第11話 鉄壁の向こう、そして別れ
時間: 2038年6月26日、午後1時
場所: セクター7ゲート、鉄壁に囲まれた要塞
ランドマスターが荒野の起伏を乗り越え、遂にセクター7のゲート前に辿り着いた。エンジンの鼓動が弱まり、タイヤが砂混じりの灰の上を最後に回転して停止した。装甲の亀裂から灰が粉雪のように舞い落ち、時間と戦いの痕跡を物語っていた。
フロントガラス越しに見えたのは、人類最後の砦と呼ぶにふさわしい光景だった。
セクター7—高さ15メートルを超える巨大な鉄壁は、限りない戦いの傷跡を帯び、地平線の彼方まで延々と続いていた。軍事用強化鋼板には無数の爪痕と焦げ跡が刻まれ、これまでどれほど多くの攻撃を耐え忍んできたか、その歴史が刻まれていた。壁頂には自動監視塔が配置され、赤いセンサーが定期的に光線を放ち、灰色の世界で唯一、機械的秩序が保たれていることを示していた。鋼鉄のプレートには「セクター7・人類保護区域」と刻まれ、塗装は風雨で剥がれながらも硬質な威厳を放っていた。
メアリー・マクレーンは車内の後部座席で子供たちを見つめ、疲れ切った声で言った。
「ここが...人類の最後の砦なの」
長時間の緊張から解き放たれるように、彼女の肩から力が抜けた。もつれた栗色の髪が汗で額に貼りつき、眼鏡のレンズには灰と埃が付着して視界を曇らせていた。彼女の指が首元のペンダントを無意識に探り、その冷たい感触が今の現実と過去の記憶を繋ぐ唯一の錨のように思えた。
「あの壁の向こうに答えがあるのね...」
助手席のティム・マクレーンも肩の痛みを押し殺しながら、鉄壁を見上げた。
「なんて代物だ...まるで要塞だな」
彼の声には農場で鍛えた頑健さの中にも、明らかな消耗の色が混じっていた。
「医務室があるといいんだが...」
レイナは車を完全に停止させ、ショットガンの安全装置を確認した後、ゲートを注視した。彼女の表情には安堵と緊張が入り混じり、革ジャンの下で筋肉が警戒に備えて硬くなっていた。
「警備は厳重だ。グリーンカードがない我々は検査を受ける」
アールは窓に両手を押し当て、少年らしい率直な感嘆の声を上げた。
「すごい壁!どうやって建てたんだろう?」
彼の目は壁の構造的特徴を即座に分析し始めた。塔に配置された監視カメラ、センサーアレイ、防衛用砲台—どれも彼のような12歳の少年にとっては未知の超技術だった。「見て、あの上にはドローンまである!」と指差した。無機質な鋼の要塞さえ彼の好奇心の対象となり、一瞬だけ現状の恐怖を忘れさせた。
ヴァージニアは引き寄せたセーターの中から小さな声で言った。
「冷たそう...あんな灰色の壁」
「中はどうなってるんだろう...」
彼女の想像力は壁の向こうにある未知の世界を描き始めていた。
ジュディはウーちゃんを胸に抱いたまま、無邪気な問いを発した。
「ママ、あそこが新しいお家?」
「パパとママがいれば大丈夫だよね」
彼女の確信に満ちた言葉に、大人たちはかすかに顔を見合わせた。
車がゲート前で完全に静止すると、鉄壁に埋め込まれたセンサーが反応し、低い警告音が鳴り始めた。地面が微かに震え、電磁ロックが次々と解除される音が響いた。巨大な油圧シリンダーが始動し、鉄のゲートがゆっくりと開き始めた。金属が金属を擦る音は、大地が呻くかのような圧迫感を伴い、全員の心臓を早鐘のように打たせた。
開きかけたゲートの隙間から冷たい風が車内に流れ込み、全員が無意識に身を寄せ合った。灰と消毒薬の混ざった匂いが漂い、人間の営みが確かに存在することを告げていた。
ゲートが完全に開くと、セクター7の内部が姿を現した。巨大な円形の敷地の中央には管理タワーがそびえ立ち、その周囲には機能的な建物が同心円状に配置されていた。壁際には赤く脈動するナノマシン隔離パネルが規則的に並び、外界からの侵入を阻む最終防衛線となっていた。
人影も見え、かろうじて残された人類の日常が灰色の空の下で営まれていた。しかし、その風景には何か異様なものも感じられた—過度に規律正しい動き、警戒心に満ちた表情、そして至るところにある監視カメラの存在。
アールは驚きと興奮を抑えきれない様子で目を見開いた。
「人がいる!未来の人たちだね!」
彼の科学への情熱は、この文明の遺産を目の当たりにして一層燃え上がった。塔の上部に設置された気象観測装置、通信アンテナの複雑な配列、建物間を移動する装甲車—どれも彼の分析対象となり、脳内では自動的に構造の理解を試みる処理が始まっていた。
ティムも思わず呟いた。
「ここに住んでいる人間が...まだいたのか」
車がゲートを通過する瞬間、全員が息を呑んだ。背後でゲートが閉まり、重い金属音と共に外界が完全に遮断された。閉じ込められたような圧迫感と、安全を得た安堵感が、奇妙なバランスで彼らの心を満たした。
