――溪壑―― 1 悪魔の息吹
榎本が向かっている場所は、かつて
既存の地図からは姿を消し、洋介手製の地図によれば、
下満島とおぼしき集落を抜け、墓地を左に見ながら奥へ奥へと車を走らせる。墓場は荒れ果て自然に還りつつあった。
墓地の裏手。狭い林道をのろのろと進むと二、三メートルほどの幅を持つ沢が現れた。木造の古い橋が架かっている。
車で通れなくもないが、万が一と言うこともあるだろう。榎本は車での通行を諦め、歩いて満島廃集落を目指すことにした。
狭い登り坂の左手には、いにしえを思わせる幽玄な岩壁がそそりたち、右手には深閑とした杉林が広がっている。天気は快晴であるのに、陽光は茂った木々に遮られ林道は陰鬱と暗かった。
一時間近く歩いたはずだ。時刻は午前十時を廻り、額に噴き出した汗をシャツの袖で拭う。
正しい道なのか不明だ。若干の不安を感じながらも、岩肌の露出した切通しを進んだ。激しい傾斜はないと言っても地面は滑りやすく、行く手を拒むように大小の石が点在し、倒木も多く見られた。
対峙する険しさに、終始拷問を受けているような気分だ。額に汗が流れ顎を伝い滴り落ちる。太ももの筋肉がパンパンに腫れ熱を持った。正直心が折れそうだ。
「悪路にもほどがある。これじゃあ全く、登山道と変わりない――」
道のりの険しさに、思考も身体も停止しそうになっていた。
革靴で登山なんてバカのすることだ――不意に記憶の正治が毒づき、クツクツと笑いが込み上げた。自身の姿を嘲笑う。
榎本はここに来るまで楽観的な考えを持っていた。集落の側まで車で行けるだろうと、安易な気持ちで普段の服装、スーツに革靴の仕事着で来てしまっていた。呆れて再び嘲笑う。とてもじゃないが車が入れる道じゃない。
伝う汗に濡れ、ワイシャツとスラックスの裏地が肌にピッタリ張り付いていた。不快だ。着替えに帰りたい気持ちが半分、現在地までの往復など考えられない気持ちが半分。
おや――背後で声がし、不意の人の気配に榎本はわっと仰け反った。
「お客様ですか」珍しい――と初老の男が岩影からぬっと姿を現し、おっとりした声で言った。
上下共に汚れたグレーの作業着を身にまとい、毛量に衰えのない真っ白な頭髪をこしらえている。白髪で老けて見えるが、面相はまだ六十半ばに思えた。
こんにちは――と、ようやく絞り出した声は情けなく怖じけていた。声掛けに驚いたせいか、彼の声音に嫌悪感を抱く。なんだか胃の辺りがゾクゾクするような感じだ。
この先にご用かと問われ、榎本はそうだと返す。
丁度廃道を奥深くまで進んで来て、方向感覚を失い始めていた頃だ。男に廃集落の場所を尋ねると、ありがたいことに案内を乞うことが出来た。
男は中村と名乗り、二十年ほど昔からこの廃村に住み着いている浮浪者だという。道案内をされながら集落の現状についてを軽く聞いた。不法住民は三十人ほどいるらしく、自給自足し隠れ住んでいるのだと彼は話した。
「下の集落の方々がよくしてくださるんです。私らは表に出られないもんでね。とてもじゃないが商売なんてできませんから、年に何回か、裏の墓地を手入れする代わりに調味料なんかを分けてもらっています。そうやってみんな細々と生活してるんですよ」
榎本の見た墓地は、とても手入れをしているようには思えなかった。
中村は榎本の心中を察したようで、未だに三分の一は手付かずなのだと話した。墓地の広さの割に人手不足なことと、墓地まで下るだけで重労働で思うように作業が出来ないのだと付け加えた。
ほどなくして廃村が姿を表した。到底人の住む場所には思えない荒れようだ。人々が豊かに暮らしていたかつての面影はない。家屋は倒壊し、屋根であった物が地面と同化している。立派な石垣だけが朽ち果てることなく、集落を囲い守るように鎮座していた。
