第13話 朝の配給と不穏な影

時間: 2038年6月27日、朝6時

場所: セクター7居住区、中央タワー付近の配給エリア


一晩中テントを打ちつけていた灰嵐が少し収まり、セクター7に静かな朝が訪れた。空は依然として暗く、鉄壁の上に広がる雲が灰色に沈み込み、遠くの地平線にだけ不自然な赤みが滲んでいた。その奇妙な色合いが静寂に不穏な予感を添えていた。


テントエリアはまだ眠りの中で、布が風にこすれる乾いた音と、遠くからかすかに聞こえるカートの軋みだけが朝の空気を切り裂いていた。


「起きろ、配給の時間だ」


ティムは寝袋から重い身体を起こし、肩を回して小さく呻いた。瞼の裏には農場の記憶が息づいていた—暗いうちから起き出し、朝靄の中で家畜の世話をした日々。土の匂いと牛の温もり。「ここでも同じだ」と心に言い聞かせ、その思いが彼に立ち上がる力を与えた。


「もう朝か…」


メアリーは目をこすりながら応え、曇った眼鏡越しに子供たちを見た。ロンドンの朝の光景が浮かぶ—キッチンテーブルの朝食、教科書を詰め込むバッグ、玄関先での「気をつけてね」という言葉。現実との落差に胸が締め付けられた。


「今はこれが日常ね」


「眠いよぉ…」


アールは一瞬グズったが、次の瞬間には跳ね起き、好奇心に満ちた声で言った。


「何か調べたいな」


眠気を振り払うように頭を振り、壊れたタブレットを無意識に探す指が空を切った。


「寒い…」


ヴァージニアは白いセーターを引き寄せながら震えた。金髪を梳かす指先から、涙が光った。頭の中では青い空と緑の草原が交錯していた。


「ママ、パン食べたい」


ジュディの小さな声が静けさを破った。


テントを出ると、冷たい風が肌を刺すように吹きつけ、家族の息が白い霧となって空気に溶けていった。テント群の間から、他の住民たちもぼんやりと動き始めていた。


リサが声をかけた。「おはよう、新入りさん。配給行くなら今がいいわよ」


灰色のコートを羽織った彼女の声は眠そうでありながら、鋭い目は常に周囲を警戒していた。


「アール、早くしろって!」


カイが緑のジャケットを着て飛び出してきた。少年の痩せた体には大きすぎるジャケットが、袖で手を隠していた。


「一緒に行くか?」ティムが提案した。


「ええ、いいわよ。並ぶなら人数が多い方が有利だもの」リサは現実的に頷いた。


一行は連れ立って中央タワーへ向かった。道は灰に埋もれ、空のボトルや破れた布が風に揺れていた。テントの間を抜けると、他の住民たちが霧のように現れ始め、灰嵐の中で幽霊のように見えた。


「一緒なら大丈夫」


メアリーは子供たちの手をしっかりと握り、教室で不安な生徒を励ましたときのような温かさで語りかけた。


「俺が先頭に立つ。しっかり並べよ」


ティムは低い声でメアリーに目配せし、彼女の決意を支えるような視線を送った。


中央タワーの基部に着くと、配給エリアが広がっていた。錆びた鉄の平台には灰が積もり、古いカートが二台停まっていた。配給係が黙々と物資を積み、固いパン、豆の缶詰、水ボトルが雑に並べられていた。住民たちは長い列を成し、約50人が肩を寄せ合って並んでいた。


「並ぶぞ」


ティムが促し、一家は列の最後尾に並んだ。リサとカイもその隣に立った。


「早めに並べば取れるわ。遅れるとパンしか残らないから気をつけて」


リサの疲れた声に、コートの裾を握る手の緊張が見えた。息子を守るように体を寄せている。


「昨日は俺の分だけだった。今日は家族分だ」


ティムは前日の悔しさを思い出しながら言った。


「みんなで取れるなら安心ね」


メアリーの声には僅かな希望と現実的な懸念が混じっていた。


列の後方では老人が呟いていた。「昨日は缶詰なくなった。早起きが命だ」


「毎日こうなの?」アールがカイに尋ねた。


「うん。でも慣れるよ。時々缶詰が多めに取れる日もある」


カイは経験者の風格で答えた。


「缶詰って豆?」


「豆、好き」


ジュディの無邪気な一言にリサは穏やかに微笑んだ。


「いい子ね。今日は豆が取れるといいわね」


彼女の手がカイの肩を優しく包んだ。


列はゆっくりと進み、やがて配給係の「次!」という声が響いた。ティムを筆頭に、家族全員がパン、水ボトル、缶詰を順に受け取った。灰のこびりついた物資が、彼らの新しい現実を強く印象づけた。


