第17話 生存者の日フェスティバル
時間: 2038年7月25日、午後4時
場所: セクター7居住区、中央広場
約一ヶ月が経ち、セクター7の居住区に珍しいざわめきが広がっていた。年に一度の「生存者の日フェスティバル」—灰に埋もれた世界で、人間らしさを取り戻す貴重な時間が訪れたのだ。
中央広場に住民たちが集まり始め、灰嵐が一時的に弱まったことで、空にはかすかな青みが見えていた。鉄壁に囲まれた広場は依然として灰に覆われ、足を踏み入れるたびに微粒子が舞い上がり、独特の摩擦音をたてた。
広場中央の即席ステージは錆びたドラム缶と木箱で組まれ、色あせた布が飾りとして吊るされていた。裸電球が鉄パイプに連なり、点滅する光が舞い上がる埃に反射して淡いオレンジ色の幻想的な光景を作り出していた。
波のように広がる会話の中、子供たちの笑い声が風にさらわれる軽やかな瞬間が何度も訪れた。最初は居住区に足を踏み入れたばかりだった一家も、この一ヶ月で少しずつセクター7の生活に順応しつつあった。
「こんな日があるとはな」
ティムは不思議そうな表情で広場を見渡した。オリーブ色のジャケットは繰り返しの労働で袖口が擦り切れ、肩の傷は完全には癒えていないものの、以前のような鋭い痛みではなく鈍い違和感になっていた。
農場のコミュニティ・フェスティバルの記憶が鮮明に蘇った—麦わら帽子をかぶった子供たち、トラクターのパレード、音楽に合わせて踊る村人たち。「この灰の世界でも笑えるものか」という疑念が、目の前の光景で少しずつ溶けていくのを感じた。
「少しは気が紛れるね」
メアリーの表情には久しぶりの柔らかさが宿っていた。眼鏡を押さえる仕草も自然になり、カーディガンの裾を整える手つきにも余裕が見えた。首元のネックレスが光を受けて輝き、ロンドンの夏の花火大会の記憶が甦った—爆ぜる光の花、歓声に包まれた公園、輝く子供たちの瞳。
「子供たちの笑顔を見たい」という願いが、いつの間にか「この世界でも生きていける」という希望に変わりつつあった。
「何か楽しいことあるかな?」
アールは落ち着きなく飛び跳ねた。トレーナーの袖は灰で汚れていたが、茶色の瞳には好奇心の光が強く宿っていた。「この場所の仕組みが分かってきた」という充実感が彼の動きに表れていた。
「人がいっぱい…」
ヴァージニアは人混みに少し身を縮めながらも、以前よりも積極的に周囲を観察していた。白いセーターを握る手には小さなスケッチブックが見え、この一ヶ月で彼女は灰色の世界にも描くべき価値を見出し始めていた。
「ウーちゃんも嬉しいね!」
ジュディはドレスの裾を摘み、小さく跳ねた。ウーちゃんを胸に抱え、その無邪気さは灰の世界でも変わらなかった。
ステージではドラム缶を太鼓のように叩く音が響き、集まった住民たちによる即興の音楽が始まっていた。不揃いなリズムが独特の魅力を放ち、子供たちが手拍子で応えた。
「僕も叩きたい!」
アールは躊躇なく駆け出し、追いかけるようにカイが隣のテントから現れた。
「一緒に行こうぜ!」
二人はステージに駆け寄り、木箱を太鼓のように叩き始めた。即興の音に彼らのリズムが加わり、広場全体に活気が生まれた。
「元気だな」
ティムの頬に久しぶりの笑顔が浮かんだ。農場で収穫を祝った時のような温かさが胸に広がった。
「楽しそうね」
メアリーは息子の姿を見つめながら、学芸会の練習で生徒を見守ったような温かさを取り戻していた。
「私、絵を描こうかな」
ヴァージニアは決意を込めてスケッチブックを広げた。鉛筆が紙の上を走り、太鼓を叩くアールの動きを捉え始めた。灰色の世界にも彼女なりの色彩を与えようとする試みだった。
