暁七つ

くまのこ

本文

 まだ日も昇らぬあかつき七つ|(午前四時)、三松みまつの一日は始まる。

 十歳になったばかりの彼が、江戸の街に店を構える、この呉服商で丁稚でっちとして働くようになったのは一月ひとつきほど前からだ。

 商家で働く者の中で最も年少である丁稚たちは、誰よりも早く起床して、一日中、掃除の他に雑用や使い走りを命じられる。

 仕事の切れ間で、することのない時も自由に過ごす訳にはいかず、店先で行儀よく座っていなければならない。

 食事は日に三度与えられるが、朝は冷や飯に具のほとんど入っていない味噌汁、昼と夕は野菜や安魚を煮たものなどの簡易な副菜が一品付く程度だ。

「はァ、もう嫌だ。たまには、あったかい飯が食べたいよ」

 ある日の昼食時、そう漏らしたのは、三松と同時期に丁稚に入った、同い年の彦松ひこまつだった。

 三松は貧しい農家の三男で、口減らしの為に奉公に来た身である。

 しかし、彦松は、同業の店の跡取りで、丁稚に入ったのも将来に向けた修業の為だという。

 三松は、農作業の手伝いで、ある程度は力仕事の経験もある。その為、蔵から品物を出し入れするといった作業も然程さほど苦ではなかった。だが、労働自体に慣れていないであろう彦松は、思えば、いつも青息吐息の様子を見せている。

「彦松どんは、二、三年もすれば、お家に戻るんだろう? それまでの辛抱じゃないか」

 三松がなだめても、彦松は不服そうに、ふっくらした頬を、ますます膨らませている。

「その二、三年が長すぎるよ。おとっつあんは『将来の為に、他人の飯を食う経験も必要だ』とか言ってたけどさ。だいたい、仕事をしても御駄賃おだちんすら貰えないなんて」

 ――そうだ、彦松どんは、いずれ父親の後を継いで商家の主人になる。自分とは住む世界が違うのだ。

 住むところも着るものもあって、冷や飯とはいえ白い米が食えるだけでもありがたいと思う自分と、恵まれた生まれの彦松の格差を、三松は度々たびたび感じるのだった。

「お前たち、喋ってる暇があったら、さっさと飯を済ませな。仕事は幾らでもあるぞ」

 通りかかった手代てだい定吉さだきちが、三松たちに声をかけてきた。

 二十歳くらいの定吉は、きつそうな顔立ちも相まって、三松にとっては怖い先輩だ。彼自身も常にきびきびと働きながら、丁稚たちの監督役として、その仕事ぶりに目を光らせている。

 定吉に睨まれ、三松と彦松は慌てて飯をかき込んだ。食事でも何でも早く済ませられることは、彼ら使用人たちにとって重要な事項である。

 十年ほど丁稚奉公を勤めあげた後、雇い主である主人に認められれば「手代」になれる。そうすれば給金が貰えて、得意先回りや仕入れといった重要な仕事も任されるようになるという。三松から見れば、定吉も雲の上の存在と言える。