榎本は不動峰の写真を見せ、旧友なのだと伝えると「ああ、公平さんだね。あの家に住まってるよ」と、中村は快く不動峰が隠れ住まう家を教えてくれた。
部分的に壊れているが、十分補強がなされていて、住む分には問題なさそうな家屋だった。
榎本は案内してくれた中村に礼を言い、公平孝太郎と名乗る不動峰圭吾宅の戸口を叩く。
はあい――と、二十歳前後の女が戸を開け、どなたと首を傾げた。榎本の姿を見た女は、さっと険しく表情を曇らせ、厳しい目付きで睨んでくる。
榎本は平然と公平孝太郎の旧友だと名乗り、面会を申し出た。
女は無言でしばらくの間榎本を睨み続け、お待ちください――と屋内へ姿を消した。
彼女を追って、戸口の隙間から中を覗き見る。
古さの割に中は至って綺麗なものだった。掃除が行きとどいているのだろう。土間から高い床を踏んで居間へ上がれるようだ。
誰だ――と無精髭を生やした浅黒く薄汚い男が、居間の柱から顔を半分覗かせ、驚愕に目を見開いた。
「え、榎本――」
男は呟いて、観念したように項垂れ土間へ降りてきた。
「ご無沙汰しています、不動峰元警視。俺のことを覚えてるんですね」
榎本が深く頭を下げると、捕まえに来たのか――と、不動峰の震えた声が降った。
榎本は顔を上げ首を振り、自身は警察を辞職し探偵をやっていること、行方不明の弟子を探していること、その過程でここに行き着いたこと、とだけを簡潔に話した。
「あなたは病死し、ご家も事故で亡くなったことになっていますが――」
榎本が尋ねると、不動峰はそんなことは知らないと顔を背けた。
終始、警戒した様子で怯えている。絶え間なく聞き耳を立て、黒く浮いた瞳が辺りを忙しく徘徊する様が、気になって仕方なかった。
彼はこんなにも弱く臆病な人間だったろうか、と榎本は記憶を思い返す。警察時代の不動峰は、傲慢な男だった。気性が荒く、誰彼構わず怒鳴り散らしていた様が思い出され、榎本は不快に眉を寄せる。
「別段、俺が捜査しているわけじゃあありませんがね、伝えときたいことがあるんですよ。あなたはマネーロンダリングに手を染めていましたね。あなたと手を組んでいたであろう城川警視正は――、死にましたよ」
不動峰の肩が跳ねる。榎本は構わず話を続けた。
「残念ながら情報が入ってきています。戸籍を消してここへ移り住み、名前まで変えて隠れているのは、犯罪に手を染めたからですか? まさか捕まるのを恐れて? なにから逃げているんです」
「俺は――脅されていた。築き上げた地位も、金も名誉も、家族の命さえも脅かされ、仕方がなかったんだ。こうするしかなかった、あれは俺の意思じゃないんだあ」
「泣き落としですか、無様だな。――まあいい、俺はあんたを捕まえることが目的で、こんな辺鄙な所まで来たわけじゃない。人探ししてるんだ、協力してもらう」
不動峰は怯えて命乞いするような、すがり付く目で榎本を見た。
不快な視線を払うように、榎本はキッと高圧的に睨んで返し「誰に脅されていたのか話してください」迫るような低い声で言った。
不動峰はぶるぶると身を震わせ、知らない、話せない、わからない、と卑屈に言葉を繰り返す。日に焼け薄汚れた顔がみるみる青ざめていった。
「知っているんだろ。江が――」
ピリッと鋭い視線を感じ、咄嗟に言葉を切った。
怯えて丸くなっている不動峰から視線を外し、辺りに気を張らせる。
家屋の至るところから鋭利で毒々しい、身の危険を感じるような視線が飛んできていた。恐怖が怒りに変わったような、不穏で殺気だった酷く痛い視線。
うずくまり呪文のように帰ってくれと繰り返す不動峰が、視線と相まって無性に気味悪く思えた。
「あなたを脅す相手さえ教えてくれたら、俺はすぐに帰ります。そしてあなたの事を警察に伝えたりもしません。俺は部下を探しているだけなんです。どうか教えてください」
