第4章 終わりの始まり
第18話 鉄壁を裂く赤い爪
時間: 2038年7月26日、午前9時
場所: セクター7東壁~地下シェルター
祝祭の余韻がまだ残る2038年7月26日の朝。
雲間から射す朝陽が、セクター7の上に淡い光を投げかけていた。昨夜のわずかな青空の記憶は、急速に激しさを増す灰の嵐の中で薄れつつあった。フェスティバルの清涼感とわずかな安らぎを胸に眠りについたティム一家のテントを、鋭い灰粒子が容赦なく打ちつけ、粗末な布地が悲鳴のように震えた。風は弱まる気配を見せず、数時間前にやっと洗い落とした灰が再び彼らを包み込もうとしていた。つかの間の休息が砕け散る予感に、空気そのものが重みを増していった。
ティム一家は錆びたドラム缶を片付け、灰が舞う中、ヴァージニアがスケッチブックに花火の残像を描く。アールがカイと笑い合い、「また叩きたいな!」と叫ぶ。突然、広場の隅からハーヴェイが現れる。灰色のローブが風に揺れ、単眼鏡が光を反射。杖を突く手が震え、知性の宿った目が家族を捉える。
「ティム・マクレーン、話がある。」
低い声に緊迫感が滲む。ティムが警戒し、
「爺さん、エリザの差し金か?」
と問うが、ハーヴェイは首を振る。
「レイナが最後に私にメモの解析を頼んだ。エリザの警備がフェスティバルで緩む今が唯一の機会だ。」
メアリーがメモを差し出し、「Dahlia、Tulip、River…何?」と尋ねる。ハーヴェイはデータパッドを起動し、2025年の映像を映す——エリザの娘サラが小川でスケッチを描く。
「サラが愛した花と小川だ。レイナが小川のナノマシン残渣を解析し、停止コードを開発した。それがメモに隠されている。」
ヴァージニアがスケッチブックを握り、「サラの絵…私のチューリップと同じ?」と呟く。ハーヴェイは頷き、
「お前の絵がエリザの心を開くかもしれない。レイナは私の失敗を信じ、希望を託した。彼女の意志を無駄にできん。」
だが、ハーヴェイの目が翳る。
「エリザは全てを灰にしようとしてる。急げ。」
遠くで警備員の足音が響き、彼は灰嵐に消える。
午前中にはティムは東壁の補修作業を終え、鉄壁の基部に立っていた。
汗で濡れたジャケットを脱ぎ、肩を叩いて付着した微粒子を払う。白い粉塵が舞い上がり、金属と埃の混じった特有の匂いが彼を包み込んだ。
「今日の壁は持ちそうだ」
低い呻き声と共に傷痕が薄れた腕を無意識に撫でる。長旅と昼夜を問わない作業の疲れが、目の下に刻まれていた。農場で家族を守るために働いた日々を思い出し、今は鉄の壁に彼らの安全を託すという皮肉に、苦い微笑みを浮かべた。
『昨夜の穏やかさが残ればいいが』
周囲では住民たちが無言で鉄板を運び、溶接の青白い火花が舞い上がっては灰の中に消えていった。金属の衝突音と溶接機の唸りが空気を震わせる。
「オイ、ティム!次は北壁だぞ」
作業仲間が灰に覆われた手で鉄パイプを指差して叫んだ。疲労を隠せない声に、地面に滴る汗が小さな渦を作っていた。
「分かった」
手を振り返した彼の表情には、一瞬の安堵が浮かんでいた。微かに丸まった背中と肩から解けた緊張が、彼の疲労の深さを物語っていた。
温室ではメアリーが若い苗を育てていた。タワー地下のガラス空間に立ち、曇った眼鏡越しに小さな芽を見つめながら呟いた。指先が優しく土を撫で、緑に触れるたびに教室で実験器具を扱っていた記憶が蘇る。
「育つかしら…こんな環境でも」
灰層を通して差し込むわずかな日光が苗に淡い影を落としていた。湿った土と冷たい金属の混ざる空間で、彼女の胸にはロンドンでの穏やかな朝が鮮明に蘇った。窓から差し込む光、キッチンでの笑い声、そして何の心配もない日々。
