第14話 与えられた役割

時間: 2038年6月27日、午前8時

場所: セクター7居住区、作業エリア


朝の冷気が尖った刃のように肌を刺し、テントの隙間から忍び込む風に家族は身を寄せ合っていた。外では日々の活動が始まり、住民たちが次々と動き出していた。時折、子供の笑い声が風に紛れて聞こえては消えていった。


テントの狭い空間では、五つの寝袋が不均等に並ぶ床に薄く灰が堆積し、隅の錆びた金属箱には昨日の配給の残り—固いパン2つと水ボトル3本—が静かに横たわっていた。


「豆、美味しかったね。カイと食べたの楽しかったよ」


アールは膝の上でトレーナーの襟を正しながら、昨日の出来事を振り返った。茶色の瞳は薄暗い中でも好奇心に輝き、「温室ってどんな場所だろう」と呟いた。無意識にタブレットを探す指先が空を切った。


「でも寒い…風が冷たいよ」


ヴァージニアは白いセーターの袖を引っ張り、乱れた金髪が顔を覆った。頭の中では彩り豊かな風景—森、空、小川—が次々と浮かんでは消えた。「この灰色ではなく、色彩の世界をスケッチしたい」という思いが胸を満たした。


「パパ、ママ、またパン食べる?」


ジュディは水色のドレスの裾をつまみながら小さく尋ねた。メアリーの膝に寄り添い、足に絡みつく灰が薄い靄のように舞い上がった。


「これじゃ足りねえ。腹が減る」


ティムは空の缶を手に取り、声に苛立ちを滲ませた。ジャケットの袖をまくり上げると、汗と灰で重くなった布地が肩に貼りついた。農場での記憶が喚起された—干ばつの年、底をついた食料庫。羊を売って冬を越した日々。「ここでも稼がなきゃ」という思いが彼を駆り立てた。


「少し休みたいけど、物資少ないし仕方ないね」


メアリーは眼鏡の曇りを指先で拭いながら静かに息をついた。


「何かやらねえと生きていけねえ」


ティムは重々しく立ち上がった。


「パパ、何かするの?」


アールが心配そうに尋ねると、ティムは息子の頭を軽く撫でた。


「じっとしてても腹は膨れねえよ」


指先に触れる髪は以前のような柔らかさを失い、灰と汗で少し固くなっていた。


「無理しないでね」


メアリーの心配の言葉が空気に溶けた瞬間、隣のテントからリサが顔を出した。


「おはよう、新入りさん。仕事が割り当てられるわよ」


彼女の言葉に続き、カイが緑のジャケットに身を包み飛び出してきた。


「僕も手伝ってるんだ! アール、行くぞ!」


痩せた体に大きすぎるジャケットが揺れ、灰まみれの靴が地面を蹴った。


「セクター7では誰もが働くの。物資はタダじゃないわ。配給だけじゃ生きていけないのよ」


リサの声は事実を淡々と伝えながらも、その奥に生き残るための強さが感じられた。


「何やるんだ?」ティムが実務的に尋ねた。


「子供たちも?」メアリーの声に懸念が滲んだ。


「子供でもできる仕事はあるわ。新入りなら尚更ね」


リサの言葉は厳しくも、母親らしい温かさが混じっていた。


「働かないと物資が減らされるし、感染者が出ても誰も助けてくれないから」


一行はリサとカイに導かれ、居住区の端へと向かった。道は無数の足跡が交錯し、風に揺れる空のボトルや布切れが光景に寂しさを添えていた。


「目に入るよ!」


アールは舞い上がる灰に顔をしかめた。


「寒いね」


ジュディの小さな震えにメアリーは優しく応えた。


「すぐ慣れるよ」


彼女は子供たちの手を握り、指先でネックレスの形を確かめた。それだけが過去との唯一の繋がりだった。


「俺が先頭だ。付いてこい」


ティムの低く力強い声が家族に安心感を与えた。


作業エリアは居住区の端に広がり、鉄壁の内側に粗末な鉄骨構造物が散在していた。灰まみれの作業台には錆びた工具—ハンマー、レンチ、溶接機、のこぎり、ペンチ—が雑然と置かれ、住民たちが黙々と作業する音が響いていた。


鉄壁自体は数え切れない傷と錆で覆われ、隙間から絶え間なく灰が流れ込んでいた。高さ15メートルの壁が威圧的に立ちはだかり、頂上の監視塔から赤いセンサーが不規則に瞬いていた。


