常闇の魔法使いは愛弟子が猫

七都あきら

始まりの森

 ノアは灰色の空を草むらの中から見上げていた。


 トードア国は一年の半分くらい雪が降る。薄茶色の猫の毛があっても冬はつらいものだ。ノアは細く長いしっぽをパタパタと左右に揺らして『はやく・もと・の・すがた・になあれ』と唱えた。猫のしっぽは魔法使いの杖じゃないし、ノアは魔法使いじゃないから魔法は使えない。

 ニャー、ニャー。

 薄暗い森の中をさ迷いながら仲間を呼んだ。か細い声はすぐに木枯らしにかき消されてしまう。

 ノアに仲間はいなかった。

 最初は寂しさを振り払うように元気よく森の中を歩いていた。けど寒空の下を歩いているうちに両手足は氷みたいに冷え足取りは重くなっていく。


 ――ノアは猫の獣人。周囲に同じ境遇の友達は一人もいなかった。


 森の中、草むらをかき分け進み続ける。

 たどり着いたのは空に向かってぽっかりと大きな口が開いた場所だった。周りは背の高いオークの木に囲まれている。まんまるの空間。

 ノアは近くにある太い木の根元に潜った。少しは寒さが凌げるかもしれない。穴の中でスンと鼻を鳴らすと、木の根っこからは心の落ちつく甘い匂いがした。

 木に優しく抱きしめられている心地だった。そのほっとする匂いのせいでノアの寂しがり屋な性格が顔を出す。もっと、と無意識に前足で温もりを探した。


 人間のノアは五歳。でも猫だと一才にも満たないほど小さい。猫の姿になると思考も赤ん坊みたいになってくる。

 今日ノアは母親から「けがらわしい、はつじょうきだ」と怒鳴られた。

 だからノアは外に一人でいる。

 元通り人間に戻るまで帰ってくるなと言われていた。小さなノアは猫の姿から人間の姿に戻る方法を知らなかった。いつも突然、猫の姿になって、いつの間にか人間の姿に戻っている。

 ニャー……。

 何度目だろう。震える声で鳴いたときだった。唐突に銀色の長い髪がノアの目の前にカーテンを作った。

 ニャ!

 お化けが出たのだと思った。ノアは飛び上がった拍子に、木の穴ぼこの天井に頭を強くぶつけてしまう。


「おやおや、驚かせてしまった。森から小さな子供の声がすると思ったら」

 飄々とした柔らかい声が頭の上から降ってきた。

 その声のすぐ後に細く長い指が近づいてきた。ノアは逃げようと後ずさったが、ノアはその大きな手に穴ぼこから連れ出されてしまった。

 ノアの柔らかい体が縦にみょんと伸びた。背中の薄茶と違ってお腹は真っ白な毛色をしている。その柔らかなお腹が男の前に晒された。

 両手足が地面につかないので落ち着かない。

「わぁ珍しい猫獣人の子供だ。おうちはどこかな? ん、迷ったの?」

 暫くぷらぷらと空中で足を揺らしていると、ノアは男からほっぺたにキスされた。

 ニャー。

 大好きって気持ちが伝わるあったかいキスだった。こんなことをされたのは初めてだった。

「あぁ、ごめんごめん。抱っこして欲しいよね」

 ノアの気持ちが伝わったのか、銀髪の優しい男はノアを胸に抱き抱えてくれる。男の服の中はぽかぽかと暖かかった。

 背中まであるキラキラの銀髪に丈の長い灰色のローブ。ぱっと見ただけでは男の年齢は分からない。おじいさんにも見えるしおどけたように弾んだ声は青年にも見えた。


「どうして、この森に来たのかな?」

「えっとね。はつじょーき、だから、かえってきちゃだめって、かーさんが」

「うーん。こんな小さな子猫に発情期は、まだないと思うけどねぇ。早い子は早いのかな?」

「ねこのままだと、おうちにかえれないんだ」


 ノアは顔を上げて身振り手振りを交えて男に説明した。


「君は寂しくて鳴いているだけなのにね」

 ニャー、と鳴いてノアは男の胸に擦り寄った。太陽みたいないい匂いがした。

「あぁ、もうかわいいなぁ。うちの弟子もこれくらい可愛げがあればいいんだけど年中反抗期で。困ったものだよ」


 不思議だった。いつも猫の姿のときノアの言葉は人間には通じない。でも彼とはニャーと鳴くだけで意思疎通が出来ていた。よしよし、とその男はノアの三角耳を人差し指で撫でた。


