短歌雑記帳

東雲めめ子

短編 凍りつく君への思いはもう微塵重たいドアの向こうは地獄

もそもそと噛む唐揚げが粘土みたい冷凍庫内君の置き去り


凍りつくつま先カイロで蘇生させぬくめてくれた足は今どこ


君がため春の野に出るより身を砕きだけどやっぱり命は惜しくて


同じ匂い駅で振り向くくらいにはあなたは腐乱す私のなかで


今どこのLINEを送ればすぐそばでタップされない通知が溜まる





どうせまた換気口を締めていやがる。


億劫な気持ちを如実に表すようにひどく重たいドアを引いて、幾千回個めの君の悪癖を数えた矢先だった。


ありきたりな間取りの1LDK。その短い廊下を進み、リビングに到達した僕の目に飛び込んできたのは一枚の紙切れだった。


7ヶ月ぶりに足を踏み入れる我が家は、まるで1泊2日の旅行から帰ってきただけのように僕を出迎えた。閉じたカーテンから午前の陽射しが差し込み、白いフローリングは清潔に磨かれている。短い廊下に備え付けのキッチンもまずまず綺麗だった。もうそのつもりはないけれど、このまますぐ再びこの部屋で暮らしていけそうなくらい、部屋はごく自然に僕を出迎えた。


だけどそれも当然かもしれない。この部屋のもう一人の住人は、変わらずここに暮らしているはずだから。


この部屋の住人の姿は、いまは見当たらない。仕事に行っているのだろうと思うけれど、LINEをブロックして電話番号も消したから、彼女が今日どこにいるのか僕は把握していない。


この家に、鍵だけ返しにくるつもりだったのだ。そしてその足で、この部屋の家賃の支払いをやめる手続きをする。


君と鉢合わせしないですんだのはよかったけど、思わせぶりなこの紙きれは一体なんなんだ。


君がいくつ持っているかもわからない使いかけのリングノートのページらしい。リング穴の断面がギザギザでいかにも粗雑なその紙はダイニングテーブルの上にこれ見よがしに置かれていた。ご丁寧なことに、僕の贈った腕時計を重石にして。


チープな演出にチープなボールペンの筆跡。そして、それを上回る陳腐な短歌。


いやこんなもの、短歌なんて呼んでいいのかな。与謝野鉄幹が泣くだろう。

義孝の「君がため」は、恋人のためなら命を捨てても惜しくないという意味ではないと、古文のテスト前か何かにも君の誤解を正した気がする。


それはまったく逆の意味合いで、惜しくないと思っていた命が、あなたと出会ってからは永らえ添い続けたいということなんだよ。


そうなんだ、みたいに目をくりくりさせていた。その時の君は口先だけで、知らなかったと言っていた。


君は話している人をじっと見つめる癖があるけれど、その癖はある程度、君がその大きな瞳を意識してわざとやっていることなんだろうけれど、でも話す相手をキラキラした瞳で見つめる君の耳は、なにを言っても右から左。見つめる相手の言葉を、理解しようなんて気はさらさらないんだ。


人が話している言葉が、耳を通り抜けていく感覚がある。頭の中でうまくイメージが描けない。いつか、高校生だったからもう十年近く前、学校帰りの電車の中で君が口にしたこと。だから頭が悪いんだよね。そんなことを言われて、同じクラスというだけで君とはほぼ他人同士だった当時の僕はどう返せばよかった? ノリで軽口を叩くには、君はやけに悟りきったような顔をしていた。


君の悪癖。それを数えればきりがないけれど、一番の問題は君が自分の長所と短所を正確に把握していないことだろう。


私、自分ってもんがない気がする。なんでも周りに合わせて流されていくタイプ。

僕は君ほど癖のある自我を持った人間にはお目にかかったことがない。周囲に流されるタイプなら僕らの高校の平均値に沿ってそこそこ名前の通った大学へ進学したはずだし、そもそも君は高校生活でも浮きまくりだったじゃないか。修学旅行ドタキャン事件はいまだに、あのクラスの人間の間でやっかいな腫瘍のような記憶になっている。さんざん先頭に立って企画したやけにニッチな台湾観光も、企画した張本人がいないのだから宙ぶらりんの滑りまくりだった。


