風呂フレ

hibana

風呂フレ

薄汚れたバスタブの中には僕と一人の女性がいて、入浴剤の森林の香りが、僕達をこの混沌とした世界から隔離させ、落ち着かせた。

僕はその女性に、自分の心の内部に狂気が潜んでいる可能性について、早口でそして真剣に話した。女性はときどき眉をひそめ、石鹸の泡を頬につけたまま僕の話に耳を傾けた。その時間、僕は自分を縛り付けている何かから解放されている気がした。そして僕は、彼女にまたこうして二人で風呂に入って欲しいと、切実な想いを伝えた。僕は彼女と一緒に風呂に入るだけの関係、「風呂フレ」だった。


彼女の名前は南野景子といった。彼女とはよくあるマッチングアプリで出会った。写真や自己紹介文といったプロフィールを見て、気に入った相手がいれば、好意をアピールする「いいね」を送る。受け取ったいいねに対して、いいねを返せばマッチング成立となり、そこからメッセージを重ね、デートを重ね、交際関係に発展していく。無駄な段階を省いており、効率的と言えば効率的であるが、人間関係の構築においての大切な無駄な段階を僕は省いてしまっているのではないかと僕は思った。僕は女性との真剣な交際は求めていなかった。加えて僕は性的な行為が苦手だった。そういった行為は愛が深まった故の行為であるということも、それらの行為に快楽が伴うということも僕は理解していた。だが、僕はその行為に関して相手の快楽を慮ることが苦手だった。相手に好意があればあるほど、相手を満たそうと身体で対話をすることは、僕を苦しめるものであった。どうして言葉と心が存在しているのに、身体で愛を確認しなければならないのだろうか。この苦しみは相手に対してどれほど性的な興奮を感じていても生じるものであった。一方で、行為が終わった後の裸で語り合う時間が好きだった。その時間は、僕は嘘偽りのない自分でいることができ、本音を口にすることができた。それは誰に対してもだった。相手が同性ならそれは銭湯やサウナが可能にするが、異性となればそういうわけにもいかない。同意のもとでそういう関係になる必要があった。


僕はマッチングアプリのプロフィール欄に、風呂だけに入る関係を求めていることを明記した。始めた当初は僕に興味を示してメッセージを送ってくれる女性は何人かいた。


「なんかおもしろいプロフィールだったので、いいねしました」


「風呂だけなんて嘘ばっかり。絶対ヤリモク」


「ただの変態。あなたみたいな人、マッチングアプリやらないでください」


僕のことを理解してくれる女性など誰もいなかった。当たり前の反応ではあると思うが、僕は目的をしっかり書いているのに、どうしてそこまで怒るのか疑問だった。


「お風呂ってめんどくさいよね。特に女はね、その後もめんどくさいの。髪の毛を乾かすのあれなんて最悪。髪乾かしてくれるなら、君が望む関係になってもいいかも」


そうメッセージを送ってきたのが南野景子だった。髪の毛を乾かすめんどくささなら男の僕にでも分かる。確かに、これよりも毛量の多い女性はさぞ億劫なのだろうと思った。


メッセージを重ね、南野景子が僕の家から歩いて十五分ほどのところに住んでいることを知った。この関係性を築くには距離が近いことは絶対条件だ。すぐに南野景子と会う約束をした。


見ず知らずの男女がいきなり密室で会うことはリスキーであり、相手に恐怖心を与えてしまうと思ったが、南野景子の方からそれを望んだ。そして、彼女は自分の身を守るために念の為ナイフを持ってくると言った。僕は初対面で殺されるのかもしれない。


午後9時前に、インターホンが鳴った。ドアを開けると身長160センチほどで栗色の長い髪を後ろで一つに結んだ華奢な女性が立っている。彼女はタートルネックの白いセーターと淡い青色のジーパンを履いていた。


