第16話 記録保管者ハーヴェイ
時間: 2038年6月27日、午後8時
場所: セクター7中央タワー、記録保管室
エリザの尋問から解放され、疲労が骨身に染みついたティム一家はテントに戻っていた。日が落ち始め、セクター7に夜の静けさが訪れつつあった。
鉄壁の向こうから差し込む夕日が赤みを帯び、灰雲の隙間から滑り込んだ光がテント群に長い影を落としていた。中央タワーの頂から点滅する赤いセンサーライトが不規則な光の模様を描き、灰に沈む居住区に不穏な印象を与えていた。住民たちは足早に行き交い、昼間とは違う緊張感が漂っていた。
夜のセクター7は昼よりも冷気が鋭く、風は強まり、遠くでは金属にぶつかる断続的な音が響いていた。警備員のヘルメットに取り付けられたライトが灰の闇を切り裂いて移動していく様子は、暗闇の中を泳ぐ深海魚のようだった。
テント内では、余韻を残すわずかな休息の時間が静かに流れていた。寄せ集めた寝袋の上で家族は身を寄せ合い、薄暗い空間に呼吸だけが満ちていた。
「レイナ、大丈夫かな…エリザが怖かったよ」
アールは膝を抱えながら呟いた。
「エリザと何か関係あるのかしら?レイナと」
メアリーは子供たちを見守りながら静かに尋ねた。分室で見た映像と今日の出来事を結びつけようとする思考が働いていた。
重い足音が近づき、テント前に黒い影が落ちた。装甲スーツを着た警備員が現れ、冷たい金属質の声が響いた。
「記録保管者ハーヴェイがお前たちに会う。ついてこい」
「またかよ。何だよ?」
ティムは立ち上がり、声に疲労と怒りが混じった。長い一日の終わりに再び命令される不条理に、農場主としての自尊心が傷ついた。
「今度は何?」
メアリーの声に不安が滲み、眼鏡の奥の瞳に警戒心が灯った。
「えぇ…」アールの震える声。
「怖いよ」ヴァージニアはセーターを胸に抱きしめた。
「ママ」ジュディの小さな呼びかけに、家族全員の緊張が高まった。
「黙って従え」
警備員は電撃棒を構え、青い火花が一瞬暗闇を照らした。
「ハーヴェイは穏やかだが、嘘は見抜く」
そう呟き、冷たく踵を返した。
家族は不安と疲労を抱えながらも立ち上がり、再び中央タワーへと向かった。
夜のセクター7は昼間とは異質な表情を見せていた。点在する温室から漏れる緑がかった光がタワーの側面に反射し、テント群の間には焚き火の小さな光が散りばめられていた。その揺らめく灯りが住民たちの疲れた顔を照らし出し、影を不規則に踊らせていた。
灰雲の隙間から覗く星々は、本物の星なのか、あるいは大気中のナノマシンが発する光なのか判然としなかった。鉄壁の上では警備員のサーチライトが外界を探るように灰嵐を切り裂いていた。
風が強まると、灰の渦が視界を遮った。ティムが先頭に立ち、メアリーが子供たちの手を握って続いた。夜の道には昼間より少ない人影。住民たちはテントに退避し、外を歩くのはわずかな者だけだった。
「穏やかでも油断できねえ」
ティムは前方の警備員の背を睨みつけながら小さく呟いた。
「一緒なら大丈夫」
メアリーの言葉には強さと安心感が混じっていた。
中央タワーの基部に近づくと、昼間とは別の顔が見えてきた。タワーの表面に埋め込まれた無数のセンサーライトが赤と青に点滅し、壁面には赤い結晶が夜の闇で鮮やかに脈動していた。
警備員がIDカードをスキャナーに通すと、金属的な音とともに重い扉が開いた。吐き出された白い光と冷気が灰の闇に切り込んだ。
内部は極寒で、呼吸が白い霧となって漂った。壁の結晶が暗闇の中でより鮮明に光り、廊下に不気味な赤い光が染み出していた。天井の電球は昼間より明るく感じられ、影をくっきりと床に投影していた。
エレベーターに乗り込むと、表示パネルに「記録保管室」の文字が浮かび、下層へと降下していった。鉄の箱が揺れるたびに家族は無意識に肩を寄せ合った。ついに扉が開き、記録保管室が姿を現した。