リサとカイも自分たちの分を手にし、カイが歓声を上げた。


「やった、豆だ!」


アールも同調して声を上げた。「僕も豆!」


その小さな勝利感が冷たい朝に一瞬の温もりをもたらし、家族の息遣いが少し軽くなった。


ヴァージニアは缶を大事そうに両手で包み、「この豆の緑色なら、スケッチに描けるかも」と考えていた。緑の瞳が一瞬、光を宿した。


突然、列の前方で騒ぎが起きた。「下がれ!」という叫び声が風に切り裂かれた。


「何だ?」ティムが目を細めて前方を見つめた。


「何!?」メアリーは咄嗟に子供たちを引き寄せ、バンガローでの恐怖の記憶が蘇った。明るい光、叫び声、逃げ惑う子供たち。「また危険なことが起きるの?」という恐怖が広がった。


灰の中からよろめく人影が現れた—それは中年の男性だった。ボロボロの服は灰に覆われ、腕には赤い結晶が浮かび、皮膚が金属のように硬く光っていた。赤く脈打つ目からは獣のような光が放たれ、男がカートに近づくと配給係が恐怖に満ちた声で叫んだ。


「感染者だ! 隔離しろ!」


ナノマシン隔離パネルが作動し、透明な壁が地面からせり上がった。男はパネルに衝突し、赤い結晶が特殊ガラスに擦れて耳障りな音を立てた。


「何!?」アールはカイに縋りつき、震える声を上げた。


「たまにあるんだ…」カイは自分の恐怖を抑えながら小さく説明した。


「怖い、ママ!」ヴァージニアは泣き出し、セーターの袖で顔を隠した。


「パパ!」ジュディはティムの腕をつかみ、ウーちゃんを胸に抱きしめた。


男の喉から、金属が軋むような咆哮が漏れた。腐蝕した皮膚の下で、青い光が蠢いていた。男の口からは黒い液体が滴り落ち、灰の上に落ちるとそこから赤い光が生まれた。不穏な気配が広場全体に染み渡り、空気が凍りついたようだった。


配給係が無線で急を告げると、タワーの側面から灰色の装甲スーツを着た警備員たちが駆けつけてきた。彼らの手には電撃棒が握られ、赤いセンサーが不規則に点滅していた。


一人の警備員が躊躇なく電撃棒を感染者に突き刺した。男は苦痛の咆哮を上げ、黒い液体が更に滴り落ちた。パネルの中に完全に閉じ込められた男の体内で赤い結晶が脈動し、電撃の青い火花が暗い空間を一瞬照らした。


リサは素早くカイの目を手で覆った。「見ないで!」


そして低い声で説明を加えた。


「ナノマシンが漏れるとこうなるの。外から入ってくるのよ」


重みのある声には、この光景を何度も見てきた疲れが滲んでいた。


「外から? ゲートは閉じてるだろ」ティムは眉をひそめた。


「隙間はあるのよ。壁の裏で処理してるけど、完璧じゃないわ」リサは視線を逸らしながら答えた。


警備員の一人が「配給再開!」と叫び、住民たちは怯えながらも列に戻り始めた。しかし、立ち去る警備員の一人が仲間に漏らした「またか…増えてる」という言葉が風に紛れて届いてきた。


「よし、みんな一緒にテントに帰るんだ」


ティムは家族に強さを見せようと言ったが、内心の不安は消えなかった。


家族とリサ、カイは物資を抱えてテントへ戻った。


「これがセクター7か」ティムは呻くように言った。


「ティム、無理しないで。子供たちが怖がってる」


メアリーは夫の腕に手を置いた。


「カイ、あれ何だったの?」アールは友人に尋ねた。


「ナノマシンの病気だよ。ナノマシンに取りつかれた人がこうなるって」


カイは恐れを隠せないながらも知識を分かち合った。


「嫌だ…」ヴァージニアは小さく呟き、セーターで顔を覆った。頭の中で青い空、白い雲、緑の草原を思い描き、現実から逃れようとした。


「パパ、ママと食べるね」ジュディはティムの腕にしがみついていた。


「寒いわね…火を起こして朝ごはんを食べましょう」


リサは実用的なアドバイスを続けた。


カイとアールは焚き火場で鉄板を掘り出し、枯れた布と木片で火を起こした。メアリーは缶詰を開け、豆を鉄板に広げた。火のわずかな温もりが緊張を和らげていった。


「豆、美味しい…でも怖かった」アールは正直に感想を述べた。


「僕も初めて見た時は泣いたよ」カイは先輩らしく明るく振る舞った。


「パン硬いけど、豆と一緒ならいいね」ヴァージニアの声には小さな希望が混じり始めていた。


「ママ、パパ、ありがとう」ジュディは両親の膝に抱きついた。


「明日も取る。生きなきゃな」ティムは農場での干ばつを乗り越えた時と同じ言葉で家族を励ました。


灰は絶え間なくテントを打ちつけていたが、焚き火の温もりと家族の絆が小さな希望となっていた。


リサは何か言いかけたが、途中で言葉を切った。


「昔よりマシよ。昔は…」


彼女の言葉が途切れた瞬間、遠くから乾いた咳が響き、不穏な影が確実に膨らんでいるように感じられた。

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