なんかね、すごい気にしちゃうの。カフェとかでね、迷惑じゃないかなって思って長居できなくて。

それならもっと、君のその馴染んだ人の前でやたらと大きくなる声を抑えてくれ。そして洋服屋や本屋に長時間居座るのをやめてくれ。君の「気にしちゃう」は、周りに迷惑をかけないかどうかじゃなくて、君が周囲からどう見られているかなんだよ。でもさ、すれ違う誰も君のことを注視してないよ。きっとね。


こだわりとかない。なんでもいい。

そんな気の良いことを言って、この部屋だって探すのにずいぶんと骨が折れた。内装は白じゃないとなぁとか、信号を渡らなくていい距離にドラッグストアがないと不便じゃないかなとか、出窓は結露が付くから嫌だとか。君ひとりの給料で借りるわけじゃないのをいいことに、かなり我儘を言ったよね。


君のイメージする君と、僕から見る君にはかなりの乖離がある。君のイメージする君は、君がこうありたいと思う君だろう。そして僕が見る君は、君の周囲の人間が見るありのままの君だ。


君は君が思うほど、ひかえめでも気遣いでも優しくもない。だけど君が卑下するほどに、君は頭の悪い人間じゃない。ヘドロみたいな女だと自嘲していたことがあるけど、君がヘドロなわけないだろ。君が自分をとんでもなく悪いものに喩えるとき、僕はいつもどう言えばいいかわからなくなって、結果的に黙り込んでしまう。言葉に戸惑っているうちに、君は僕から慰めを引き出したくてわざと言っているのかと疑って、そして僕は君が嫌いになる。


二週間の社外派遣にかこつけて、僕がこの部屋からこっそり逃げ出したのは、君のその悪癖のせいだ。そして僕の、君への思いやりの枯渇のせいだ。

半年前の僕に、君の目はしんどかった。付き合いだして八年経っても、毎日毎秒好きだ好きだと見つめてくるような目が重たかった。意味のないことばかり機関銃のようにまくしたて、弾切れで黙り込み、そしてたまに不発弾の本音を漏らす君の言葉に耳を塞ぎたくなった。

君のための言葉を探すことに、僕は疲れたのだ。


――しゅう君ってさ、ほんまは私より人の話聞いてへんくない? 私はしゅう君の話したこと、ほとんど全部覚えてるけど、しゅう君が覚えてて、私が忘れてることってあるんかな。


知らんわ、と思いながら、半年前の僕は黙っていた。心の中で、早くその関西弁を直せよと思っていた。君は仕事だと明るくテキパキと訓練されたトークを展開するのに、普段の語り口調は高く甘い関西訛りも相まっていやに重たげになる。仕事帰りで疲れ切ったときに君に話し掛けられると、そしてそれは平日の毎晩のことだけれど、僕は思わず粘着質な蔦に絡みつかれているような気がした。


社外派遣前夜のその夜も、僕はひたひたと絡みつく蔦にうんざりしていた。


君の持つ記憶と僕の持つ記憶、そして二人の会話の正確な記録の三つを照らし合わせるなんてできない。そもそも僕らの会話の正確な記録なんてこの世に存在しない。だからその答え合わせは不可能じゃないか?


二週間分の荷造りをするふりをして、僕は君の寝静まったあとで、社会人として生きていくのに必要な私物を梱包した。翌朝捨てるつもりだったダンボール二つに荷物をまとめ、深夜のコンビニで出荷手配をした。送り状に書いた住所は出張先のホテルだった。


朝、君が出勤するよりも三十分早く、僕はいつものビジネスリュックを背負い、スーツケースをひとつ転がしてこの部屋を出た。


君は僕の不在中、実家に帰って泊まってこようかなと言っていた気がする。僕らの地元にある君の家族の家は君の実家ではあるが、僕の実家ではない。結婚するなら君しかいないのかと半ば諦めのように思いながら、君から具体的な話が出てこないのを幸いに、僕は君の家族に会わないようにしていた。