部屋全体が知識と時間の重みで沈んでいるかのようだった。壁一面に本棚が並び、古びた書類やデータディスクが積み重なっていた。棚には破れた本や錆びた金属ケースが詰まり、永年の埃が厚く堆積していた。
床には灰と紙片が散乱し、隅には巻かれた古新聞が無造作に転がっていた。壁の赤い結晶は点在し、静かに脈打って薄暗い光を放っていた。
天井のひび割れた蛍光灯は点滅を繰り返し、壁に不規則な影絵を作り出していた。割れたままの電球が揺れ、部屋に不安定な存在感を与えていた。
部屋の中央には老人、ハーヴェイが佇んでいた。60代ほどの彼は灰色のローブに身を包み、白髪が肩まで伸びていた。片目には古びた単眼鏡をかけ、背は少し曲がり、杖に体重を預けていた。皺だらけの手に微かな震えがあり、瞳には知性の光が宿っていた。
「ティム・マクレーンとその家族か、まぁ座れ」
低く落ち着いた声で言い、埃まみれの椅子を示した。木製の椅子は脚が歪み、座ると軋んで灰が舞い上がった。
「何だよ、爺さん」
ティムは警戒心を隠さずに言った。
メアリーは子供たちを膝に引き寄せ、保護するように抱いた。
「ここ、埃っぽいね」
アールは好奇心を抑えきれない様子で、本棚を見上げた。知識の宝庫に対する科学者的な興味が一瞬恐怖を上回った。
「冷たい…」
ヴァージニアはセーターの袖で手を温めながら呟いた。
「ママ、変な匂い~」
ジュディの素直な感想が静寂を破った。
ハーヴェイは杖をつきながら本棚へと歩み、静かに語り始めた。
「エリザが脅したみたいだな。彼女は冷たいが、セクター7を守るためだ」
埃をかぶったデータパッドを取り出し、指で拭うと灰が舞い上がった。画面が点滅し、緑の光が薄闇の中に浮かび上がった。
「俺たちに何を求めてんだ?」
ティムの問いにハーヴェイは老賢者のような口調で答えた。
「知ることだ。お前らが分室で見た記録を、私が補完する。人類の罪を理解しろ」
パッドを起動すると、「大崩壊」という文字が浮かび上がった。
「2027年7月3日、ウェイド・インダストリーズがエリザのナノマシン技術を利用した最終実験を開始した。内核—自我を持つナノマシンの制御中枢だ。無限のエネルギーを約束したが、暴走して、世界が灰に沈んだ」
画面には緑豊かな地球が映し出され、次の瞬間、灰が空を覆い、樹木が枯れ、土壌が黒く変色していく様子が映し出された。
「あの灰ってナノマシンなの?」
アールは恐怖と好奇心が混ざった表情で尋ねた。
「そうだ。自我を持った塵だ。人間を侵して金属に変える。人類の傲慢さが生んだ災いだ。私はその始まりを見た」
老人のモノクルが光を反射し、顔に刻まれた皺には疲労と諦観が住んでいた。記憶を語るたびに肩が一層重くなるようだった。
「赤い結晶か」
ティムは低く呟き、分室で見た怪物の姿を思い出した。肩の傷が疼き、農場で接触した赤い粒子の記憶が鮮明に蘇った。
「大気が汚染され、植物が枯れて土壌が死んだ。最初の1年で人口の8割が死に、都市が崩壊した」
ハーヴェイの語りはまるで歴史の教授のようだった。画面が切り替わり、2025年のドーセットの森が映し出された—ティム一家が泊まったバンガローと小川。木々の緑が鮮やかに輝き、小川が陽光に煌めいていた。
「…あそこ、私たちが」
メアリーは息を飲み、ロンドンでの最後の平和な朝の記憶が甦った。朝食を作りながら見上げた青空。「あの日が始まりだったの?」という不可解さに胸が締め付けられた。
「2025年6月20日、お前らがバンガローに泊まりに来た日だ。あの小川でナノマシンに触れたな。浄化済みとされてたが、実験の残骸が残ってた。あの日の時空転移実験の失敗が、お前たちを2038年に飛ばした」
