青ざめていたが、瞳だけは強い意志の光を失っていなかった。
「ティム、メアリー、開けて!」
「レイナ!?」
ティムが叫び、扉に駆け寄った。子供たちも立ち上がり、メアリーも急いで近づく。重い鉄扉が軋みながら開き、レイナを引き入れると、再び閉じる音が響いた。金属特有の冷たい音が安全を告げると同時に、新たな恐怖の予感も運んできた。
力尽きたレイナは床に倒れ込み、血が床に広がった。呼吸は荒く、顔は灰と血で汚れ、髪は乱れて額に張り付いていた。腹部の深い傷からは血が滲み続けている。
「遅れてすまない」
苦しげに呻いた彼女の声は弱々しいが、瞳には決意の光が残っていた。
「レイナ、大丈夫!?」
メアリーが駆け寄り、眼鏡が曇るほどの切迫感で叫んだ。教師として怪我の手当をした経験が蘇るが、これほどの傷には無力だと直感的に理解した。
子供たちも恐る恐る近づき、足音が床に響く。恐怖と悲しみの混ざった表情でレイナを見つめていた。
「レイナ、血が…!」
アールの震える声。
「死なないで!」
ヴァージニアの叫びに涙が溢れ、彼女のスケッチブックから一枚のページが床に落ちる—それはレイナの笑顔を描いた素描だった。震える線描にも、彼女の希望が確かに表現されていた。
「頑張って」
ジュディの小さな手が伸び、純粋な瞳に大人たちの恐怖が映り込んでいた。
レイナは血に濡れた手を子供たちに差し出し、弱々しい笑みを浮かべた。その表情には、長い間抱いてきた贖罪の思いと、新たに見出した希望の交錯があった。
「希望を捨てるな。戦って生きてくれ」
冷たくなりかける指先で子供たちの頬を優しく撫でる。その手には科学者としての繊細さと、戦士としての強さが同居していた。
その瞬間、鉄扉が大きく揺れ、赤い亀裂が走った。金属が軋み、小型怪物の触手が隙間から侵入してくる。触手の先から滴る赤い液体が床を焦がし、硫黄の鋭い臭いが空気を満たした。
狼型怪物の爪が扉をこじ開け始め、小型の怪物たちが這い込んできた。金属の悲鳴と小型怪物の甲高い鳴き声が混じり合い、恐怖の交響曲を奏でていた。
「下がれ!」
痛みを押し殺してレイナが立ち上がり、ショットガンを構えた。しかし傷のため体がふらつき、血が床にさらに広がっていく。
「無理するな!」
ティムが近くの鉄パイプを掴み、狼型に向かって突進した。
パイプが怪物に当たるが、金属同士の衝撃音と共に彼は弾き飛ばされ、壁に叩きつけられた。背中が冷たい壁に打ち付けられ、痛みが走るが、彼は呻きながらも立ち上がり、再び武器を手にした。
「ティム!」
メアリーが子供たちを抱き寄せ、恐怖と決意が交差する表情で叫んだ。彼女は子供たちを壁際に下がらせ、身体で盾となって立ちはだかった。
より強力な衝撃と共に、熊型怪物が鉄扉を完全に押し潰し、コンクリートの破片を飛散させながら侵入してきた。巨大な黒塊として、赤い眼だけが暗闇で輝いていた。
レイナはショットガンを連射し、一体の狼型を仕留めたが、熊型の触手に叩きつけられ、壁に激しく打ち付けられた。
「うっ!」
衝撃で口から血が噴き出し、壁に赤い染みが広がる。床に滑り落ちる彼女の体から、力が失われていくのが見て取れた。
混乱の中、ティムとメアリーは子供たちを守るため狼型に立ち向かう。ティムがパイプで怪物を叩き、メアリーが鉄箱を投げつけた。
それらの一撃が狼型の結晶部分に命中し、赤い破片が散る鋭い音がシェルター内に響いた。怪物がよろめき、赤い光が弱まり、動きが鈍った。
「最後までかっこよく決めたかった」
壁に寄りかかったレイナが苦しげに微笑んだ。血に染まった唇がかすかに動く。
「医務室へ急げ!」
メアリーの訴えにレイナは静かに首を振った。彼女の目には諦めではなく、受容の色があった。
「待って。もうダメよ」
彼女は子供たちを手招きし、「おいで」と優しく呼んだ。その声には母性的な温かさがあり、彼女自身が経験できなかった絆への憧れを映していた。
子供たちが近づくと、レイナは最後の力を振り絞って語り始めた。浅い呼吸の間に小さな痛みの表情が混じる。
「人生で大事なのは希望を捨てないこと。家族と仲間を信じて進むの」
弱い声だが、芯の強さは失われていなかった。
「私は一人で戦ってきたけど、皆と一緒になって初めて分かった。守りたい人がいることが、こんなに嬉しいものだとね」
彼女の目に涙が浮かび、かすかに光った。後悔と解放の両方を表す涙だった。
「ティム、メアリー…君たちと出会って希望が見えた。私が守ってきたのは、君たちなら大崩壊を防げるかもしれないと信じたからよ」
息を整え、重要な情報を伝え始める。一語一語に命を吹き込むように、彼女は言葉を選んでいた。