レイナは小さく息を吐き、肩の力を少し抜いた。
「これでひとまず...安全だ」
その言葉には確信と同時に、微かな警戒心も含まれていた。久しぶりに訪れるセクター7の変化を敏感に察知し、以前知っていた場所との違いに目を細めていた。
「監視が増えている...そして、あれは...」
彼女の視線が捉えたのは、ゲート近くに設置された検疫ステーションだった。
車が完全に止まると、灰緑色の制服を着た検疫官が近づいてきた。顔はマスクとゴーグルで覆われ、機械的な動きで車を一周し、センサーを車体に向けた。その姿からは人間らしい温もりが徹底的に排除され、任務への忠実さだけが残されていた。
家族全員が車から降り、初めて灰の大地に直接足を踏み出した。空気は想像以上に冷たく、肌を刺すような乾燥感があった。
検疫官は感情を排した機械的な声で尋ねた。
「グリーンカードは?」
その言葉は命令のように響き、人間らしい対話の余地は微塵も感じられなかった。ゴーグルの奥にある目は、彼らを危険な侵入者として捉えていた。
ティムが戸惑いながらも、毅然とした態度で応えた。
「前にも言われたがグリーンカードって何だ?我々にはない」
彼の声には疲労と共に、家族を守る者としての尊厳があった。
レイナが一歩前に出て、家族と検疫官の間に立った。
「この人たちは安全だ。時間跳躍者だ」
検疫官は規則に従った対応で答えた。
「規則は規則だ。検査する」
機械的な冷たさでセンサーをティムに向け、緑色のライトが点灯すると「ナノマシン反応なし」というデジタル音声が発せられた。検査の瞬間、ティムの体が一瞬こわばったが、結果を知って肩の力が抜けた。
「ティム・マクレーン。俺は単なる農夫だ。家族と共に安全を求めてきた」
子供たちも順番に検査され、それぞれが緊張の中でも自己紹介した。アールは好奇心をむき出しに「ぼく、アール・マクレーン!それはナノマシン検出器?どう作動するの?」と質問攻めにし、ヴァージニアは恥ずかしそうに「ヴァージニアです…」と小さく答え、ジュディは予想外にも明るく「ジュディだよ!こっちはウーちゃん!」と笑顔を見せた。
しかし、検疫官がレイナに検出器を向けると、突然赤い警告音が鳴り響いた。全員の表情が凍りつき、ティムが驚いて「何!?」と叫んだ。
検疫官は冷淡な声で告げた。
「ナノマシン反応検出。微量だが確かに存在する」
その言葉に、家族全員の顔から血の気が引いた。せっかく安全と思われた場所での予期せぬ危機に、メアリーは子供たちを本能的に後ろに下がらせた。
レイナは驚きの色を隠しきれなかったが、すぐに冷静さを取り戻した。
「感染ではない。過去の研究による痕跡だ」
彼女はポケットからIDカードを取り出し、検疫官に差し出した。数年間の風雨で色褪せたカードには、若く希望に満ちた彼女の写真が残されていた。
「レイナ・ハート、ウェイド・インダストリーズ、ナノマシン研究部。元社員だ」
検疫官はカードをスキャンし、数秒の沈黙の後、短く言った。
「確認完了。反応値は許容範囲内。通過許可」
家族全員が安堵のため息をつき、メアリーは「良かった...」と小さく呟いた。彼女の科学者としての頭脳は、レイナの体内に残るナノマシンの謎に興味を惹かれたが、今はそれよりも安全が優先だった。
検疫官は無表情に告げた。
「居住区へ案内する」
彼は先導して歩き始め、一行はその後に続いた。セクター7の内部は、規律と混沌が奇妙に共存する空間だった。整然と配置された軍用車両の傍らで子供たちが遊び、精密な監視システムの下で日常的な取引が行われていた。
アールは目を輝かせて周囲を見回した。
「見て!なんだろうあの機械」
彼の指差す先には、複雑な機械装置が作動していた。
壁のパネルには赤い結晶が封じ込められ、脈動するように光を放っていた。それは捕らえられたナノマシンの姿だ。
ヴァージニアが身震いしながら尋ねた。
「あの赤いの...また出てる」
検疫官は淡々と説明した。
「ナノマシン隔離システムだ。外界からの侵入を防ぐ」
レイナは黙って中央タワーを見つめていた。やがて小さく呟いた。
「昔は希望だった...ナノマシンは未来を変えるはずだった」
一行が広場の端に差し掛かると、レイナが突然足を止めた。彼女の表情に決意が浮かび、一瞬の逡巡の後、言葉を発した。
「みんな、私はここで別れる」
その唐突な宣言に、家族全員が驚き、振り返った。ティムが困惑した様子で尋ねた。
「どういうことだ?」
彼の声には、この長い危険な旅を共にした戦友への信頼と心配が込められていた。
レイナは静かに、しかし決意を込めた声で語り始めた。