「ウーちゃんも踊るよ!」
ジュディはウーちゃんを高く掲げ、くるくると回り始めた。ドレスが円を描き、灰を舞い上げながらも、彼女の喜びは純粋だった。
周囲の住民たちも「いいぞ!」と声を上げ、自然と手拍子が始まった。束の間の温もりが広場全体を包み込み、灰の中でも人間らしさが息づいていた。
リサが近づき、普段より柔らかな表情で言った。
「年に一度の息抜きよ。楽しまなきゃ」
灰色のコートの裾を払い、鋭い目が広場を見渡した。常に警戒心を持ちながらも、今日は特別な日として心を許していた。
「昔はもっと賑やかだったわ」
懐かしさと諦めが混じる声だったが、息子の髪を優しく撫でる仕草に母親の変わらぬ愛情が表れていた。この一ヶ月で彼女はティム一家にとって心強い案内人となり、セクター7での生活の知恵を少しずつ教えてくれていた。
「少しは人間らしく感じるな」
ティムは農場の収穫祭を思い浮かべながら言った。酒を酌み交わす村人たち、火を囲む笑い声。失われた日々が一瞬だけ甦った気がした。
「私たちも少し休めるね。レイナが言ってた希望…ここにあるのかも」
メアリーの手がティムの腕に触れ、二人の間に静かな理解が流れた。裸電球の揺らめく光が彼らの肩を優しく照らし、灰が舞う中でも、家族の絆は一層強まっていた。
「お前が笑ってれば俺も頑張れる」
ティムの声には優しさが満ちていた。長く見なかった妻の笑顔が彼の内側から何かを溶かしていった。
アールが息を切らして走り寄ってきた。
「パパ、ママ、見ててね!」
カイも続いて言った。「次は僕が勝つよ!」
二人の間には強い友情が芽生え、アールはカイから生き抜くための知恵を、カイはアールから好奇心と発見の喜びを学んでいた。
「これ、完成したら見せるね」
ヴァージニアはスケッチブックを見せながら、少し照れた様子だった。鉛筆を握る手には自信が戻り始め、灰色の世界にも彼女なりの方法で色を加えていた。
「ウーちゃんも踊ったよ!」
ジュディの頬は灰で汚れていたが、瞳は輝きを失っていなかった。過酷な環境でも、彼女の純真さだけは変わらなかった。
家族の笑顔が広場に響き、一瞬の平穏が全員を包み込んでいた。風は穏やかになり、裸電球の光が夕暮れの空に向かって伸びていく影を描いていた。
夜が近づくと、広場の端で花火の準備が始まった。技術者が古い砲身に火薬を詰めながら、誇らしげに宣言した。
「派手にはならねえけど、見ててくれよ」
住民たちが自然と集まり、空を見上げた。子供たちは興奮して飛び跳ね、大人たちも肩の力を抜いていた。日々の厳しさを一瞬忘れられる貴重な時間だった。
「花火か…この世界で見られるとは思わなかった」
ティムは農場での七月四日の記憶を胸に抱きながら呟いた。
「ホントに夢みたいだね」
メアリーは眼鏡の奥の瞳で空を見上げた。
最初の花火が打ち上がり、小さな爆発音と共に灰色の空に赤と緑の光が広がった。光はすぐに灰に飲み込まれたが、広場の住民たちからは歓声が上がり、手を叩いて喜んだ。
鮮やかな色彩が一瞬だけ灰色の日常に彩りを与え、生きる希望を再確認させる瞬間となった。
「すごい! もっと見たい!」
アールは科学者のような観察眼で空を見上げながら跳ね上がった。光の軌跡と化学反応に魅了されていた。
「赤と緑…絵に描こう」
ヴァージニアはスケッチブックに花火の姿を描き始めた。これまで記憶の中だけにあった色彩が、目の前で現実となる不思議さに心が震えた。
「ウーちゃん、花火きれいね!」
ジュディの無邪気な歓声が両親の心を温めた。