画面には小川の水面に微かに浮かぶ赤い結晶が映し出された。かすかに脈動する不気味な光。
「何!? あの小川が…?」
ティムの声に怒りと衝撃が混じった。家族との最後の休暇、子供たちの笑顔、メアリーの優しさ。全てが変わった瞬間の真実に胸が熱くなった。
「赤い粒だ! 僕、触ったよ!」
アールは興奮と恐怖が交錯した表情で手を見つめた。科学的探究心が恐怖を一瞬上回り、生来の好奇心が姿を現した。
「小川の浄化に使われたナノマシンはまだ無害だった。実験初期の粒子で、制御は効いていた。だから今ここにいるんだ」
ハーヴェイの説明に、メアリーは悲しみを滲ませた声で応えた。
「穏やかな日だったのに」
膝に座るジュディを抱きながら、過去の平和な時間を思い出した。教室で生徒たちに「科学の責任」について語った授業が皮肉にも現実となった運命に、苦い微笑みが浮かんだ。
「それが鍵だ。お前らがここにいる理由だ」
老人の言葉には重みがあり、杖が床を打つ鈍い音が響いた。記録を守る者としての責任感が彼の姿勢と声に現れていた。
「これを見ろ。崩壊直後のニュース映像だ」
乱れた映像が流れ、緊迫したニュースキャスターの声が響いた。
「2027年7月3日、ウェイド・インダストリーズの施設で爆発が発生。灰色の雲が全米を覆い、各地で異常が報告されてます—」
音声が途切れ、灰に覆われた都市の映像に切り替わった。高層ビルが崩れ、車が錆びて沈んでいた。
「避難してください! ナノマシンが—」
叫び声が突然途絶え、画面が暗転した。
「こんなことが…」
ティムは息をのみ、呻くような声を絞り出した。無意識のうちにメアリーの手を探り、強く握りしめた。
「報道は1週間で途絶えた」
新たな映像が続き、女性キャスターの震える声が聞こえた。
「2027年7月10日、欧州全域で通信が途絶。灰が大西洋を越えて、ロンドン、パリが壊滅—」
エッフェル塔が灰に埋もれ、金属化した市民が崩れていく様子が映し出された。瓦礫の中に赤い結晶が散らばり、風に灰が舞っていた。
「怖い…」
ヴァージニアの声は震え、セーターを強く握りしめた。目を閉じる彼女を、メアリーは強く抱きしめた。
「ロンドンが」
教室の窓から眺めたロンドンの街並みが、灰に沈む想像に胸が痛んだ。
「次は個人が撮ったネット配信の映像だ。生の恐怖が分かる」
揺れる映像と共に、若い男の恐怖に満ちた声が響いた。
「2027年7月15日、シカゴだ。見てくれ、街が…!」
カメラは灰に埋もれた通りを映し、車が錆びて崩れ、金属化した死体が散乱する様子を捉えていた。アスファルトには赤い結晶が脈打ち、遠くから叫び声が響いていた。
「母さんが侵された! 助けて—」
叫びと共に映像が途切れた。
「ママ」
ジュディは震え、ウーちゃんを胸に押し付けた。小さな体が恐怖で硬直していた。
「くそっ」
ティムは膝を叩き、怒りと悲しみに声が震えた。農場を捨てて家族を守る選択肢があっただろうかという思いが頭をよぎったが、結果は同じだったろう。運命の皮肉に苦い笑みが浮かんだ。
「これが現実だ。知ることは全ての始まりだ…科学は破壊も生むが、希望も生む」
ハーヴェイはモノクルを外し、疲れた目を擦った。目元の深い皺には歴史の重みが刻まれていた。
「何があっても一緒よ」
メアリーは子供たちを優しく抱き、母としての本能が強さを与えていた。どんな恐怖の中でも子供たちを守るという決意が彼女の声に宿っていた。
「何が起きたのかやっと分かった…」
ティムはぽつり呟いた。皆、無言だった。
静寂が記録保管室に広がり、遠くで灰嵐が唸りを上げる中、家族の表情には恐怖と共に新たな決意が浮かんでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます