第8話

リビングで猫と戯れていると、バスルームからふわりと湯気の香りが届いて、健志さんが戻ってきた。


「お、元気そうだね。タマと遊べるくらいになったんだ」


柔らかな笑顔に、心がすっとほぐれる。


「この猫ちゃん、タマっていうんですか?」


私が訊ねると、健志さんはわざとらしく驚いたように目を見開いて言った。


「えっ? 白い猫の名前、タマってつけるのがルールでしょう⁉」


「えっ、そんな決まりありました?」


私がきょとんとしていると、彼は真面目な顔で追い打ちをかける。


「日曜日の夕方のアニメに出てくる白猫、あれもタマだよ」


その“どうでもいい”真顔に、思わず吹き出してしまった。


「はーっ……健志さんのネーミングセンス、ほんとおかしい……!」


笑いすぎて、久しぶりにお腹が痛くなった。

思わず目尻を押さえると、健志さんの手がそっと伸びてきて、私の頭をそっと撫でる。


まるで、白猫をあやすときのような優しい手。


「それだけ笑えたら、大丈夫だね」


その手は、やわらかく、どこまでも温かくて、心の奥にじんわりと染み込んでくる。

頭を撫でられるなんて、子どもの頃以来かもしれない。

なのに、こんなにも――嬉しい。


くすぐったいような、恥ずかしいような。

俯いて、髪を揺らす。


(……もう少しだけ、この手に触れていたい)


そう思ってしまう自分に、ほんの少し驚いた。


「さあ、今日はもう寝よう。優さんはこっちの部屋。僕は2階だから。安心しておやすみ」


その一言が、魔法のように心を落ち着かせた。




*  *  *



目が覚めると、すでに日は高く昇っていて、朝と呼ぶには少し遅すぎる時間だった。


慌てて部屋を飛び出し、リビングへ向かうと、健志さんがソファでコーヒーを飲みながらくつろいでいた。


「おはようございます……!」


「おはよう。よく眠れたみたいだね」


彼の声は、相変わらずやわらかく、朝の光と混ざって空気までやさしくしていた。


ふと視線をやると、窓際に新聞紙が敷かれ、その上に私のバッグが置かれていた。

湿っていて、ところどころ塩の白い跡がある。


「このバッグ、優さんのでいいのかな? 勝手に開けるのもどうかと思って、確認してないんだけど」


「はい、私のです。……見つけてくださって、ありがとうございます」


私が眠っている間に、あの暗い海辺までわざわざ探しに行ってくれたのだろうか。

昨日、遅く寝たはずの彼が、朝になってまた……?


それを想像しただけで、胸の奥がじんわり熱くなった。


バッグの中を確認すると、水を吸ってふやけた化粧品、壊れたスマホ、変形したティッシュポーチ。

だけど、財布の中身だけは、ほとんど無事だった。


安心したような、でも……なぜだか残念なような、不思議な感情が胸をかすめる。


タマが足元にすり寄ってきた。


「タマ、おはよう」


声をかけると、タマは一度私を見上げたあと、ひらりと身を翻し、当然のように健志さんの膝へ飛び乗った。


小さく丸まりながら、甘えるように彼の手に頭を擦りつけている。


健志さんの指が、タマの白い背を優しく撫でている。

その手つきは、やはり昨日と同じく、どこまでも丁寧で、あたたかかった。


私は、何気なくその手をじっと見つめていた。


(……あの手に、もう一度、撫でてもらいたい)


自然と浮かんだその思いに、自分で驚く。


出会ったばかりの人に、こんな感情を抱くなんて……おかしい。

でも、心のどこかが「離れたくない」と叫んでいる。


だけど、私はわかっている。

ここにずっといるわけにはいかない。

この人に、これ以上迷惑をかけるわけにも、

これ以上、“勘違いした気持ち”を抱いてはいけない。


私は、帰らなくちゃいけない。


──でも、どこに?


問いかけて、答えられないまま、ソファの端で指先を握りしめた。

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