「南野景子です。君ん家、まあまあ近いね。寒いから早くお風呂に入ろう」


僕は南野景子を家に入れ、早速浴室へ案内した。南野景子は脱衣所の洗面台に、持ってきたシャンプーやリンス、ヘアオイル、メイク落とし、乳液やパックなどのスキンケア用品、それから愛用のドライヤーを置いた。そして目の前に成人男性がいるにも関わらず、憚ることなく白いセーターを脱ぎ、白いブラジャーを外した。南野景子は痩せていた。鎖骨は水溜まりができるほどにくっきりと出ていて、胸は小さかった。肌は白く透き通っていて、繊細で美しかった。その後、彼女はジーパンとパンツを脱いで、どこか楽しそうに浴室の扉を開けた。


南野景子にまず髪や身体を洗うのを済ましてもらった。彼女が持ってきたシャンプーはミカンだとかレモンだとかの柑橘系の香りがした。僕は彼女の次に頭と身体を洗った。


「風原くんのお風呂小さいね。二人入る?」


シトラスのシャンプーの香りの中から南野景子の不安そうな声が聞こてきて、目を瞑りながら僕は答える。


「ごめんなさい。小さいんです。一人でも足が伸ばせなくて」


シャンプーとボディソープをお湯で流して、浴槽に入った。ざぱあと浴槽から溢れたお湯の量でこの浴槽の小ささとそこに二人が入っている滑稽さが可笑しかった。


「近いね。まだ二人で会って全然話してないのに、裸って面白いね。自己紹介しようよ」


肌と肌の間にはお湯が通る隙間すらもない状態で南野景子はクスクスと笑いながら言った。彼女の瞳の色はやわらかくて静かな茶色をしていて、両方の目の下にはほくろがあった。笑うと目が細くなるので、その二つのほくろが目みたいに見えた。


「南野景子二十九歳。お風呂がめんどくさいからあなたの話に乗ってみました」


彼女の足先が僕の太腿に触れていて、お湯の温度と体温が混ざって温かかった。


「風原草太二十一歳。裸になったときに本音で話せるあの空間が好きです」


「ふーん。嘘っぽいけど信じてあげる」


南野景子は疑心暗鬼な声で言った。よく見ると彼女の左耳にはピアスの穴がいくつか空いていたが、ピアスはしていなかった。


「南野さん、早速ですが、この風呂だけに入る関係にルールを設けたいのですが、いいですか?」


「ルール?」


「はい。関係性にきちんと規定を設けないと、人間は関係を保てず、崩壊すると思うので」


「一、風呂に入る以外のことをしたら関係消滅。二、浴室では嘘つかない。この二つがルールです」


「だめ。一つ足りない。三、私の髪の毛を乾かす。これを抜かさないでくれる?あと裸なんだから敬語やめて」


「わかりました。わかった」


「じゃあ今日から私たちは『風呂フレだね』よろしく」


「南野さんは何の仕事してるの?」


「教えない」


「嘘つかなければいいんでしょ?話さない権利はあるよね?」


「まぁ…」


「出身はどこ?」


「寒いところ」


「何人家族?」


「私一人だよ。一人で生きてるの」


「風原くん、君は裸になったくらいで、心も裸になると思ってるの?」


南野景子の目に嘘はなく、本気で僕を否定する目をしていた。

 

二人は浴室を出て、服を着、南野景子が持ってきたドライヤーで彼女の髪の毛を乾かした。


「いやぁ助かるなあ。髪の毛乾かすのって本当に面倒なんだからね」


「こんなもんでいいかな?」


「風原くん甘い。全然前髪の方乾いてないよ。あともうちょっと頑張って」


南野景子の髪の毛は一本一本がさらさらとしていて、バラの匂いがしたり、みかんみたいな匂いがした。


 

昨今のサウナブームには目もくれず僕と工藤は脱衣所で軽快に服を脱いで、体を洗うと、すぐに大きな浴槽に入った。中肉中背の工藤は「最近ジムに通い出したんだぜ」と言い、なんでもない腕を曲げて誇示した。


