終末の幸福を

蒼空花

終末の幸福を


 ふわり。大好きな貴方の香水の香りがした。

 頭では理解しているその事実。けれど心が、それを否定していた。

 間に合わなかった、愛の言葉。もう遅いその言葉を、今更ながらにそっと呟いた。

 空気の流れが止まったこの世界でも、貴方は最後まで美しくて。

 ずっと、続くと思っていたその幸せの、終わりの瞬間がこんなにも儚いなんて、思っていなかった。


 笑い合って歩いたあの道。

 貴方と初めて訪れたあの店。

 昼下がりの、なんてこともない穏やかな日常の面影に。貴方を重ねていて。貴方に今でも、囚われていて。

 ずっとあると思っていた幸せの、色はもう、失われてしまった。

 

 花のような笑顔だと、胸を張って言えたのは貴方だけだった。

 控えめでいて、それでいて嬉しそうに、楽しそうに笑うその顔が、私は大好きだった。

 今だけは、確かに私と貴方だけの空間で、規則的な音だけが響いていて。

 ずっと見ていられるはずのその幸せの、最期はただ、苦しさを残していった。


 家に染みついた貴方の匂い。それに混ざる、ほのかな香水。爽やかなレモンの香りは、今の私には不釣り合いだと思った。

 時折無意識に、香りに釣られて後ろを振り返ってしまう。

 居ないと分かっているのに、理解しているはずなのに。

 それでも確かに感じる、貴方という存在は。

 ずっと私の中で、幸せとして残っていた。



 長い、長い人生の中で。

 貴方とすれ違うことも少なくはなく、長引いてしまう事がほとんどだった。

 けれど、あの日は。あの日だけは。

 私が変な意地を張らずに謝っておけば。

 今際の際の赦しにはならなかったのでしょう。


 貴方の笑顔が好きだった。

 貴方の声が好きだった。

 貴方の話し方が好きだった。

 貴方の仕草が好きだった。

 貴方の空気が好きだった。


 ───私は、貴方の全てを愛していた。



 愚かな私は、幸せがずっと続くと、そう思っていた。

 そう信じていた。

 だから、終わりの瞬間が、あの時がこんなにも儚いものだったなんて、思ってもいなかった。


 『愛してる』

 この一言が、すぐに出なかった私は。

 旅ゆく貴方に、すぐに送れなかった私は。

 本当に愚かだったのでしょう。


 今更赦しは請えなくて。

 でも、それでも許してもらいたくて。



「───大好き。愛してるよ」


 今更な言葉を、今日も私は繰り返す。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

終末の幸福を 蒼空花 @seikuka-0923

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