『昨夜みたいな日があれば…』
ガラス越しの灰に視線を向け、母としての希望が胸を温める一方で、直感的な不安が心の片隅をざわつかせていた。
物資倉庫ではアールとカイがカートを押して笑い合っていた。金属車輪が床を軋ませ、息遣いが白い霧となって漂う。
「カイ、僕の方が速いよ!」
アールの声が弾け、ポケットのタブレットがぶらりと揺れる。冒険心と好奇心が交じり合った目は、友情の喜びに輝いていた。
「負けないよ!」
カイの応答に、二人の間に青春の一瞬が走る。アールの胸には、前夜の太鼓と笑い声の記憶が温かく残っていた。
『カイと一緒なら楽しい』
角を曲がった瞬間、東壁方向から不穏な振動が伝わってきた。アールは足を止め、耳を澄ませた。柔らかな地面が突然固まったような感覚に、背筋に寒気が走る。
水濾過作業場ではヴァージニアとジュディが小さなバケツを持ち、競い合っていた。水の流れる音とフィルターを通る滴りが、二人の笑い声と溶け合っていた。
「次はもっと早くできるよ!」
金色の髪を揺らしてバケツを傾けると、水滴がコンクリートの床に小さな染みを作った。その形が鳥に見えると気づき、彼女の想像力が刺激される。
「ママ、見ててね!」
ジュディの笑い声が部屋に響き、水色のドレスが揺れながら水滴が作る模様に夢中になっていた。純粋な喜びが空間を明るくしていた。
フィルターの赤い結晶を見て、ヴァージニアはお腹が締め付けられる感覚を覚えた。「昨日より増えてる。変な感じがする」と不安がよぎる。
冷たい水の感触以上に、何か異変を感じて心臓が早鐘を打っていた。恐怖しながらも、より近くで確かめようとする好奇心が彼女を動かしていた。
リサが隣のテントから顔を出し、ティムに声をかけた。布地の揺れる音と、足が地面を踏む鈍い音が聞こえた。
「今日は静かだね。昨日のフェスティバルが嘘みたい」
風に揺れるコートの襟を押さえながら、鋭い目が不安げに空を見上げていた。長年の経験から培われた生存者の勘が、彼女に危険の接近を告げていた。
「こんな日が長く続くといいのだけど」
乾いた声で呟き、ティムが頷いて「そうだな。もう少しは楽したい」と応じた。鉄パイプを地面に置く音が、異様な静けさの中でこだまのように響いた。
だがその平穏は、不穏な兆候によって破られた。
東壁の監視塔では、夜勤明けの監視員がモニターをのぞき込んでいた。青い光が疲労に満ちた顔を照らし、機械の低い唸り声が背景を埋めていた。
画面には赤外線センサーが捉えた無数の熱源が点滅し、灰の嵐の向こうで不気味に蠢いていた。雑音を超え、それらが生物のように集団で移動していることは明らかだった。
「おい!何だこれ!」
監視員は目を細めてモニターに顔を寄せた。数値が急上昇し、ナノマシン活動指数が警戒レベルを突破、赤い警告灯が制御パネルで乱舞し始めた。鋭いアラーム音が空間に満ち、彼の鼓動が早まる。
「異常だ。こんな数値、見たことありません!」
焦りに声を震わせ、無線機を取り上げた。冷たい金属が汗ばんだ掌に触れる。
「こちら東塔、ナノマシン反応が異常値だ!確認を急げ!」
応答を待たずに異音が響いた。昨夜テントから聞こえた唸り声が、今度は目前で轟き始めたのだ。
窓に灰が叩きつけられ、パチパチと不規則な音を立てる。床に微かな振動が走り、監視員の背筋が凍りついた。汗が背中を伝い、喉が乾く。
「来るぞ…」
鉄壁の表面を何かが引っ掻く音が響き渡る。金属が削られる鋭い音が耳を突き刺し、恐怖で瞳孔が開き、呼吸が浅くなった。
サーチライトが灰の渦を切り裂き、その光の中に姿を現したのは—