君がいいねをつけるインスタの投稿に、ブライダル関連が目立つのももう長い。大学生だった頃は気にしなかったけど、ここ二年ほど反応に困っている。ゼクシィじゃなくて25ansWeddingを買ってきて、もう25は過ぎちゃったけどねなんて笑ってみせられても本気で面倒くさい。いまそれどころじゃないんだよと、何度怒鳴りそうになって堪えたかわからない。


喧嘩になりそうな空気を感じると、君は大きな瞳でじっと僕を見つめる。ごめんねと言うように。その目は葡萄のように蜜を含んで、場合によっては涙をこらえているようにも見える。その顔を可愛いと思えなくなったとき、僕らはもう終わっていたのだろう。


だったら、僕らは半年前のあの日より、ずっと以前から終わっていたのだ。


ごめんなんて思っていないこと、もうばれてるよ。

そう言えばこの場をやり過ごせるって、それだけだろ。


蔦のような女だ、君は。


でも。


君はけして馬鹿なんかじゃない。

だからこの短歌で、君が僕に見せたいイメージはなんとなく伝わってくる。君のように文学的な素養のない僕にも、朧気ながら想像がつく。


君の置き書きの五首は、大きくまとめれば恋の終わり。もっと言えば、同棲の終わりを歌ったのだろう。



もそもそと噛む唐揚げが粘土みたい冷凍庫内君の置き去り


凍りつくつま先カイロで蘇生させぬくめてくれた足は今どこ


君がため春の野に出るより身を砕きだけどやっぱり命は惜しくて


同じ匂い駅で振り向くくらいにはあなたは腐乱す私のなかで


今どこのLINEを送ればすぐそばでタップされない通知が溜まる



つまり、はさ。


たしかに僕は君から逃げる少し前、休日の夕飯に唐揚げを作った。そして、多めに作った分をタッパーに入れて冷凍した。休日に作り置きをするのが僕の趣味だと君は思っているようだったけど、君が食に無頓着すぎるから必要に迫られてやっていただけだ。まあ、嫌いではないけど。でも半分くらいは手伝ってくれよと思っていた。


こたつはこの部屋に引っ越す前の、君がひとりで住んでいたマンションにあったものだろう。君は使い捨てカイロを手で揉みながら歩くことを煩瑣だと言い、靴下に貼るのもずれるからと嫌っていた。だからその嫌いなカイロすら、僕がいないから使うようになったという恨み節か。こたつの中で君の足を温めたことなんてなかったように思うのだが、君は良いように記憶を改竄しているのかもしれない。


君がため……は置いておこう。君が僕のためにどう身を砕いてくれたのか、僕にはわからない。思い出を辿っても、君は好きだ好きだと言うばかりで、身を砕くというほどの大層な出来事はなかったように思う。


で、同じ匂いを駅で見つけて振り返るとはまたまた陳腐な歌を詠んだものだ。勝手に僕を君の中で腐らせないでくれ。






いや、腐る? 

……私の中で?


思わず舌打ちする。こいつ、またいらんこと思いつきよった。


君は僕を、殺して食べてしまったことにしたいらしい。


だからさ、その独りよがりな思いつきが面倒臭いんだ。

自分ではすばらしい発想だと思ってるんだろう。でもこれ、それほど捻った連作でもないし、そもそもカニバリズムを匂わすっていう筋書きがありきたり過ぎる。


で、君は僕を殺して食べちゃって、挙句僕のスマホにいまどこってLINE送ってる設定ってこと? そのスマホはこの部屋で充電中だから君のそばで鳴る。でも顔認証にしてある僕のスマホのロックが外せない、と。