 ――給金を貰えるようになれば、家に少しでも金を送れるようになるのだけど。

 ふと、そんなことを思った三松だったが、自分が定吉のような大人になった姿を想像できなかった。

 一日中仕事をして、くたくたになっても、まだ丁稚たちは解放してもらえない。

 番頭や手代により、商人には必須の技能である読み書きや算盤そろばんなどを仕込まれる。

 天井の低い、つし二階の小さな部屋の一つが、手習いの場所だ。

 昼間の労働から来る眠気と戦いながら、三松は必死に目を開け、定吉が読み上げる数字を机の上の算盤そろばんで弾いていた。

「……じゃあ三松、答えを言ってみな」

 定吉に指名され、三松は緊張しながら自分の算盤そろばんの目を読み上げた。

御明算ごめいさん。お前は、随分と覚えがいいな」

「あ、ありがとうございます」

 思いがけない定吉の褒め言葉に、三松はおそれ多い気持ちになって、首をすくめた。

 と、微笑みかけた定吉が、すっと真顔になった。

 何事かと三松が身を固くしていると、定吉は、傍にあった竹の物差しで、三松の隣に座っていた彦松の頭頂部を軽く叩いた。

「彦松、起きろ」

 算盤そろばんに突っ伏しかけながら船を漕いでいた彦松が、びくりと肩を震わせて顔を上げる。

「……ぶったのか……おとっつあんにも、ぶたれたことなんかないのに!」

 叩かれた頭頂部を大袈裟にさすりながら、彦松が小さく叫んだ。

「こんなもの、ぶったうちに入らんだろう。手習い中に眠りこけていたから、目覚まし代わりだ」

 彦松の反応に呆れたのか、定吉が肩をすくめた。

「毎日暗いうちから起こされて扱き使われてるんだから、眠くなっても仕方ないじゃないか!」

 溜まっていた不満が爆発したのか、彦松は顏を真っ赤にさせている。

「だいたい、おれには彦一郎って名があるんだ。彦松なんて、まるっきり使用人みたいじゃあないか。お、おとっつあんに言いつけてやる……あ、あんたちに意地悪されてるって……!」

 丁稚に入った者は、本名で呼ばれることはない。

 多くの場合、本名の一字に「松」「七」などの字を組み合わせた名で呼ばれる。

 三松も、親に貰った名は三郎だが、この店に来た時から、「三松」として生活しているのだ。

「おれだって、丁稚に一々いちいち意地悪するほど暇じゃあない。それに彦松、うちの店は、その『おとっつあん』から『息子を甘やかさず他の丁稚たちと同じに扱ってくれ』と頼まれているんだ。旦那様にも、そう言いつけられているから、おれや番頭さんたちも、それを守ってるだけだぞ」

「おとっつあんが、そんな……」

 淡々と説明する定吉を前に、彦松は、ぽろぽろと涙をこぼしている。

 てっきり定吉が激怒するのではないかと、はらはらしながらきを見守っていた三松は、ほんの少しだけ安堵していた。

 ――そうだ、定吉さんだって、昼間は仕事で走り回っているというのに、おれたちの勉強を見てくれているんだ。大変なのは同じだ――

「彦松は、もう休んでいいぞ。それじゃあ、手習いどころじゃないだろう」

 定吉が言うと、彦松は真っ赤な顔のまま、無言で立ち去った。

「……騒がせて、すまなかったな。まさか、彦松が、あれほど怒るとは思わなくてな」

 言って、定吉は眉尻を下げた。

「いえ、滅相もないです」

 定吉に詫びられるなどと思っていなかった三松は、少し戸惑いつつ答えた。

大店おおだなの跡取り息子となると、やはり、おれたちのような生まれの者とは心根が違うんだろう。そこまで思い至れなかった、おれにも落ち度があるかもしれん」

「さ、定吉さんも、口減らしで……?」

 言ってしまってから、三松は、余計なことを聞いたのではないかと自分の口を押さえた。

「そうさ。実家は貧しい農家で、その中でも末っ子のおれなんて、余りものもいいとこだった」  

 定吉は事もなげに言って、くすりと笑った。

「だが、おれたちみたいな者にだって、望みがない訳じゃあないぞ」

 彼の言葉に、三松は首を傾げた。

「ここの旦那様も、元は俺たちと同じような丁稚だったが、暖簾分のれんわけで、この店を持つようになったそうだ」

 丁稚奉公の年季が明けた際、主人に認められれば改めて「手代」として雇用される、というのは、三松も知っていた。

 定吉の説明によれば、更に出世すると「番頭」になって、その中には支店を任されたり、暖簾分のれんわけされて自分の店を持つ者もいるという。

「自分の、店……」

 自分が店を持って人を使う立場になるなど、三松は考えてみたことすらない。この店の主人も、三松の目には生まれながらの「旦那様」にしか見えなかった。 

 富めるものは最初から金持ちだし、自分などには関りのないことなのだ――三松は、ただ漠然と、そう思っていた。

「もちろん、誰も彼もが、そうなれる訳じゃあない。誰かが言っていたが、旦那様のようになれるのは、丁稚が三百人もいたとして、その中の一人くらいだそうだ。だが、たとえ一分いちぶでも、望みがあるとないとじゃあ、天と地ほども違うからな」

 定吉の言葉に、三松は、彼が仕事に励む理由が分かったような気がした。ただ目の前の仕事をこなしているだけではなく、定吉は、常に、その先を見ているのだ。

「ああ、おれが、こんなことを言ってたなんて、他の奴に言わないでくれよ。お前を見ていたら、自分が丁稚だった頃のことを思い出して、つい口が滑っちまった」

 照れ臭そうに笑う定吉に釣られて、三松も微笑みながら、はいと答えた。


 数年の月日が過ぎ、間もなく三松の年季が明けるかという頃。

 すっかり仕事を覚えた三松は、気立ての良さと真面目な働きぶりによって、定吉を始め上司たちや主人からも可愛がられていた。

 新しいことには貪欲に食らいついて一早いちはやく覚え、他人の良くないと思った部分は反面教師とする……三松は、どのようなことでも自らの糧にしようと努めていた。その根底には、あの日、先輩の定吉から聞かされた話――たとえ一分いちぶでも、望みがある――が常に息づいていた。

