第6話

心に溜め込んでいた“重いモノ”が、ようやくほどけていく。

それは涙となって頬を伝い、冷たい砂に染み込んでいった。


「大丈夫、もう大丈夫だよ」


見ず知らずの男性が、泣き続ける私の背中をやさしく擦ってくれていた。

夜の海風は冷たいはずなのに、その手の温もりだけは、どこまでもあたたかい。


何年も、泣きたくても泣けなかったのに──

どうして今、こんなにも泣けるんだろう。


まるで、小さな子どもに戻ったみたいに、しゃくりあげて泣いた。

醜いくらいに、ぐしゃぐしゃの顔で、声を押し殺しながら。

それでも彼は、ずっと優しく言ってくれた。


「大丈夫だよ、泣いていいよ」


──それだけで救われるなんて、思ってもみなかった。


しばらくして、涙がようやく落ち着いてくると、彼はポンポンと背中を叩きながら聞いてきた。


「もう大丈夫? ……病院行く?」


私は、静かに首を横に振った。


「じゃあ……服、どうする?嫌じゃなければ、ウチで休んで行って。タオルも着替えもあるし」


私は少し迷った。

見ず知らずの男性の家にあがるなんて、普通なら考えない。

けれど、全身ずぶ濡れで、寒さに震えているうえに、手荷物もどこかに流されてしまったらしい。

スマホも財布も、すべて失くしていた。


それに、彼もまた、私を助けるために海へ飛び込んで、同じように濡れていた。

海から上がったあとも、寒さも濡れた服のことも気にせず、私に寄り添ってくれた。

その目も、言葉も、嘘をついているようには思えなかった。


「……お願いします」


私は、かすれた声でそう答えた。


暗い海岸をゆっくりと進んでいくと、公園の入り口に差し掛かったとき、低く甘えるような声が響いた。


「ニャー」


白い猫が、月明かりに照らされながら足元に寄ってくる。

濡れている体にすり寄るようにして、彼の足にまとわりつく。


「お前……こんな所にいたのか。探したんだぞ」


彼は微笑みながら、白猫を両腕でやさしく抱き上げた。

猫は満足そうに、ゴロゴロと喉を鳴らしている。


「猫を探しに来て良かったよ。そのおかげで君を見つけることができたんだ」


彼の左腕にすっぽりと収まった猫は、まるで赤ん坊みたいだった。

右手で丁寧にその小さな体を撫でる彼の姿に、私はふっと安堵の息を吐いた。


──ああ、この人は本当にやさしい人なんだ。


猫がいるという事実も、不思議と安心感をくれる。

命にやさしくできる人に、悪い人はいない。

そう思えるのは、たぶん久しぶりだった。


彼の後を、小さな足音でついていく。

公園を抜け、街灯の並ぶ住宅街へ入ると、道沿いにモダンな建物が見えてきた。


コンクリート打ちっぱなしの、どこかスタイリッシュな一軒家。

都会的なのに、どこかあたたかさを感じるその外観に、少し驚いた。


「ここにひとりで暮らしてる。部屋も余ってるし、ゆっくり休んでいくといいよ。もう、電車もない時間だしね」


鍵を回して扉を開けると、ふわりと木の香りがした。

外観の印象とは違って、室内はナチュラルで落ち着いた雰囲気。

広々としたリビングには観葉植物が飾られていて、猫用のベッドとおもちゃが部屋の端に置かれている。


「ちょっと待ってね」


彼は奥の部屋からタオルと着替えを持ってきた。

ふわふわのバスローブと、ゆったりしたスウェット。


「お風呂で温まったら? 体、冷えてるでしょ。僕は猫と遊んでるから、ゆっくり入っておいで」


猫を腕に抱きながら、優しく微笑む彼に、私は思わず小さく頭を下げた。


「……ありがとうございます」


玄関からリビングへ。

リビングからバスルームへ。

足元のラグに体温が染み込んでいくような感覚がした。


私は薄暗い海の中で死のうとしていた。

それが今、こんな場所にいて、人の優しさに触れている。


──こんな偶然、あっていいんだろうか。


でも、もし“運命”というものがあるのなら。

私は今、ほんの少しだけその“端っこ”に触れた気がした。


温かい湯気が、浴室に立ち込めていく。

お風呂の扉を閉めながら、私はそっと目を閉じた。


涙のかわりに、身体中にじんわりと沁み込んでいく温もり。

さっきの彼の言葉が、何度も心の中で繰り返されていた。


「大丈夫。もう、大丈夫だよ」


 

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