「でけえな」


ティムの呟きに、メアリーは不安げに周囲を見回した。


「物々しいね。こんなとこで働くの?」


「カイ、何するの?」アールは好奇心に満ちた声で尋ねた。


「見てれば分かるよ! 僕、物資運んでるんだ」


カイの誇らしげな返答に、二人の間に子供らしい活力が生まれた。


「怖い…人がいっぱい」


ヴァージニアは身を縮め、セーターの袖で顔を半分隠した。緑の瞳に浮かぶ涙が、彼女の内なる鮮やかな世界と灰色の現実との乖離を表していた。


「ママ」


ジュディの小さな呼びかけにメアリーは安心させるように手を握った。


「大丈夫だよ、みんなで頑張るだけ」


作業監督が現れた—灰色の制服に腕章をつけた中年男性。顔は灰に汚れ、無精ひげがぼさぼさに伸び、目には深い疲労の色が浮かんでいた。


「ティム・マクレーン一家か。役割を割り当てる」


データパッドを片手に、彼は淡々と指示を出した。


「ティム、鉄壁の補修だ。隙間を埋めろ」


重い溶接工具が手渡され、錆びた金属とコードが灰に絡まっていた。


「壁直すのか」


ティムは頷きながら工具を肩に担ぎ、その重みが傷に響いたが、痛みを隠した。


「メアリー、温室で収穫だ。タワーの地下へ行け」


「野菜ね…子供たちは?」メアリーは心配そうに尋ねた。


「アールとカイ、物資運搬だ。カート押せ」


「カイと一緒だ!」アールの声に喜びが満ちた。


「重いけど楽しいよ!」カイの経験に基づく言葉に少年たちの間で連帯感が生まれた。


「ヴァージニアとジュディ、水濾過の手伝いだ。水をボトルに詰めろ」


錆びたバケツを渡しながら、監督は最後に釘を刺した。


「働けば物資が取れる。怠けるな」


去り際に低く警告を加えた。「怠けると配給減らすぞ」


「私は濾過装置の点検よ。新入りさん、頑張ってね」


リサは笑顔を見せ、カイと共に歩き出した。


「俺がしっかりやるから、お前らも頑張れ」


ティムの言葉には決意と家族への愛情が込められていた。


それぞれの持ち場に散った家族たち。ティムは鉄壁の基部に向かい、補修作業を始めた。灰が侵入する隙間を丁寧に溶接し、飛び散る火花が灰の中に消えていった。


鉄壁の圧倒的な存在感と冷たさに、「これでナノマシンを防ぐのか」と彼は呻いた。汗が灰まみれの顔を伝い、ジャケットに飛び散った火花が小さな焦げ跡を残した。


「新入りか? 壁が命綱だ」


隣で作業する住民がハンマーでボルトを叩きながら声をかけてきた。


「どれくらい持つんだ?」


「崩れたら終わりだ。俺の兄貴は外で死んだ」


その言葉には諦めが滲み、終わりを受け入れた者特有の冷淡さがあった。


ティムは黙って頷き、「なら直すしかねえな」と作業を続けた。肩の痛みも手を止める理由にはならなかった。


メアリーはタワーの地下へ降り、温室へと足を踏み入れた。軋む古いエレベーターが下降し、扉が開くと予想外の光景が広がっていた。


ガラス張りの空間には豆の蔓が棚に絡まり、ジャガイモが土に埋まっていた。薄暗い照明が植物を照らし、ガラス越しには灰嵐が見えた。


「ここで生きてるのね」


彼女は静かに呟き、豆を丁寧に摘み始めた。土が指に付き、汗がカートの縁に滴り落ちた。


「新入りか。手際いいな」


近くで作業する人が声をかけてきた。


「どれくらい取れるの?」メアリーは会話の糸口を探った。


「カート2台分だ。足りねえよ」作業員はため息をついた。


メアリーの目がガラス壁に付着した赤い結晶に留まった。


アールとカイは配給エリアからカートを押していた。パンや缶詰が積まれ、灰が表面を覆っていた。


「重いよ!」


アールは肩で息をしながらも笑顔を保った。好奇心が疲労を上回っていた。


「二人なら大丈夫だろ!」


カイの励ましに力づけられ、二人は足を取られながらもカートを動かし続けた。


突然、缶詰が一つ落ち、アールが拾おうとすると、表面に赤い結晶が付着しているのに気づいた。


「何これ?」


「気にするなよ。よくある。口には入れるなよ」


カイの冷静な対応に、アールは大人たちの諦めが少しずつ子供たちにも浸透していることを感じた。


ヴァージニアとジュディは鉄壁の裏側で水濾過の作業に従事していた。濾過装置から水が流れ出し、赤い結晶がフィルターに引っかかっていた。


「ナノマシンを抜くんだ」


作業員がバケツを渡しながら説明した。


「冷たいね」


ヴァージニアがレバーを引き、透明な水がボトルに注がれた。彼女の瞳に涙が浮かび、「森の水なら描きたい」という願いが胸に広がった。美術の授業で描いた青い川の記憶が鮮やかによみがえった。


「頑張ろう!」


ジュディは明るく振る舞い、小さな手で次々とボトルを並べていった。


突然、フィルターから赤い結晶が数個落ち、作業員が慌てて拾い上げた。ジュディはウーちゃんを膝に置き、「ウーちゃんも手伝うよ」と囁いた。


労働の日が終わり、家族が再会したテントでは、全員の表情に疲労の色が濃かった。


「疲れたな」ティムは肩を押さえながらも、家族の前で弱音を吐かないよう努めた。


「でも、生きるためだね」メアリーの言葉には現実を受け入れる強さがあった。


「カイと一緒で楽しかった!」アールは新しい友情に興奮していた。


「水、冷たかったけど頑張ったよ」ヴァージニアは小さな紙切れを取り出した—水滴を描いた粗いスケッチ。彼女の目には再び輝きが宿っていた。


「ママ、パパ、ありがとう」ジュディの言葉が家族全員の心を温めた。


労働の一日が終わり、家族の絆は更に深まっていた。ティムはメアリーに微笑みかけた。


「みんなが頑張ってるから俺もやれる」


メアリーは子供たちの頭を優しく撫で、静かに言った。


「何があっても一緒よ」


その言葉には温かさが宿り、どんな困難も共に乗り越えていくという決意が響いていた。

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