 定吉はといえば、手代として、より一層の経験を積み、そろそろ番頭になる道も見えてきたところらしい。

 しかし、その矢先。

 ある夏の日、店先で客の相手をしていた定吉が、突然倒れた。

 偶々たまたま近くにいた三松は、店の者たちと共に定吉を彼の部屋まで運んだ。

 他の丁稚が医者を呼びに行っている間、三松は布団に寝かされている定吉に付き添っていた。

 血の気のない顔で目を閉じていた定吉が、薄らと目を開けた。

「定吉さん、今、お医者を呼んでいるところですからね。どこか痛いとか、ありますか」

 三松が声をかけると、定吉は弱々しく頷いた。

「面倒かけて、すまねぇ……ここのところ、ずっと身体がだるくてな。暑さに負けたのかと思っていたんだが」

「そんな……全然気が付きませんでした」

「当たり前よ。具合が悪そうにしてたら、休めって言われちまう。その分、出世が遠のくだろ?」

 掠れた声で言う定吉に、半ば呆れた三松だが、同時に、彼らしいとも思った。

「でもなぁ、それで倒れちまっては、世話ねぇよな」

 定吉が、自嘲するように笑った。

「おれは、もう長くないみたいだ」

 彼の唐突な言葉を理解するのに、三松は数秒の時を要した。

「そんなこと言うものじゃありませんよ。さ、もう休んでください」

「いや、自分の身体のことだから分かる……もう、このまま起き上がれないような気がするんだ。だから……三松、お前は、おれの分まで出世しろよな。おれが見てきた連中の中で、いっとう見どころがあるのは、お前だ」

 そんなことがある筈ない、と言いたかった三松だが、定吉が苦しげな息の中で話す様子を見て、言葉を飲み込んだ。 

「……分かりました」

 三松の返事を聞いた定吉は、満足したように頷くと、再び目を閉じた。

 結局、そのあと定吉が目を覚ますことはなく、倒れて二日目の明け方に、彼は息を引き取った。

 医者は血が足りなくなるやまいだと言っていたが、傍目には定吉が苦しんだ様子はなく、眠るように亡くなったのは、せめてもの救いかもしれなかった。

 いずれは、この店を背負って立つものと思われた定吉の死を、三松だけではなく、店で働く者たちや、主人も惜しんだ。

 定吉が示してくれた道の先を見つめながら、三松は仕事に励み、更に年月が過ぎていった。

 三松が定吉の享年を追い越した頃、彼の働いている店で、支店を出すという話が持ち上がった。

 支店の管理者として、主人が指名したのは、手代から番頭になったばかりの三松――改め三助さんすけだった。

 当初、三助は、自分はまだ経験が足りていないのではないかと思い、辞退したいと主人に告げた。

「なに、私が奉公していた店から暖簾分のれんわけしてもらったのも、お前と変わらないとしの時分だったよ。私は、お前に見どころがあると思っているのだが、お前は、私の目が曇っているとでも言うのかい?」

 ゆったりと微笑みながら言う主人を前にして、三助の脳裏に、定吉が遺した「いっとう見どころがあるのは、お前だ」という言葉がよぎった。

 ――尻込みしてる場合じゃない。これまで仕事に励んできたのは、この時の為じゃあないか。

「承知いたしました。謹んで、お受けいたします」

 主人からの指名を受け、三助は新たな支店の主人となった。

 店舗が完成し、いよいよ開店を翌日に控えた日の夕暮れ時、三助は一軒の寺を訪れた。

 寺の墓地には、あの定吉の墓があるのだ。

 墓前に花を供え、屈んで合掌しながら、三助は支店を任されたことを定吉に報告した。

 ――あなたが、おれの目をひらいてくれなければ、おれは、きっと一生何も考えず、ただ人に使われるだけの身で終わったでしょう。ありがとうございます――

 立ち上がった三助の頬を、柔らかな風が撫でていった。

 ――望みは、あったな。

 どこからか、定吉の声が聞こえたような気がして、三助は橙色に染まった空を見上げた。


 【了】

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