第10話 罠に潜む過去

時間: 2038年6月26日、朝9時40分

場所: 荒野、セクター7分室(地下施設)


ランドマスターが灰色の荒野を切り裂き、セクター7分室の前で停止した。エンジンの咆哮が弱まり、タイヤが水を含んだ灰の上で最後の回転を終えた。窓の外に広がる光景は人類の夢が埋葬された墓標のようだった。


巨大な半円形の研究施設は大地に半ば埋もれ、緩やかな丘のように風化していた。コンクリートの外壁には幾何学的な亀裂が走り、時間の爪跡を刻んでいた。入口の門柱だけがかろうじて原型を留め、「セクター7 分室」の文字が風化した金属板に辛うじて残っていた。夜間照明用のソーラーパネルは斜めに傾き、数十年分の砂嵐が表面を曇らせていた。かつて未来を拓くはずだった研究拠点は今、過去の亡骸となって荒野に横たわっていた。


メアリー・マクレーンは後部座席で子供たちを抱きながら、緊張で引き締まった声で尋ねた。


「ここが...セクター7?」


レイナはハンドルから両手を離し、建物を詳細に観察した。彼女の鋭敏な視線は、通気口の配置から防衛システムの停止状態まで、一瞬で捉えていた。


「ここは分室だ。本部はまだ先にある。だが...おかしい」


彼女の声は低く、過去に向けられたような調子で続いた。


「ナノフィルターが切られている。防御システムも休止状態だ」


「この前まで稼働していたのに...」


その言葉には不安が含まれ、黒い瞳には警戒心が満ちていた。指先がショットガンの安全装置を確認し、革ジャンのポケットを無意識に探る動作には長年の戦いで培われた習慣が見えた。


アールは窓に顔を押し付け、好奇心に満ちた声を上げた。


「研究所だ!実験装置とかあるのかな?」


彼は建物のシルエットを観察し、科学少年の眼差しで構造の特徴を把握しようとしていた。


ヴァージニアは抱きしめたセーターの中から小さな声を漏らした。


「気配がする...中に何かいる」


彼女の緑の瞳は施設の影に何かを感じ取り、他の誰も気づいていない存在の気配を察知していた。彼女は不安に身を震わせながらも、その感覚を言葉にする勇気を持っていた。


「赤くて...黒いもの」


ジュディは無邪気な好奇心と恐怖が入り混じった表情で尋ねた。


「パパ、あそこ何するとこ?」


幼い子供の視点から見れば、この荒廃した建物も単なる不思議な場所に過ぎなかった。


レイナは決然とした声で告げた。


「降りる。様子を見てくる」


ショットガンを手に取る彼女の動きは無駄がなく、車のドアを開けるとすぐに周囲を警戒し始めた。風が運ぶ灰が彼女の黒髪に絡み、顔に付着した汗と混ざって小さな泥の筋を作った。その表情は硬く、瞳には過去と現在が交錯していた。


ティムも立ち上がり、錆びた鉄パイプを握りしめた。


「一人では行かせない」


メアリーは心配そうに言った。


「気をつけて。二人とも」


彼女は子供たちの肩に手を置き、「静かにしていなさい」と優しくも厳しく言い聞かせた。


レイナとティムが砂利を踏みしめ、地下への階段を下り始めた。片側に寄った非常灯だけがかすかに機能し、血のような赤い光が階段の側面を照らしていた。壁を伝う結露の音が不規則なリズムを刻み、断続的に落ちる水滴の音が不気味な時計のように響いた。


腐食した金属と古い電子機器の匂いが混ざり合い、同時に生物的な要素も感じさせる異様な臭気が漂っていた。一歩進むごとに、廃墟となった未来の痕跡を踏みしめる感覚があった。


アールが突然車から飛び出し、階段の上から叫んだ。


「待って!僕も行く!」


好奇心が恐怖に打ち勝ち、彼は大人たちの後を追った。その声に促されるように、メアリーも残りの子供たちを連れて階段を降りていった。


「アール、一人で行動しないで!」


彼女の声には母親としての心配と、これまでの経験から来る冷静さが混ざっていた。家族が分断されることへの恐怖が、彼女の動きを急がせた。


地下に降りきると、巨大な円形ホールが広がっていた。天井の一部が崩落し、灰色の光が細い柱となって床を照らしていた。埃に覆われた床には研究機器の残骸が散乱し、壁には13年前から時間が止まったかのようなデジタル時計が「00:00」を表示していた。