ティムは家族を抱き寄せ、灰色の世界に咲いた一瞬の色彩の花を共に見上げた。住民の顔に広がる束の間の喜びに、彼の胸もまた温かさで満たされた。
オレンジと白の光が夜空に広がり、子供たちの「もう一回!」という声に応えるように太鼓の音が再び響いた。
フェスティバルが終わりに近づき、家族がテントに戻る途中、メアリーが嬉しそうに言った。
「今日はフェスティバルだからシャワー室を解放しているって聞いたわ」
彼女の胸には学校行事後の充実感が広がっていた。この温かな気持ちを少しでも長く留めておきたいという思いが強まった。
「そりゃいいな。灰まみれだし、ちょうどいい」
一家は居住区の端にある共同シャワー室へと向かった。テント生活が始まって以来、彼らは徐々にセクター7の仕組みを理解し、限られた資源の中で生きる術を身につけつつあった。
シャワー室は簡素な建物で、入口には「1人5分、水は節約」と書かれた看板が傾いていた。男女別のスペースに分かれ、家族はそれぞれ清潔さを取り戻す貴重な時間を過ごした。
「冷てえけど気持ちいいな」
ティムは頭に水をかけ、灰が流れ落ちていくのを感じた。農場での夏の終わりの井戸水を思い出し、「こういう小さな喜びも大切だ」と実感した。
「生き返るようね」
メアリーは満足げにため息をついた。日常の小さな幸せを再確認する瞬間だった。
「お祭りって嬉しいね」
ヴァージニアの声には久しぶりの明るさがあった。緑の瞳が輝き、「この楽しさをスケッチに残したい」という思いが強まった。
「ウーちゃん、ピカピカ!」
ジュディはぬいぐるみを水から守りながらも、自分の顔をきれいに洗っていた。
シャワーを終えた家族がテントに戻ると、濡れた服から滴る水が灰に染み込み、テント内に一瞬の清涼感が漂った。日々の労働の疲れが少し癒され、新たな明日への力が湧いてきた。
メアリーは子供たちの頭を優しく撫で、静かに言った。
「何があっても一緒よ」
夜が深まり、遠くから何か不穏な唸り声が近づいてきた。風が強まり始め、灰がテントを打ちつけ始めた。フェスティバルの余韻が残る中、灰嵐の向こうで何かが蠢いているような気配が感じられた。
「何だ?」
ティムが眉をひそめ、テントの入り口から鉄壁の方向を見つめた。
「風じゃないね」
メアリーは鋭い耳で外の音に注意を払った。
「何かいるの?」アールが不安げに尋ねた。
「また怖いことが…?」ヴァージニアの声が震えた。
「ママ、ウーちゃん怖いって」ジュディが母親に寄り添った。
リサが隣のテントから顔を出し、警戒した声で言った。
「おかしな音ね。こんな日に限って…」
一ヶ月の生活で培った危機感が彼女の声に宿っていた。
「念のため寝る準備だ」
ティムは慎重に家族に指示し、メアリーに目を向けた。
「俺たちがいるから大丈夫だ」
彼の言葉には安心感と同時に、これまでの経験から生まれた警戒心が混じっていた。
「花火、すごかったね」
アールは祭りの記憶にすがるように言った。
「スケッチ、レイナに見せたい」
ヴァージニアの言葉には、消えた恩人への思いが込められていた。
「ウーちゃん、おやすみ」
ジュディの幼い声が家族を繋いだ。
夜の灰嵐がテントを包み込み、鉄壁の監視塔から赤い光が瞬いた。遠くの唸り声は確実に大きくなり、束の間の祝祭の喜びは過ぎ去りつつあった。
しかし、今日の記憶と深まった絆は、これからの試練に立ち向かう力となることを、家族全員が心のどこかで感じていた。灰の世界での一ヶ月は、彼らに失われた世界への郷愁と共に、新たな世界で生き抜く強さも与えていたのだ。
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