ほとほとアホらしくなって、僕はノートのページをテーブルに戻した。

その隣に、この部屋の鍵を並べて置く。


この部屋は開けたまま出ていくことになるが、思わせぶりな置き手紙にははっきりした物証で最後通牒するしかない。

君はわかってくれないから。わかるくせに。わかりすぎるほどわかるくせに。


こんなことなら、鍵はホテルのゴミ箱にでも捨てちゃえばよかったな。


出張に出たきり連絡がつかなくなり、二週間が過ぎても僕が帰ってこなかったとき、君はもうわかっていただろう。衣裳掛けからスーツがなくなり、靴箱から靴がなくなり、日用品は男ひとり分ごっそり消えた。僕がもう、無理矢理にでもこの関係を終わりにしたいと思っていること。君とのこの部屋に、帰ってくるつもりはないのだということ。


帰ってくるとしたらそれは君の留守を狙い、最終的な荷物の引き上げに来るときだけ。そう踏んだ君は、さすが付き合いが長いだけに僕の行動をわかっている。

だから、君は僕に最後のアピールをしたのだろう。もう一度私を見てくれと。私を心配してくれ。忘れないでいれくれ。


だけどそれを、はっきりとは口にしない。いつだって君は匂わせる。そうやって、我慢して尽くしている風を装ってくる。


君の、そういうところが嫌だったんだ。

これ以上、耐えきれないくらいに。


二度とこの部屋に立ち入ることはない。

絡まり続けていた蔦が、ようやく千切れたのだ。




立ち去り際、僕は思い立って短い廊下のキッチンで、冷凍庫のドアを開けた。

黒い冷蔵庫の下半分、冷凍室が引き出される。


霜が降りた冷凍室の中身に、どっと心臓が早鐘を打つ。声にならない悲鳴を上げる。


白い庫内には積み上げられたタッパーと、見覚えのある足があった。


叩きつけるようにドアを閉めていた。なかったことにしたくて強く押したドアは、反動でまた開く。


僕の目の前で、ざっくりと切り落とされた膝から下が凍っていた。


レプリカかもしれない。君がやった悪ふざけのひとつかもしれない。けれど。


震える手をタッパーに伸ばす。水滴の凍ったタッパーの蓋に指が痛い。


寒さだけではない理由で震えながら、僕はタッパーの蓋を開けた。



そこには唐揚げがあった。


唐揚げ。僕が作ったのとは違う唐揚げ。色も、サイズも違う。ひと口大に切ったムネ肉で作って、カラリと揚がった皮がついていたはずなのに。

薄く平たい肉だった。それが、焦げたように黒く揚がっている。ぶよぶよと水気で膨らんだ衣が、タッパーの底にこびりついている。


しばらく呆然と、僕はタッパーの中身を見つめていた。


眉をしかめる臭気で我に返った。臭い。この唐揚げ、腐ってる。


大きめのタッパーに理路整然と並んだ十六個の唐揚げ。そこから放たれる猛烈な腐臭。


そしてそのタッパーの隅に小さな白い粒を見つけたとき、僕はタッパーを放り出していた。


ぼろぼろと君の唐揚げがキッチンの床に散らばる。


そして最後に音を立てて跳ねていったのは、かすかに黄ばんだ人間の歯だった。






捜査は遅々として進まないらしかった。


司法解剖の結果、冷凍室から見つかった足とタッパーの中身は、彼女のものである可能性が極めて高いと考えられる。


そうなんだろうと思っていた。そのことにはさして驚かなかった。


僕は漠然と、彼女は死んでいないような気がしている。


すべては彼女の自作自演なのだ。彼女はああした歌を詠み、そしてその歌にぴったり合うような状況を作り上げ、僕が来るのを待っていた。


ちょうど、蜘蛛が完璧な形に巣を張って、獲物がかかるのを待つように。


あの日も、彼女はあの部屋で息を殺していたのではないか。


マンションの部屋から転がるように飛び出した僕は、建物の近くにもいたくなくて走って近所のコンビニに向かい、そこで電話をかけた。

慌てふためいて逃げる僕を観察してから、警察が訪れるまでにこっそり逃げる時間は充分にあったのだ。


あれから僕は、スマホの通知音に怯えている。そして、唐揚げは二度と食べられなくなった。



















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