秀島だ――不動峰は低く呟き「秀島忠次が知ってる。悪魔だ、悪魔が俺を見てる。ここには悪魔が住んでいるんだ。帰ってくれ、もう二度とここへ来るな」来んでくれ――そう涙ながらに訴えた。
一筋縄で行く相手ではないが、訪ねてみる価値はあるように思えた。問題は秀島はここにいない。
頼む、二度と来ないでくれ――みすぼらしい不動峰の姿と、柱の影や襖の隙間から覗く一家の怯えた視線に、榎本の胸中に罪悪感がふつふつ湧く。長居は無用だ。約束通り一旦帰ることに決めた。
苦労して登ったにも関わらず早々に下山し、その足で秀島忠次の元へ向かうことにする。道すがら、手土産を探しに事務所へ立ち寄ることにした。秀島を仕留めるに最適な土産がある。
とある道を境界にタイヤが水を弾き始めた。満島に滞在している間に、麓では雨が酷く降ったようだ。今は止んでいるが、空はどす黒い雲に覆われ、もう一降り来そうだった。
車庫に車を止め事務所の入り口へ回ると、一台のスポーツタイプの大型バイクと、傍らにフルフェイスのヘルメットを被った人影があった。
こんにちは――とヘルメットを取ったその顔は、ジャーナリストであり榎本とビジネス関係にある、神﨑洋介だ。
「お前――どうした。びしょ濡れじゃないか。いつからここにいた」
出社していたのか、スーツにコートを羽織っただけと、この季節のライダーにはあまりにも寒々とした出で立ちだった。おまけにヘルメットを被っていた頭以外ずぶ濡れになっている。細い体躯から水を滴らせ、見るからに凍える風貌だ。
「急に降られてしまって。実は、榎本さんに急ぎでお渡ししたいものがあったんです」
「ああ、わかった。それはあとでいいから。とにかく中に入れ。風呂沸かしてやるよ」
榎本は事務所の扉を開け、真っ青な顔しやがって――と、低い位置にある洋介の頭をわし掴み、早く中へ入るよう促した。
「いえ、お構い無く。そんなご迷惑をお掛けするわけには――」
洋介は身をよじりその手を逃れようとするが「遠慮の使い道くらい知ってんだな」と、榎本は逃がしはしなかった。
「酷い言われよう――」
そんな風に不貞腐れる洋介の腕を引き、無理やり室内へ引き入れる。
「冗漫だよ。こんな冷たい雨に当たったままじゃ風邪を引くぞ。大人しく言うことを聞け。何月だと思ってるんだ、十二月だぞ。実際、こんなに冷えているじゃないか」
榎本はそう言って、洋介の指先に触れた。凍ったように冷たい。
語気を強めて言われたせいか「すみません、お言葉に甘えます――」と、彼は素直に従い事務所へ入った。
吐息が白くなるほどではないが、それでも指先がかじかむ程度には寒い。真っ昼間の気温でも、ゆうに十度を下回っている。
榎本はすぐに室内の暖房を着け、浴槽に湯を張るために給湯器のスイッチを入れた。事務所内は土足のため構いはしないのだが、洋介の立つ足元には衣服から滴った雨水で、水溜まりが出来ている。
「スーツは干しといてやるから、脱衣所のどこか適当に置いておけ」
「お手数かけて申し訳ありません」
「いいから、早く温もらないと本当に風邪を引くぞ。湯が溜まるまでシャワーでも浴びていろ。少しでも早く温まれ」
「ええ、お湯を頂だいしますね。あ、この書類、目を通していてください。お渡ししたかったものはこれなんです」
洋介はビジネスバッグからA4サイズの茶封筒を取り出し、榎本へ差し出す。濡れてはいないがひんやりと湿気っていた。
「わかったよ。下着はないが構わんだろ? 替えの服くらいは貸してやるから、さっさと温もってこい」
封筒を受け取った榎本は、そう言ってしっしっと手で追い払う仕草をした。
お手数おかけします――苦笑いを浮かべた洋介は軽く頭を下げ、脱衣所へ消えていった。
