【短編小説】太陽の海岸で出会った猫たち~スペインの光と影の物語~(約28,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

第1話:太陽の海岸への旅立ち

 月島紗季は、重いカメラバッグの肩紐を調整しながら、マドリード・バラハス空港の到着ロビーを抜けた。三十二歳のフリーランスカメラマンである彼女は、今回のスペイン・コスタ・デル・ソル取材が決まった時から、何か特別なものを見つけられる予感がしていた。


「紗季、こっちよ!」


 ロビーの向こうから手を振る女性は、紗季の大学時代の友人で、現地の日本語ガイドとして働く瀬尾麗子だった。五年ぶりの再会に、紗季の顔がパッと明るくなる。


「麗子! 久しぶり!」


 飛び跳ねるような足取りで近づき、二人は抱き合った。麗子の髪からはオレンジブロッサムの香りが漂い、紗季は南国にやってきたのだと実感した。


「疲れた? バルセロナでの乗り継ぎ、大丈夫だった?」


 麗子は紗季のカメラバッグを肩から取り、自分の肩にかけた。


「バルセロナは少し走ったけど、なんとか間に合ったわ。それより、久しぶりに会えて嬉しい!」


 紗季は長旅の疲れも忘れ、麗子の変わらない笑顔に心が温かくなるのを感じた。


「今日はマラガで一泊して、明日からコスタ・デル・ソルを回るわよ。とりあえずホテルにチェックインして、それからタパスでも食べに行きましょ」


 麗子は紗季の腕を取り、出口へと導いた。


 マラガのホテルは旧市街に近い小さな宿だった。石畳の細い路地を抜けたところにある白い建物は、中庭を囲むように部屋が配置されていた。チェックインを済ませ、二人は部屋に向かった。


「ねえ、この旅のこと、もう少し詳しく教えてくれる? メールには猫の写真集のためって書いてあったけど」


 部屋に入るなり、紗季は荷物を置いて尋ねた。穏やかな夕暮れの光が窓から差し込み、白い壁を淡いオレンジ色に染めていた。


「そう、日本の出版社から依頼があったの。コスタ・デル・ソルの猫たちをテーマにした写真集を作りたいって。私がガイドで、あなたがカメラマンってことになったわ」


 麗子はベッドに腰掛け、長い髪を耳にかけた。彼女は紗季よりも二つ年上だが、日に焼けた健康的な肌と活発な性格で、実際の年齢よりも若く見えた。今日は淡いブルーのワンピースを着て、首元にはシンプルなシルバーのペンダントが揺れていた。


「でも、なぜスペインの猫?」


「コスタ・デル・ソルは『太陽の海岸』って意味があるでしょ? 一年中太陽に恵まれてるから、猫たちも陽気で人懐っこいの。それに、スペイン南部の白い町並みと猫のコントラストが絵になるのよ」


 麗子は部屋の窓から見える夕焼けの空を指差した。


「この光。見て。これが『黄金の時間』って言われるもので、写真家が一番好む光なの。コスタ・デル・ソルでは、この光が朝と夕方に毎日見られるのよ」


 紗季は窓際に立ち、カメラをバッグから取り出した。それはキヤノンの最新一眼レフで、長年の仕事の成果として最近購入したものだった。レンズを付け替え、試しに窓の外の景色を数枚撮影した。


「この光、確かに素晴らしいわ」


 その言葉に麗子は微笑んだ。


「それじゃ、少し休んでから夕食に行きましょうか。明日からのスケジュールを説明するね」


 麗子はバッグからタブレットを取り出し、画面をタップした。


「明日はマラガからトレモリーノスに移動して、そこで二泊。海岸沿いのプロムナードとホテルの周辺で猫を撮影するわ。それからフエンヒロラに移動して二泊。最後にミハスで一泊。全部で五泊六日の行程よ」


 紗季はベッドに腰掛け、荷物から化粧ポーチを取り出した。中から日焼け止めクリームを出し、顔と首に塗り始めた。


「明日からたくさん外にいるから、あなたも塗っておいた方がいいわよ」


 紗季は麗子にクリームを差し出した。それはフランスの高級ブランドのもので、SPF50の高い日焼け防止効果があった。


「ありがとう」


 麗子はクリームを受け取り、手の甲に少量取って顔に塗り始めた。


「ねえ、実は今回の仕事、私にとってすごく大事なの」


 紗季は真面目な表情で言った。


「どうして?」


「去年から仕事が少し減ってて……。このスペインの猫の写真集がうまくいけば、新しい可能性が開けるかもしれないの」


 紗季の声には不安が混じっていた。三十代に入り、フリーランスの厳しさを身に染みて感じていた。


「心配しないで。コスタ・デル・ソルの猫たちは、きっとあなたのカメラを通して素晴らしい姿を見せてくれるわ」


 麗子は紗季の手を取り、優しく握った。


「それに、ここでの五日間は、仕事だけじゃなくて、あなた自身のための時間でもあるのよ」


 紗季は微笑み、麗子の手を握り返した。


「そうね。この旅を楽しむわ」


 その言葉に、彼女自身も少し驚いた。いつの間にか、仕事の緊張よりも、これから始まる旅への期待が大きくなっていた。


「さあ、準備ができたら出かけましょう。マラガの夜は、まだこれから始まるわ」


 麗子は立ち上がり、ドレッサーの前で髪を整えた。紗季も急いで準備を始めた。明日からの旅への期待と少しの不安が入り混じる中、スペインの夜は静かに深まっていった。

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