ホールの円周に沿って並んでいた研究ステーションは今や廃墟と化し、コンピュータ端末は灰に埋もれていた。しかし、最も不気味だったのは壁に点在する赤い結晶—それはナノマシンが侵食した痕跡で、かすかに脈動する光を放っていた。


時間が止まったような静寂の中、かつての研究の痕跡が忘れられた墓標のように佇んでいた。床に落ちた白衣は13年という時の重みで色あせ、傍らの残されたコーヒーカップには今も液体が残り、表面に浮かぶ菌類の膜が虹色に光っていた。


レイナは中央に置かれたコンソールに近づいた。


「メインシステム...これが動けば」


レイナはIDカードをリーダーに当て、「これでどうだ」とスイッチを押した。埃まみれの端末が震え、一瞬青い光が走った後、「認証エラー」という表示と共に再び暗転した。


「管理権限が変更されている...制御室だ」


彼女は家族を先導するように歩き始めた。足音が空っぽの廊下を反響し、過去を追いかけるような感覚があった。


ティムはレイナに続き、声を潜めて尋ねた。


「制御室に何がある?データか?」


彼の問いはシンプルだったが、レイナには複雑な意味があった。彼は肩の痛みを堪えながら、手すりに手をかけ、止まらぬ血の滴りが床に小さな点々を作った。


メアリーは子供たちを近くに集め、廊下の特徴を記憶しようとしていた。


「戻れる方法が見つかるといいけど...」


この歪んだ時間の謎を解明できるのは誰か—その問いが彼女の胸に重くのしかかっていた。


一行は暗い通路を進んだ。壁に走る亀裂からは黒い液体が緩やかに滴り、漏電した電気回路が時折火花を散らしていた。その閃光の瞬間、壁に埋め込まれたナノマシンの赤い結晶が不気味に輝いた。足下のタイルには黒い粘液の跡があり、それが壁に沿って複雑なパターンを描いていた—まるで何かが這い回った痕跡のように。


アールが突然足を止め、震える声で言った。


「聞こえる?…何か動いてる」


彼の感覚は鋭く、他の誰も気づいていない微かな振動を捉えていた。通常の少年なら恐怖で凍りつくところだが、アールの科学的好奇心は彼を前進させた。


「壁の中に…何かがいる」


ヴァージニアも足を止め、兄の言葉に頷いた。


「感じる…生きてる壁」


彼女の芸術的感性は、ナノマシンの存在を別の角度から理解していた。壁に埋め込まれた赤い結晶を見つめる彼女の緑の瞳には、恐怖と同時に不思議な魅力も映っていた。


「呼吸してる…」


彼女の指先が壁の数センチ手前で止まり、何かを感じ取るように小刻みに震えていた。


ティムが不安そうに周囲を見回した。


「この匂い…腐った金属の臭いだ」


彼の農場での経験は、自然の匂いと人工の匂いを瞬時に区別する能力を与えていた。この施設に漂う匂いは、どちらにも属さない第三の匂いだった—機械と生物の境界線上に存在する何か。


「何か来る…」


レイナは冷静さを保ちながらも、警戒の色を隠せなかった。


「用心しろ。やつらはどこにでもいる」


暗闇の中で扉が一つ、わずかに開いており、「制御室」のプレートが薄暗い非常灯に照らされていた。


「ここだ」


レイナは扉を押し開けた。錆びた金属が軋み、埃が舞い上がると、彼女の姿は一瞬霧に包まれた。狭い部屋の中央には複雑なコンソールが鎮座し、壁一面のモニターは砕け、床には研究資料が無造作に散らばっていた。


