第3章 灰に灯る希望

第12話 セクター7

時間: 2038年6月26日、午後3時

場所: セクター7居住区、仮設テントエリア


セクター7の居住区に足を踏み入れた瞬間、息を飲むほどの光景が広がった。灰の風が無数のテント間を縫うように流れ、足元を這う冷気が肌を刺した。泥のように混ざり合った足跡の道には、小石や錆びた釘が散在し、靴底に突き刺さるたびに嫌な感触が伝わってきた。


無秩序に密集したテント群は風雨と灰によって黄ばみ、薄汚れた姿で立ち並んでいた。遠方には中央タワーの輪郭が灰嵐越しに浮かび上がり、錆と剥落した白塗装が斑点模様を描き、頂部の信号灯が不吉な赤い光を不規則に投げかけていた。


「ここがお前らの場所だ。物資は1日1回、中央タワーで配給。並べ」


検疫官の機械的な声はマスク越しに無感情に響き、言い終わるやいなや踵を返して立ち去った。足跡はすぐに風に消されていく。


「新しい家ってわけか」ティムは肩を押さえ、血で黒く染まったオリーブ色のジャケットを調整した。長旅の疲労が目の下に濃い影を落とし、微かに震える手が農場の記憶を掻き立てた。


「とりあえず落ち着けるだけマシね」メアリーは子供たちを腕に抱き寄せた。グレーのカーディガンの破れた部分が肩に擦れ、ひびの入った眼鏡フレームが光を歪めていた。ロンドンの朝の光景—朝食テーブルに並んだトーストとジャム、窓からこぼれる柔らかな光—が遠い夢のように思えた。「こんな場所でも生きていくしかない」と繰り返し、目の前の世界と向き合う覚悟を決めた。


家族はテントの入り口に立ち尽くし、灰嵐が布を叩く音と疲れた息遣いが混ざり合った。


テント内に踏み入れると、幅3メートル、奥行き4メートルほどの狭い空間に5つの寝袋が並んでいた。薄く灰が染み込んだ布地は端に小さな穴が開き、冷たい風が忍び込んでいた。中央の錆びた折りたたみテーブルは脚が歪み、触れると指先に冷たい金属感が残った。


隅の金属箱には生活必需品—固いパン4つ、水ボトル5本、薄い毛布2枚—が収まっていた。パンはひび割れて触るとカチカチに硬く、水ボトルの底には不気味な沈殿物が揺れていた。


「これが初日の分か」ティムは箱を覗き込み、重たげに肩を下げた。ジャケットの血痕が広がり、掌の汗が箱の縁に染み込んでいった。


「少ないけど…何とかなるわよね」メアリーは寝袋に腰を下ろし、汗と灰で重くなったカーディガンをなでた。かつて教室で生徒たちに「我慢も力よ」と諭した自らの言葉が耳元でささやく。今はその言葉を自分自身に向けていた。


「硬い! 歯が折れそう」アールは明るさを装ってパンを手に取り、かじろうとして顔をしかめた。


「水、冷たいね」ヴァージニアはボトルを両手で握りしめた。


「お腹すいた」ジュディの無邪気な訴えが家族の胸を締め付けた。彼女はメアリーの膝に顔を埋め、カーディガンを小さな手でつかんだ。


テント内に疲労感が漂う中、外から低い話し声が聞こえた。隣のテントから灰色のコートを着た女性、リサが現れた。痩せた体に宿る鋭い眼差しが風に揺れる灰まみれの髪の間から家族を見つめていた。彼女の隣には10歳ほどの少年、カイが立っていた。緑のジャケットは灰で汚れ、袖が手を覆うほど長かった。