体長2メートルの狼型ナノマシン怪物。青白く光る金属の爪と牙、背中に脈打つ赤い結晶、鉄壁に食い込む爪から散る火花。風のような唸り声が空気を震わせ、灰が渦巻いて視界を奪った。
別の光源が照らし出したのは、3メートル級の熊型怪物。装甲のような外皮が灰を弾き、眼窩から漏れる赤い光、口から立ち上る蒸気。その咆哮は低く胸に響き、恐怖が形を取ったかのようだった。
地表には異形の小型怪物が無数に這い、鉄壁の基部を執拗に削っていた。鋭い爪がコンクリートを抉り、削られた粉が灰と混ざって舞い上がる。赤い結晶が脈動しながら不気味な光を放っていた。
「ナノマシンの大群だ!鉄壁に接近してる!」
監視員が警報スイッチを叩くと、金属音と共に耳を突き刺すような警報音がセクター7全体に響き渡った。サイレンの鋭い音が壁を伝い、住民たちの日常を引き裂いた。
居住区では窓から漏れる光が揺れ、叫び声が上がる。
「何だ!?」 「怪物か!?」
声が重なり、灰が舞って視界を遮る。恐怖の波が居住区を駆け抜け、子供たちの泣き声が静寂を引き裂いた。
技術区では自動砲台が起動し、砲弾が灰の嵐の中で炸裂した。爆発の轟音と共に灰と煙が渦巻き、赤と橙の光が闇を裂いて一瞬の昼を生み出した。
発進したドローン群は、赤い結晶に覆われた鳥型怪物に絡め取られ、火花を散らして墜落していく。金属同士の衝突音が鋭く響き、黒煙が立ち上った。
モニターに映る熱源が膨張し、狼型が鉄壁に爪を突き立てて鋼板に深い傷を刻んだ。金属が裂かれる不気味な音と共に、壁の内側に亀裂が走り始めた。
熊型は体当たりを繰り返し、衝撃が地面を揺らす。基部のコンクリートに亀裂が広がり、小型怪物が群がって削る音が不気味に重なった。
鉄壁の表面に赤いひび割れが広がり、ティムの胸には分室で見た怪物の記憶が鮮明に蘇った。あの赤い眼光、金属を引き裂く爪、人々を灰に変える恐ろしい姿。
『昨夜の音はこれだったのか』
「東壁が危ない!ナノマシンが鉄壁を侵食してる!」
監視員の叫びに技術区が応じる。
「砲台フル稼働中だ!でも数が多すぎる!」
サーチライトが灰の嵐を照らすたび、怪物の群れが増殖していくのが見えた。それは黒い海のように押し寄せ、鉄壁を蝕む赤い潮のようだった。
遠方から新たな巨影が現れ、トラックが怪物に飲み込まれ、車輪が触手のように変形しながら接近してくる。金属が歪む音とエンジンの悲鳴が混じり合い、不気味な旋律を奏でていた。
自動砲台の弾丸が狼型に命中し、何体かが吹き飛んで金属片が散乱するが、群れは増え続けた。破片が灰と混じり、金属の匂いが風に乗って広がる。
熊型の体当たりで鋼板が歪み、コンクリート片が灰に沈む。衝撃が居住区にまで波及し、テント内の食器が震え、わずかな水が地面にこぼれた。
アールの心に、カイと共に運んでいたカートが破損した記憶がよみがえる。その時感じた恐怖と無力感が再び彼を襲い、小さな体が震えた。
『こんなに強いのか!』
「おい!グレネードだ!」
警備員の掛け声と共に手榴弾が投げられ、爆発音が響き渡る。狼型が吹き飛び、破片が灰に散った。一瞬の光が闇を照らし、怪物の赤い目が驚愕に見開かれた。
だが熊型は動じず、赤く輝く眼差しが警備員を捕らえていた。低く重い唸り声は恐怖そのものが実体化したかのようだった。
ティムは居住区の窓から外を覗き、苦く呟いた。降りかかる灰を手で払いながら、彼の目は怒りと恐怖を映していた。
「怪物ナノマシンの大群だ。昨夜のシャワーで綺麗になったばかりなのに!」
皮肉と怒りの混じった声が響いた。
メアリーが寝袋から跳ね起き、震える声を上げた。急いで眼鏡をかけると、不安定な光が彼女の顔に不規則な影を落とす。
「ティム、何なの!?」
彼女の声には明らかな恐怖が滲みでた!
