海辺の喫茶店には猫がいる

るいす

第1章:波の音を聴く場所

第1話:雨の海辺と、開いたドア

 東京を離れたのは、ほんの気まぐれだった。

 きっかけは、退職届を提出した翌朝。何の予定もない平日、朝の光だけがやけにまぶしかった。自室の空気は重く、息をしているだけで何かに責められている気がした。

 とりあえず家を出て、最寄り駅で適当に乗った列車。途中で乗り換えを繰り返し、車窓の外に高層ビルの姿が消えていくのを眺めながら、心だけが取り残されていくような感覚に襲われた。


 目的地はなかった。ただ、静かな場所に行きたかった。それだけだ。


 昼過ぎ、僕は「波照間(はてるま)」という名の駅でふと降りた。地図にもほとんど載っていないような港町。ホームには誰もいない。

 海の匂いが風に乗って運ばれてくる。潮の香りとともに、遠くから波の音がかすかに届いた。


 空を見上げると、灰色の雲が重たく広がっていた。ぽつ、とひと粒、頬に冷たい感触。やがて、それは本降りへと変わっていく。慌てて建物の軒先を探して坂道を下っていくと、古びた木造の一軒家が目に入った。


 看板には、かろうじて「喫茶」と読める文字が書かれている。営業しているのか、していないのか。判断のつかないその曖昧さに、むしろ惹かれた。


 軒先に入り込み、ひとまず雨宿りをする。小さなドアは、少しだけ開いていた。風で開いたのか、それとも――。


 意を決して、ドアに軽くノックする。「失礼します」と声をかけるが、返事はない。静かな雨音だけが耳に残る。


 そっと押し開くと、懐かしい木の香りと、ほのかに珈琲の香りが漂ってきた。


 店内は薄明かりに包まれていた。窓からの自然光だけが、椅子やテーブルをぼんやり照らしている。

 カウンターにはカップが並び、棚には豆の瓶とミル。壁には小さなカレンダーと、色褪せたポスター。

 まるで時間だけが取り残されたような空間だった。


 そのとき、小さく「にゃ」と鳴く声。


 見ると、椅子の上に一匹の猫がいた。白と黒のぶち模様。丸まっていた体をゆっくりと伸ばし、こちらを見ている。

 警戒心はないようで、どこか偉そうにすら見える。


「……こんにちは」


 そうつぶやくと、猫はひとつあくびをして、また丸くなった。


 誰もいない。けれど、まったくの無人という気はしなかった。

 空間には誰かの気配が、まだ微かに残っている。珈琲の香りも、その一部だろうか。


 カウンターの端に、紙切れが一枚置かれていた。小さな文字で、こう書かれている。


 《お客さんが来たら、どうぞご自由に。珈琲豆は棚に。湯の沸かし方は裏に》


 おそらく、この店の主が書いたのだろう。

 不思議な文面。冗談のようでいて、どこか真面目な筆致だった。


 猫が、すっとカウンターに飛び乗り、僕のほうをちらりと見た。

 まるで、「早く淹れれば?」とでも言いたげに。

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