「2025年6月20日、ドーセットの森の小川。あそこであなたたちがナノマシンに触れた」
驚愕の表情でメアリーとティムが顔を見合わせる。あの日の記憶が鮮明に蘇る—子供たちとの散歩、赤く光る水、触れた瞬間の感覚。
「あの接触が時空転移の鍵なの。分室の地下にエリザの秘密実験施設がある。そこに行けば、過去に戻れるかもしれない」
レイナの声はより弱まり、一言一言に力を込めているのが明らかだった。白いコートはすでに血で覆われ、赤いキャンバスと化していた。
彼女の瞳に最後の決意が灯る。
「2025年に戻ってエリザの実験を止めれば、大崩壊を防げる」
呼吸が浅くなり、声が細くなっていく。顔から血の気が失われていったが、瞳の光だけは最後まで消えなかった。
「私はもう行けないけど、あなたちならできる。私の代わりに未来を…託すわ…」
震える手がコートのポケットからメモを取り出し、メアリーに渡した。血と灰に汚れたそれは、最後の希望を示す地図のようだった。複雑な配線図と分室地下への道筋が描かれている。
「お願い……この光だけは、消さないで……。私が見た未来を、子供たちに繋いで……」
レイナは力尽きたように目を閉じ、手が力なく落ちた。コートは完全に灰と血に染まり、彼女から生命の気配が失われていく。科学者として精密に計算し、戦士として勇敢に戦った彼女の最期は、静かな安らぎに包まれていた。
外でランドマスターが爆発し、炎と煙が熊型の怪物を包み、空を赤く染める音が響いた。低い轟音と熱波が壁を通して伝わり、シェルター内の空気が一瞬温まる。
住民たちが息を呑み、シェルター内に深い静寂が広がった。子供の泣き声と、祈りを捧げる声だけが静寂の中に浮かんでいた。
ティムがレイナの遺体に近づき、膝をついて見つめた。血に濡れた彼女の表情は穏やかで、長い戦いの後に見つけた平安が浮かんでいた。
ティムの手が震え、汗を拭う。胸に深い悲しみと強い決意が交錯していた。バンガローで彼女に助けられた夜の記憶が鮮明に蘇る。
『あの時から、ずっと俺たちを見捨てずに戦ってくれた』
言葉にならない感情が胸を締め付けた。
「彼女の意志を無駄にしないよ」
メアリーがティムの肩に手を置き、静かに囁いた。分室でのレイナの疲れた笑顔が彼女の心に深く刻まれていた。
『あなたが信じた希望、私たちが引き受ける』
「レイナさん、僕たち頑張るからね」
アールの声には幼さと強さが混じり、未来を担う決意が感じられた。科学への憧れを胸に、レイナの姿を記憶に焼き付けていた。
「いつかスケッチに描くよ。レイナさんの強いところを」
ヴァージニアはスケッチブックを抱き、涙を流しながら誓った。金色の髪が揺れ、緑の瞳が光る。絵を描くことが、彼女なりの最大の贈り物だった。
「ウーちゃんも悲しいって」
ジュディの無邪気な言葉が大人たちの目に涙を浮かべさせた。幼い感性が、時に最も真実を突くことがある。
住民たちの間に動揺が広がり、絶望の声が上がる。誰かが壁を叩き、誰かが膝を抱えて震える。混乱と恐怖が渦巻いていた。
「彼女が死んだのか…俺たちの希望が」 「どうすればいいんだ」
突然、シェルターの通信機からエリザの冷たい声が響いた。スピーカーから流れるその声は感情を欠いた機械的なものだった。
「レイナが死んだのね。だが役に立ったわ」
その言葉にティムが激しく反応する。顔が赤く染まり、首筋の血管が浮き上がった。
「何を言ってる!レイナが…人が死んでるんだぞ!」
床に鉄パイプを叩きつけ、鈍い音と共に灰が舞い上がる。農場で培った力強さがその動きに表れていた。
メアリーは涙を抑えながら、レイナから受け取ったメモを開いた。
「何だろうこれ…」
ティムが家族を集め、静かに決意を語った。
「レイナの意志を無駄にはしない」
メアリーが頷き、「レイナのために動くわ」と言った。
ジュディが「レイナの分も笑うよ」と小さな手を差し出した。純粋な笑顔が、暗いシェルターを一瞬明るく照らした。
住民たちも少しずつ立ち上がり始める。荷物を整理する者、負傷者の手当てを始める者、協力の輪が静かに広がっていく。外では怪物の咆哮が近づき、危険は去っていないが、レイナの遺した希望がシェルターに小さな灯火を点していた。
ティムはレイナの遺体を見つめ、静かに呟いた。声は低く周囲に聞こえないほどだったが、決意は固かった。
「レイナの希望は俺たちにあるのか…」
答えは既に彼の心の中にあった。レイナの決意を胸に、彼らの戦いはまだ始まったばかりだった。外の咆哮とシェルター内の静かな決意の間で、新たな希望の灯火が小さく、しかし確かに燃え始めていた。
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