「ナノマシン封じ込め」「非常プロトコル」と書かれた文書が灰の下に垣間見え、最後の抵抗を試みた科学者たちの必死の努力を静かに物語っていた。


ティムは部屋に入るなり、天井から垂れる電線を警戒しながら言った。


「これが制御室か?どこにデータがある?」


彼の視線は部屋の片隅に置かれた古いサーバーラックと、散乱する防護服の残骸を捉えた。かつての先端技術も、今では錆と埃の中に埋もれていた。


メアリーが鼻をつまみながら顔をしかめた。


「この匂い…化学物質と何か生物的なもの」


アールも眉をひそめ、「焦げた回路の匂いに...何か別の」と呟いた。


ヴァージニアは部屋に入るのを躊躇い、「気持ち悪い空気」と言ってセーターで鼻を覆った。


レイナはコンソールの埃を手で払い、IDカードをリーダーに当てた。


「認証」


機械的な女性の声が響き、モニターが青白い光を放ち始めた。まるで死者が息を吹き返したかのようにシステムが再起動した。


カードをかざした瞬間、レイナの表情に複雑な感情が浮かんだ。かつての同僚たちの顔、共に過ごした日々、そして最後の混乱—記憶の洪水が彼女を襲った。


「まだ動く...」


彼女の驚きの言葉が、静寂を破った。


突然、モニターに女性の姿が浮かび上がった。年老いた科学者の姿に、レイナの表情が凍りついた。


「レイナへ...2027年になって初めて内核実験の真実を知った。ナノマシンが進化している。制御不能よ」


映像の女性の声は途切れがちで、時折ノイズに飲み込まれた。彼女の衰えた姿は、長い戦いの痕跡を示していた。レイナの目に涙が浮かび、「ヘレン...」と彼女は小さく呟いた。


「私達は間違っていた。すまない」


映像が切り替わり、制御室のモニターに「封印エリア」と書かれた地図が現れた。それは地下深くに伸びる通路と、最深部の大きな空間を示す三次元図面だった。レイナが驚きに目を見開いた。


「これは...研究施設の拡張部分?私は知らない区画だ」


アールが興奮と恐怖が入り混じった声で質問した。


「何があるの?ナノマシンの研究所?」


メアリーも一歩前に出て尋ねた。


「これは...地下に何を隠しているの?」


レイナはIDカードを強く握りしめ、その指が震えていた。


「彼らは何かを隠している...」


彼女が言葉を続けようとした瞬間、モニターが突然ショートし、青白い火花が散って煙が上がった。部屋が一瞬暗くなり、再び赤い結晶の光だけが闇を照らした。


機械の死に、レイナの表情が一瞬歪んだ。同僚からの最後のメッセージが中断され、もどかしさと焦りが彼女の中で膨れ上がった。


レイナは諦めたように言った。


「これで終わりだ。ここではもう見られない」


ティムは疑いの目で尋ねた。


「地下に行くべきか?あそこに何かあるのか?」


その問いには、探検への好奇心と家族への心配が混ざっていた。血が滲む肩にもかかわらず、彼の精神は強く、未知の危険に立ち向かう覚悟ができていた。


レイナは冷静に答えた。


「今は無理だ。封印エリアに入るには特別な防護が必要。それに...」


彼女は周囲を警戒しながら続けた。


「何かがおかしい。分室は完全に放棄されているはずなのに、電源が生きている」


「まずはセクター7本部を目指そう。そこでティムの傷を治療し、装備を整える必要がある」


メアリーはレイナに対して微かな感謝の気持ちを込めて言った。


「レイナ、あなたがいなければ、私たちはここまで辿り着けなかった」


アールは「もっと調べたかったな」と残念そうに言い、レイナが「セクター7ならもっと情報がある」と答えた。その言葉は科学少年の好奇心を満たすのに十分だった。


ジュディは「ママ、ここ怖い」と小さく震え、メアリーの手を強く握った。幼い子供の本能は、この場所の危険を敏感に察知していた。


ティムが「急ごう。この場所に長居は無用だ」と皆を促し、レイナも「出よう」とショットガンを構えた。


一行は来た道を戻り、階段を上って外の光の中へと出た。しかし、廊下を曲がったとき、レイナが突然立ち止まった。


「待て」


彼女の鋭い耳が、廊下の奥から聞こえる異様な音を捉えていた。粘液質の物体が床を引きずるような、湿った摩擦音。それに混じって、機械的な振動と人間の呻き声を思わせる不協和音。


「何かが来る...」


全員が息を止め、聞き耳を立てた。暗がりの奥から、赤い光を放つ人型の影が這うように近づいてきた。


「下がれ!」


レイナの警告と同時に、彼女のショットガンが火を噴いた。閃光と轟音が狭い空間に反響し、全員の耳を劈いた。


ナノマシンに侵された元研究者の姿が闇から現れた。ボロボロの白衣が生きた組織のように体に絡みつき、片腕は完全に機械化して赤く脈動する触手となっていた。かつての人間の顔は歪み、口からは黒い液体が垂れていたが、目だけは人間のものを留め、そこには恐怖と苦痛の表情が凍りついていた。


「人間…!?」


メアリーの悲鳴が部屋に響き、彼女は本能的に子供たちを背後に隠すように立ちはだかった。彼女のこれまでの知識では、目の前の存在を理解することができなかった。「人間がこんな姿に…」という恐怖と嫌悪が全身を震わせた。