「なんのために鍛えてるのさ」


「メンタルにいいからさ。筋トレは心にいいんだぞ」


高校を卒業して直ぐに働き始めた工藤は職を転々と変え、ようやく定職についたかと思えば、職場の環境が合わなかったらしく、適応障害と診断され休職している。


「仕事は同じ職場に戻るのか?」


「今は考えることはができないな。俺が本当にやりたいことはもっとクリエイティブなことなんだ」


「職を変えることは根本的な問題を解決することなの?」


工藤は黙った。僕は他人であれば、そうかゆっくり考えたらいいと言うであろうが、親友であり、裸である以上、上辺だけのことを彼に言うことはできなかった。工藤は最近ブームらしいからと言って、備え付けのサウナへ向かった。そして一分も経たないうちに出て来て「何も整わない」と言った。

働いてもいない学生の僕は工藤に酷いことを言ったと思ったが、思っていることを直接言える関係は悪いことではないのだと自分に言い聞かせた。


次の日僕は南野景子を家に呼んだ。この日、彼女は長い髪を結ばすに下ろしていた。風呂フレである南野は家に上がると直ぐにルール通りに浴室に向かった。僕はバスタブの中で、工藤の話をした。


「昨日、職を転々と変える工藤に向かって、職を変えれば根本的な問題が解決するのかと聞いちゃった。そしたらあいつ、黙っちゃった。言いすぎたかな」


「風原くん、分類ってのはね、都合のいいものだよ。本当は全部グレーなところをわざわざ線引きして、生きやすくしてる。その曖昧さから逃げることもときどき必要なんだよ」


僕は南野景子が言ったことがよく分からなかったが、彼女が本当に思っていることを言っていることは彼女のまっすぐな眼差しから理解できた。僕ははそのことが嬉しくて、やはりこの関係性が好きなのだと思った。


南野景子から今日は家に来て欲しいとの連絡があった。確かにいつも僕の家ばかりに来てもらうことは申し訳ない気がした。僕は了承して彼女の家に向かった。彼女は見た目のエレガントさとは裏腹に、少し薄汚れたアパートに暮らしていた。御世辞にも裕福な暮らしとは思えなかった。家に上がると玄関にはお香が立っていて、ムスクの匂いが充満していた。


「来てくれてありがとう。たまにはうちでもいいでしょう?」


「そっちまで行くの意外と面倒なんだから」


南野景子は睨みつけるようにそう言って、洋服が散乱した部屋を隠すようにして僕を浴室へ連れていった。浴室のバスタブは僕の家のものよりも大きかった。この家の割には妙に大きくて綺麗だと思った。


「風原くんはどうして、体の関係以上になることを嫌うの?」


南野景子は当然の疑問を僕にぶつけた。


「体がひとつになって繋がっているのに、心に隙間が出来ていたら、こんなに悲しいことはないだろ。最初は隙間を埋める為の行為、もしくは隙間が無くなった証だと思ってたんだ。でもそれは僕にとって隙間を生む原因にもなる気がした」


「心の隙間なんて埋めることはできないんだから、それを埋めた気になりたいんだ、それは肉体と肉体では僕には難しい」


南野景子が僕にぐっと顔を近づけて、彼女の鼻と僕の鼻は接した。


「君は今、私と接している。君と私との距離はどれくらい?」


「遠いよ。君のことはまだよく知らないから。でも本音を語れる関係性。近づいていると思う」


「私は君が分からないよ。裸になることで、心が近づくと思ってるかと思えば、肉体的な繋がりで関係が壊れると思っている」


「何かトラウマがあるんじゃないの?」


僕は南野景子の言う通り、性行為に対して自信がなかった。それに対する自信の持ち方も知らない。そして、肉体の繋がりに愛が見えることに対して何か愛が遠ざかっていくことを感じていた。


僕に交際相手がいたのは二年前のことだった。斎藤李花は最後ベッドの上で「あなたでイッたことがない」と突き放すように言った。そして次の日には李花と連絡が取れることはなかった。僕はそれ以来、性行為と女性に対して恐怖心を覚え、肉体的な繋がりを重要視されることが怖くなった。それでも心だけでも、何かに頼りたかった。心だけでも、嘘偽りのない関係性でいれる時間が欲しかった。そうして、僕は心が鍵と鍵穴のようにピタリと合う関係性を模索した。