住民たちは通路を走り回り、パニックに陥っていた。足音と叫び声が重なり合う。
「ナノマシンが来たぞ!」 「鉄壁が持たねえ!」
灰が舞い上がり、混乱の中で子供の泣き声が聞こえ、荷物を抱えて走る足音が廊下に響いた。
「東壁の侵食率、30%超えた!」
監視塔から衝撃の報告が入る。窓ガラスが割れる音が響き、破片が床に散らばり、怪物の触手が塔に絡みつき始めた。
ティムがテント入口を開き、外の状況を確認しようとする。布地が裂ける音と共に、冷たい風が室内に吹き込んだ。
「何が起きてんだ!」
彼の声には怒りと不安が混ざり、農場で嵐から家族を守った時の記憶が彼を動かしていた。
武装した護衛が現れ、彼らを急かした。装甲の擦れる音と重い足音が廊下に響いた。
「ナノマシンの大群だ!地下シェルターへ急げ!」
護衛に導かれ、ティムとメアリーは子供たちを抱えて階段を下りていく。錆びた手すりの冷たさが手に伝わり、足音がコンクリートに反響した。階段が重みで軋み、壁からの埃が髪に降り積もる。
恐怖が家族の呼吸を荒くし、アドレナリンが血管を駆け巡る。心臓が早鐘を打つ。
「パパ、怖い!」
アールの声は薄い壁に反響し、恐怖を増幅させていた。
「ママ、どこ行くの?」
ヴァージニアの目には涙が浮かび、腕の震えがスケッチブックを握る力を弱めていた。
「ウーちゃん!」
ジュディがぬいぐるみを落とし、絶望的な叫びを上げた。最愛の友を失った悲しみが小さな体から溢れ出る。
メアリーが素早く拾い上げ、娘に返した。
「ほら、ウーちゃんだよ」
母親の本能が彼女を突き動かし、教師として危機対応の経験が今こそ必要だと感じていた。
地下シェルターにたどり着くと、重い鉄扉が閉まる音が響いた。金属が接触する冷たい音が、彼らの閉じ込められた運命を告げるようだった。
砲撃と怪物の咆哮が遠くに聞こえ、住民たちが恐怖に震えながら身を寄せ合っていた。すすり泣く声が暗い空間に重なり合う。
裸電球が揺れ、オレンジ色の光が深い影を落としていた。壁に映る影が不規則に動き、恐怖を増幅させる。
ティムが覗き窓から外を見ようとするが、灰と赤い光しか見えなかった。冷たいガラスに額を押し当て、苦しげに呻いた。
「何も分からねえ」
メアリーは子供たちを抱きしめながら囁いた。
「大丈夫、私たちが一緒よ」
シェルター内では住民たちの恐怖が溢れ出し、汗と埃の混じった空気が重く、息苦しかった。
「鉄壁が破られたら終わりだ!」
「管理官は何やってんだ!」
外の咆哮が強まり、鉄壁を削る音、怪物の唸り声、爆発音が遠くから聞こえる中で、ティム一家は互いの温もりだけを頼りに、闇に立ち向かっていた。
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