アールが声を詰まらせ、「死んでるの?それとも生きてる?」と尋ねた。トレーナーの裾をぎゅっと握りしめ、その指が白く血の気を失っていた。


ヴァージニアは「悲しい…あの人」と泣きそうな声で言った。かつての人間の痕跡を感じ取っていた彼女にとって、単なる怪物ではなく、悲劇的な運命を辿った存在だった。


怪物は突然レイナに向かって跳躍した。その動きは人間離れした俊敏さで、ナノマシンによる強化を示していた。レイナはショットガンを発射し、散弾が胸部を貫通した。黒い液体が噴き出し、空気中にナノマシン特有の金属臭が広がった。


火薬の匂いが漂う中、怪物は喉から機械的な唸り声を発し、再び攻撃態勢を取った。人間の意思と機械の冷酷さが混ざり合い、その複雑さがより恐ろしく感じられた。


ティムが「くそっ!」と叫び、パイプを怪物の頭部に叩きつけた。鈍い音が響き、怪物は一瞬怯んだが、その腕がティムの肩をかすめ、彼は膝をつくほどの痛みに顔をゆがめた。


彼は痛みに耐え、再び立ち上がろうとした。農場育ちの彼の体は、極限状態でも彼を支え続けた。


レイナが「ナノ融合体だ!組織が変質している!」と叫び、ナイフを怪物の喉に突き刺した。黒い血が噴き出し、怪物は膝をついた。空気中に金属と腐敗の混じった臭いが広がり、全員の胃がむかついた。


レイナはショットガンを至近距離で発射し、頭部が砕け散った。散弾の炸裂音は閉鎖空間で何倍にも増幅され、皆の耳を劈いた。死体が床に崩れ落ち、黒い液体が広がり、ナノマシンの赤い光が次第に消えていった。


その消滅の過程は、まるで意識を持った存在が最後の抵抗をしているかのようだった。レイナの表情には恐怖と同時に深い悲しみが浮かび、「もう見たくなかった」という後悔の色が濃く出ていた。かつての同僚を思わせるその姿に、彼女の罪悪感が増していった。


ティムは肩を押さえながら言った。


「罠だったのか?誰かがわざと…」


立ち上がる彼の動作は痛々しく、肩の傷は明らかに悪化していた。それでも彼の目には決意が宿り、家族を守るという使命感が彼を支えていた。


レイナは警戒を解かず、周囲を見回した。


「分室は死んでいるように見せかけている。でも...誰かが活動を続けている」


彼女はショットガンの弾を入れ替え、廊下を警戒した。


「出よう。一刻も早く」


一行は急いでその場を離れた。全員が固唾を呑み、足音を最小限に抑えながら廊下を進んだ。


階段にたどり着くと、上からの光が救いのように感じられた。メアリーが「急いで」と子供たちを促し、アールの手を取って走り始めた。


「ママ、何だったの?あれ」


アールの問いには純粋な恐怖と科学的好奇心が混ざっていた。


「今は考えてる時間はないわ。外に出るのよ」


階段を上り詰め、ようやく全員が外の光の中へと出た。灰嵐は相変わらず容赦なく吹き付け、遠くには赤い光が揺らめいていた。ランドマスターのエンジンが再び唸りを上げ、分室は徐々に視界から消えていった。


レイナのバックミラーを通した最後の一瞥に、深い悲しみが浮かんだ。建物を後にするのは単なる場所からの離脱ではなく、過去の一部との別れでもあった。


「セクター7本部へ急ごう。ティムの傷の手当てが必要だ」


彼女の言葉には以前より温かみがあり、かつての無機質な調子は影を潜めていた。


「そして...もしかしたら、過去に戻る方法も見つかるかもしれない」


メアリーは後部座席で子供たちを抱きながら、分室が視界から消えていくのを見つめた。その瞳には不思議な決意が灯り、長年培った論理的思考と、母として育んだ直感が告げていた—答えはまだ見つかっていない、でも、どこかに必ずある。


「ティム、私たち、きっと戻れるわ」


彼女の囁きは風に溶け、ランドマスターは荒野の彼方へと走り去った。


分室の暗い通路の奥では何かがうごめいていた。赤い目が闇の中で瞬き、壁を伝う黒い液体が生き物のように蠢いていた。その音は、ランドマスターが去った後も長く続いていた—かつての人間が忘れ去った実験の遺産が、静かに息づいている証のように。

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