洋介が浴室に入るのを見計らい、適当な着替えを届け濡れたスーツを回収する。重たいスーツとコートにハンガーを通し、窓枠に引っ掛けた。
インスタント粒子を溶いたコーヒーを片手に、定位置のソファに腰かける。渡された封筒からしなしなの書類を取り出した。
「今度のはなんだ。登山の誘いじゃなけりゃあいいんだが――」
やれやれと目を通していく。
とある宗教についての内容だった。
奉っている神は
「伊勢に月読尊という天照と対象の月の神様が祭られていて、その神が転じて創作された神じゃないかと僕は思っています」
頭上から水滴と共に、洋介の清澄な声が降った。
「ちゃんと髪を拭け。温もった意味がないじゃないか」
世話の焼ける――とため息混じりに言って、榎本は洋介が首に掛けていたタオルを取り、それで彼の濡れた髪を乱雑にかき混ぜた。時折上がる抵抗の声など気にせず、腕に疲労を感じるまで素早く拭き上げる。
「もう、乱暴ですよ」
タオルから抜け出し抗議を唱えた洋介の頭は、湿っている上に雑に拭いたためか、爆発したように癖がより一層強く出ていた。少しでも本来の形状を取り戻すように、洋介は懸命に髪を撫で付けながら、榎本の向かいのソファに腰かける。
彼にトレーナーを貸したはいいが、襟元は浮いた鎖骨が露呈し、パンツはずり落ちてしまうようでウエストを絞るように片手で掴んでいる。体格差故に、華奢な洋介には生地が倍ほど有り余っていた。その姿がどうにも恋人の服を借りた少女のようで、クツクツと笑いが込み上げてきて、真剣な面持ちで話をする彼に少し申し訳ない気持ちになった。
「笑い――、堪えたってバレていますからね。榎本さんのガタイが良すぎるだけです」
「コーヒー淹れてやるから怒るなよ。にしてもお前、似合わないくらいでっかいバイクに乗っているんだな。驚いたよ、てっきり子供が乗ってるのかと。地面に足はつくのか」
「放っといてください」
あからさまに不機嫌な面を作り、洋介は押し黙った。
機嫌を損ねたことを詫びて、この教団はなんなんだと、コーヒーを淹れながら本題に触れる。
「満島で信仰されている宗教で、月神を崇拝し悪魔を排除することで、楽園への道が開くんだそうです。些細なことでも情報は多い方がよいかと思い、急いでお持ちしました。わざわざ辺鄙な廃集落まで出向くわけですし、危険な宗教教団の可能性もありましたから」
「ああ、さっき行ってきたよ」
言って榎本は、ほらと洋介にコーヒーを差し出す。
「もう行ってきたんですか?」
洋介は驚いたと言う風に声を上げ「嘘だろ、そんな。僕としたことが――。情報提供が遅れてしまうなんて」と、頭を抱える。
「いや、もう一度行こうと思っていたから丁度よかった。なかなかに興味深い宗教だよ」
「あんなところへまた行くんですか」
洋介は再三驚いた顔をして言い、不動峰にはお会いに――榎本に尋ねた。
榎本は村へ出向いて得た内容を、洋介に事細かに話した。
「へえ、満島の住人に案内してもらったんですか。案外穏やかで親切な方もいたんですね。僕はてっきり、逃げ隠れる犯罪者ばかりで殺伐としているのかと――」
「うん、村事態はそうでもなかったが、不動峰の怯えようがどうにも気がかりでな。しきりに警戒しているもんだから、監視でもされているんじゃないかってな」
「けれど、不動峰の家族にあなたが見張られていたのでしょう?」
「あの視線は痛かったなあ。下手に口を開いたら襲われるんじゃないかって殺気だった」
「もうそれじゃあ、彼の一家は江神を知っている――と言っているようなものですね。それか、不動峰の悪事を知っているから、部外者であるあなたを警戒していただけか」
「後者――と言いたいところだが、俺は捕まえに来たんじゃないと最初に断ったんだ。江神の存在を知っているが、言葉にさえできないほど関わりたくないってところだろう」