南野景子の頭をドライヤーで乾かす。彼女の頭は卵型の丸くて綺麗な形をしている。頭頂部から頬にかけて、長い髪に手を入れて撫でる。自然とこの行為に愛着が沸いてしまう。南野景子が提案した風呂フレの三つ目のルールに従順に従ううちに、誰かに手を焼いたり、世話をしたりする行為が対象を愛でているような気持ちになりそうだった。


「ふぅ、いつもありがとう。助かるわ」


顔にスキンケアパックをつけたまま南野景子は言い、僕は彼女の家を出た。外は霧雨が降っていて、風が風呂上がりの肌を撫で少し心地よかった。僕は街灯の少ない住宅街を傘を差さずに歩いた。


 

南野景子が風呂フレのルールを破ったのは彼女と出会って、二ヶ月後のことだった。彼女は僕の家の扉を開けるや否や、僕をそのまま玄関に突き倒し、僕に馬乗りになって、キスをした。僕は動揺したが、彼女は泣いていた。そして、彼女は5秒間黙った後に、ごめんと一言だけ言って家を出た。そのとき南野景子はいつもと違う濃い赤の口紅と、いつもと違う香水をつけていた。


それからというもの、南野景子から連絡が来ることはなかった。ルールを破ったことを自覚して、自ら身を引いたのだろうと思ったが、僕はもう彼女に会えないと思うと寂しかった。今思えば、僕は彼女に本音を話していたが、彼女が僕に包み隠さず話をしているとは思えなかった。彼女の職業も知らなければ、彼女の家族のことも知らなかった。僕は独りよがりに自分だけが気持ちよく話していたのかもしれない。僕は南野景子を失ってから彼女のことをもっと知りたくなっていた。


彼女を失った喪失感を持ったまま、僕は日常に戻っていた。工藤にも南野景子の存在を銭湯で話した。工藤はそれはルールを破ったのだから、彼女はそれに従っただけだろうと言った。そして僕が望む風呂フレという関係についても、それはお前だけが本音になれているだけなのではないかと咎められた。僕は自己中心的だった自分を嫌った。


南野景子からの連絡が途絶えて一ヶ月が経ち、僕は彼女の家を訪ねることにした。自分で設けたルールに関わらず、僕は彼女に執着していたのかもしれない。着いた部屋のアパートのインターホンを鳴らすと、そこには僕の知らない男が不審そうな顔で立っていた。


「あの、南野景子さんいらっしゃいますか?」


「誰ですか?俺田中だけど。もしかして、前住んでた人かな?」


南野景子は僕の知らないうちに僕の知らないところへ消えていた。その知らない男に大家さんの連絡先を聞き、僕は電話をかけた。


「すみません。南野景子さん、いつこの部屋を出られたのですか?」


「二週間くらい前ですかね」


「どこへ行ったか知ってますか」


「それは、お答えできませんよ。個人情報なので」


「でも、あまり南野さんを追わない方がいいと思いますよ」


「それはどういう意味ですか?」


「彼女、恋人の女性がいたみたいなんですけど、その方と色々あったみたいで。一年くらい前からですかね、隣の部屋から、女性が夜中ずっと何かを叫んでいるのが聞こえて眠れないって苦情があったんです」


僕は彼女のことを何も知れていなかった。僕は、ただ自分の心の頼りを無責任に彼女に求めていただけだったのだ。そんな軽薄な関係を僕が求めていたのだと思うと情けなかった。自分で自分を心底嫌った。


 

狭い小さなサウナ室の温度がぐんぐん上がっていて、全身から汗が噴き出している。工藤が眉間に皺を寄せて暑そうな顔でこっちを見ている。

「おい、風原、人間の心の形はひとりひとり歪にできてんだよ。それを無理やり合わせようとすると、割れて壊れるぞ」


「ただ俺は壊れてても、お前と風呂入ってやるよ」


「あっちい、やっぱり俺サウナ嫌いだわ!」


サウナ室から飛び出した工藤は水風呂に飛び込み、整った表情とは真逆の今にも文句を言いたげの顔をしていた。汗と水によって工藤の腹筋は艶やかに光っていた。



 



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風呂フレ hibana @taniura

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