「分室で見たあの封印エリアの謎を追う。...わかってくれるね」
「セクター7に留まれば監視される。自由に動けない」
メアリーは眉を寄せ、状況を把握しようとした。
「あの封印エリアに何があるの?」
レイナは少し視線を逸らし、「かもしれない...あの封印区画には何か重要なものがある。そして...」と言い、声を落として付け加えた。
その言葉に、メアリーの瞳に希望の光が灯った。「それが見つかれば...私たちも戻れる可能性があるのね」と彼女は囁いた。
その瞬間、アールが感情を爆発させるように叫んだ。
「レイナ、行かないで!」
ヴァージニアもレイナに駆け寄り、黙ってその腕にしがみついた。
「一緒にいてよ...」
ジュディは小さな手を伸ばし、純粋な信頼を込めて言った。
「レイナ姉ちゃん、また会える?」
レイナは膝をつき、子供たちと目線を合わせた。革ジャンの膝が灰に触れ、長年の孤独の中で忘れていた温かさがじわりと胸に広がった。
「アール」彼女は少年の名を優しく呼び、肩に手を置いた。「お前の好奇心は大切な武器だ。疑問を持ち続けろ。観察し、理解するんだ」
彼女の微笑みには本物の温かさがあり、アールの科学への情熱に対する敬意が込められていた。アールは「うん...必ず」と涙を必死に堪え、「帰ってきてね、いろいろ教えてくれるって約束して」と小さく付け加えた。
次にヴァージニアを見つめ、レイナは優しく語りかけた。
「ヴァージニア、お前の目は特別だ。他の誰も見えないものが見える。その感性を大切にしろ」
彼女は少女の金髪をそっと撫で、「いつか、この灰色の世界に色を取り戻す日が来る。その時、お前の絵でこの世界を彩ってくれ」と言った。
ヴァージニアは涙で濡れた頬を拭い、「約束する」と小さく頷いた。彼女は心の中で「レイナを描くんだ...わたし」と誓った。
最後にジュディに目を向け、レイナは思いがけない優しさで語りかけた。
「ジュディ、ウーちゃんを大切にな。お前のように純粋な心を持つ者が、この世界を救うんだ」
彼女の声には、長い孤独の中で忘れかけていた人間らしい温かさが戻っていた。ジュディの単純な愛情が、彼女の硬い心に触れたのだ。
「レイナ姉ちゃん、また来てね」
その無邪気な願いに、レイナは「約束するよ」と応え、その言葉に嘘はなかった。
レイナが立ち上がると、革ジャンから灰が舞い落ちた。ティムが一歩近づき、言葉を選びながら言った。
「気をつけろよ。何かあったら...」
彼の言葉には、実直さと、戦友への敬意が込められていた。彼は多くを語らなかったが、その簡潔な言葉には深い感謝の念が込められていた。
「もし戻ってきたいなら...ドアは開けておく」
メアリーも心からの感謝を込めて言った。
「レイナ、あなたのおかげで私たちは生き延びた。どうか...あなた自身も生き延びて」
レイナの選択の論理を理解していた。しかし彼女の心は、この短い時間で芽生えた絆の重さを感じていた。
「あなたも...家族よ」
「家族...」
レイナはその言葉を口にし、自分の声が震えるのを感じた。彼女は家族という言葉を忘れていた。かつての研究所の同僚たち、そして彼らが一人また一人と失われていった記憶が彼女の胸を締め付けた。そして今、思いがけず新たな絆が生まれていた。
彼女はランドマスターへと歩き出した。その背中には決意と別れの寂しさが表れ、足音は砂利を踏みしめる確かな音を立てた。風に舞う灰が彼女の姿を一瞬隠し、旅の終わりと新たな旅立ちの寂しさを象徴するかのようだった。
残された家族は彼女の後ろ姿を見送り、アールが「レイナさん!」と大きく手を振った。ヴァージニアは涙を拭い、ジュディは「バイバイ!」と元気に叫んだ。彼らの心には、もう一人の家族の存在が刻まれていた。
ランドマスターのエンジンが再び唸りを上げ、レイナを乗せた車はゲートへと向かった。重い音を立ててゲートが開き、彼女の姿を灰色の外界に送り出した。そして同じ音と共にゲートは閉じ、彼女と家族を完全に分かつ鉄の壁となった。
別れの静寂を破ったのは、検疫官の冷たい声だった。
「居住区はこちらだ」
その機械的な言葉は現実を思い出させ、家族を新たな環境へと促した。
ティムは傷ついた肩を押さえながらも、背筋を伸ばした。「ここから始める」という決意が彼の心を満たしていた。メアリーは子供たちの頭を優しく撫で、「何があっても一緒よ」と囁いた。
灰の荒野が彼女を飲み込み、ランドマスターの姿が徐々に小さくなっていった。しかし彼女の目には新たな決意が燃えていた—過去の罪を贖い、この家族に未来を取り戻すという使命が。
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