「君が望む通りに私が何とかしてあげたいんだけど。それは君の本当の願いじゃないから」

「ほんとうの、ねがい?」

「君を人間の姿に戻してあげるのはとても簡単なんだけどね。――あと私、今日は大切な用事があって、ごめんね」


 男に撫でられて喜んでいた尻尾が、しゅん、と垂れ下がる。


「だから、ね。君の願いを叶えてくれる私の弟子を呼ぼうね!」


 男ははしゃぐように高らかに宣言すると、右手に木の棒を魔法みたいに出した。――魔法みたいじゃなくて、それは魔法だった。

 ノアは初めて本物の魔法を見た。ノアがいつも遊びで唱えているような嘘の呪文じゃない。男が杖を一度振ると、白い煙と共に男の足元へ黒猫が現れた。ノアと違って毛がふさふさの大きな猫だった。紫の猫の瞳がジロリと魔法使いを睨みつける。

 その猫は誰が見ても分かるくらいに怒っていた。黒の美しい艶やかな長毛がぶわっと四方に逆立っていた。


「この子はねぇ『エイミー』って言うんだ。寂しがり屋な君と遊んでくれるよ」

「ほんと?」

 魔法使いの男は、エイミーがいる地面にノアを丁寧に下ろした。


「……いきなり呼びつけてなんですか」


 隣のエイミーは不機嫌そうな声をあげた。

「師匠に向かってなんて口の利き方ですか」


 銀髪の男は、びしっと魔法使いの杖をエイミーに向けた。


「これは最後の課題です。その男の子と遊んであげなさい。きっと……あなたに足りないモノを教えてくれますよ」

「何を勝手に決めて!」

「それまでうちに帰ってこなくてよろしい」

「は、なんでだよ!」


 ノアの目の前にいる妖艶な黒猫は叫んでいた。


「あのね、あなたはこの子よりずっとお兄ちゃんなんだから、それくらい簡単にできますよねぇ? 私の弟子でしょう」

 有無を言わさない声。ちょっぴり怖かった。その怖さが黒猫のエイミーにも伝わったのか急に静かになる。


「それから、ノアくん」

「はい!」


 しっぽがピンと立つ。名乗っていないのに男はノアの名前を知っていた。

「君のような獣人はね、感情が逆になると、元の姿に戻れるんだよ」

「ぎゃくって?」

「寂しい気持ちから、すっごく楽しいって気持ちになったら、かな」

「そうなんだ」


 自分の体のことなのにノアは初めて知った。言われてみれば、いつも「忘れた頃」に元に戻っている気がした。悲しかったり寂しかったり。そんな冷たい気持ちが、ふっと軽くなったとき人間に戻っている。

 陽だまりみたいにぽかぽかな魔法使いは、取り出した三角帽子を頭にかぶるとノアに向かってウインクをした。


「エイミーもしっかり務めなさい。――魔法使いの本分を決して忘れないよう」


 エイミーは師匠に向かって舌打ちで返事をする。魔法使いは「仕方ないなぁ」と目を細めて笑うと、そっぽを向いたエイミーの後ろから手を伸ばし、ほっぺたをうにうにと優しく引っ張った。

 銀髪の魔法使いは目を細めてノアに優しく微笑んだ。

「じゃあねノアくん。弟子をよろしくね」


 魔法使いはそのまま踵を返し、透明人間のようにその場から姿を消した。

 その日は、今にも雪が降りそうな日だった。

 寒空の下、二匹の猫がその場に残される。


「あぁもう面倒くさいなぁ」

「れ、ぇエイミーは、おれと、あ、あそんで、くれる?」


 ノアは恐る恐るエイミーに声をかける。本物の猫とおしゃべりしたのは初めてだった。言葉が通じて驚いた。普段、王都で見かける猫は、ノアを見ても知らんぷりして通り過ぎてしまうから。


「名前、言えてないし。別に好きに呼べばいいけど、ほんと赤ちゃんなんだな」

「エーミー?」


 エイミーは、ふさふさの尻尾を地面に叩きつけるように暫く揺らした後、大きくため息を吐いた。猫なのに人間みたいな仕草だった。


「どうせ、お前が満足するまで師匠のところには帰れない。私には遊ぶ以外に選択肢がない」

 急に目の前が明るくなった気がした。嬉しくて。

「ね! か、かけっこ、き、きのぼりも!」

 衝動のままに、さっきまで潜っていた木にしがみついて登ろうとした。けれど、木に登るなんて初めてだったから何度やっても、ずるずると地面に落ちてしまう。

「あれ?」

「やめておけ。怪我をする」

 エイミーに前足で尻尾をぺちんと叩かれてしまった。


「じゃあ、なにする」

「お前の好きにしろ……」


 エイミーは諦めたように息を吐くと、ノアがぴょこぴょこ歩く後ろを同じようについてきてくれた。



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