「新入りさん? 大変だったでしょ」リサはコートの裾で手を払い、灰が舞い上がった。疲労の陰に小さな笑みが浮かんだ。


「ティム・マクレーンだ。ここが割り当てだって」ティムは疲れた声で答えた。


「リサよ。この子はカイ。隣に住んでるの」彼女は愛情をこめて息子の頭を軽く撫でた。


「やめてよ、ママ!」カイは抗議しながらも、アールに興味津々で近寄った。


「お前、名前何?」


「アール!初めまして。まだドキドキしてるよ」アールは笑顔を見せた。


「分かるよ。僕も最初ドキドキして寝れなかった」カイは肩をすくめた。


「物資ってどうやって取るんだ?」ティムは実用的な質問をした。


「中央タワーよ。1日1回、1人1セット。子供たちも並べるから、できれば全員で行った方がいいわ」リサはボロい布袋からパンと缶詰を見せながら説明した。リサは灰のこびりついた指で缶詰ひとつをティムに渡し、「初日はお腹空いてるでしょ?これ足しにして。でも、 少しずつ我慢する力をつけていくのよ」と優しく助言した。彼女の眼差しは鋭くも、母親特有の温かさを秘めていた。


「明日、全員で並ぼう」ティムはメアリーに目をやり、彼女の決意を確認するように小さく頷いた。


「並ぶのか…大変ね」メアリーは疲れた声で囁いた。


「慣れるものよ。でも遅れると何も残らないから気をつけて」リサは経験者らしく続けた。「タワーの下に温室があって、豆やジャガイモ作ってるの。缶詰とパンはそこから来るのよ」


「水は?」ティムが尋ねると、リサは小さく笑みを浮かべた。


「鉄壁の裏に地下水の濾過装置があるの。ナノマシンを取り除いて飲めるようにしてるけど、量が少ないのが難点なのよ」


「時々変な味するよ」カイが付け加えた。


「変な味?」アールの目が好奇心で丸くなり、一瞬恐怖を忘れた表情に少年らしさが垣間見えた。


「生きる術があるのね」メアリーは小さく微笑んだ。新たな環境の情報に少しだけ安心した様子だった。


「温室って何?」ヴァージニアが首を傾げて尋ねた。


「野菜を作る場所よ」メアリーは教室で使ったような口調で優しく説明した。


「豆、好き」ジュディの無邪気な一言にリサは優しく微笑んだ。


「いい子ね。豆なら毎日食べられるわよ」


「でも温室の豆、時々赤い粒が混じる。食べない方がいいよ」カイの警告に場の空気が一瞬重くなった。


灰を運ぶ風がテントの布を激しく叩き、隙間から灰が吹き込んできた。ティムが決意を固め、立ち上がった。


「俺、タワー行ってくる」肩の傷が疼く中、汗ばんだ掌がズボンに染み込んだ。


「今なら間に合うわ。3時半に配給始まるから急いだ方がいいわよ」リサが実用的に助言した。


ティムは灰の中を歩き出し、次第に姿が霞んでいった。


中央タワーの基部には鉄の平台にカートが停まり、配給係が物資を積み込んでいた。長蛇の列に並ぶ住民たちの灰まみれの服が風に揺れていた。


最後尾に並んだティムに、隣の男が「新入りか? 1人1セットだ」と小声で教えた。


「家族が5人だ」と答えると、男は冷たく笑った。「置いてきたなら今日は1人分だ」


配給係の「次!」という声でティムの番が来た。パン、水ボトル、缶詰を受け取り、「家族がいるんだ」と訴えても、相手は機械的に「並べば取れる。次!」と返すだけだった。


重い足取りでテントに戻ったティムは、入り口で息を整えてから「俺の分だけだ。明日から並ぶぞ」と告げた。


「ティム、無理しないで」メアリーの心配そうな声が響く中、家族は少ない物資を分け合った。


「硬いけど頑張るよ」アールは明るく振る舞った。


「豆、ちょっと変な味」ヴァージニアは顔をしかめながらも、必死に食べた。


「ママ、これ好き」ジュディは母親に寄り添い、小さな声で言った。


「慣れりゃ何とかなる」ティムは低い声で言った。農場で初めて雹に打たれた作物を見た時の無力感が蘇った。自然の前に人は無力だ。適応するしかない。


灰嵐は容赦なくテントを打ちつけ、新しい絆が芽生え始める中、遠くで誰かの乾いた咳が響き、不穏な予感がかすかに漂っていた。


メアリーは子供たちの頭を優しく撫で、「何があっても一緒よ」と囁いた。温かな声には、この荒廃した世界で生き抜く決意が込められていた。

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