「ふむ。ではあの村に住み着いている悪魔と言うのは、江神を指していると思いますか」
「ああ、思うね。あの村に江神も隠れ住んでいるんじゃないかって思ってる」
「なるほど――それは確かに、もう一度行ってみる必要がありそうですね」
そう小さく言って洋介は口許に手を添え、考えるように首を傾げた。
濡れ鼠の時と違い指先の血色がいい。一安心とばかりに、榎本はコーヒーを飲もうとマグカップに指をかけた。瞬間、スッと洋介の目線が榎本の目を射た。なんら濁りのない、恐ろしく澄んだ瞳だ。
「僕、思ったんですが――月霧靄命って江神消子を指しているのではないでしょうか」
「これまでの情報でも、江神は神や悪魔、天使と称されているからな。可能性はある」
満島へはいつ行きますか――洋介に尋ねられ「明日にでも行きたいところだが――、生憎先に行きたい場所があるんだ」と言葉を切り、榎本はようやくとばかりにコーヒーをすする。嫌な酸味を感じるほど、冷たくなっていた。
「ああ、秀島忠次ですね。ヤクザをお相手なさるなんて、僕には気が知れませんよ」
「嘘つけよクソガキ。そんな脆弱な神経でここまでの情報を集められるもんか」
洋介は小さく含み笑って、僕だって怖いものくらいありますよ――と再び笑った。
榎本は、ふんと鼻で笑い返し「しゃらくせえことを言う」と、一蹴する。
壁掛け時計のメロディが響いた。時計を見れば、針が十四時を指している。遅くなったが昼食でも取ろうかと考え「神﨑、飯は食ったか」そう洋介に昼食が必要か尋ねた。
「ええ、一昨日の晩に白米を三升食べました」
洋介の返答に榎本は目を丸くする。しばらく思案してみたが全く意味がわからない。
どういうことだと聞き返せば「いえ、ですから――一昨日の夜に白ご飯をですね」と、かたくなに一昨日の晩の話をしようとする。
榎本は、待て待てと言葉を遮り「今日の昼飯は食ったのか、って話をしているんだが」聡明な頭はどうした――と呆れて言った。ここまで言葉が必要なのかと頭を振る。
相変わり洋介は、不可思議なものを見るように小首を傾げ「今日は食べていませんよ」と、ようやく現在の話をしてから、ですから一昨日に――またも一昨日の話を始めた。
不思議だと言う顔と繰り返される言葉に、榎本は嫌な予感がして「一昨日の晩に腹一杯食ったから今日は食わないつもりか」尋ねた。
洋介は頷いてから、食べませんよとあっけらかんに答え、問いの意味がわからないと言う風に、今度は反対側に首を傾げた。
そんなバカな――榎本は寄った眉間を、右中指の背で押す。からかいだと思い洋介を問い詰めるが、本当にふりかけや漬け物さえなく、白飯だけを十キロ以上食したらしい。
「確かに偏食だとは知っていたが、まさかここまで常識外れだとは――」
榎本も他人をとやかく言えた生活はしていないが、洋介の異常すぎる偏食っぷりに動揺を隠せない。適切な量と栄養素を含む、まともな食事をさせなければと思い、出掛けようかと口を開いた。
定食屋に――誘いの言葉を遮り、事務所の呼び鈴が鳴った。
榎本は軽く返事をし、腰をあげる。玄関へ向かうより早く、自主的に扉が開かれた。
「綴喜、話したいことがあるのだけど」
挨拶もなしに言ったのは、栄子だった。
玄関を開け放ったまま立ち尽くす彼女は、あらいたの――と冷たく言い放ち、表情を険しくした。
訪ねて来ておいていたのとはあんまりだ。榎本は栄子の態度を不快に感じ顔をしかめる。
「喜ばしいことじゃないけど、丁度よかった。あなたにも話があったの。手間が省けたわ」
栄子の視線は、榎本の後方に注がれている。どうやら洋介へ向けた言葉のようだ。
なんのご用でしょう――努めて柔らかい口調で洋介が尋ねると、栄子はツカツカと室内に入り、彼の向のソファに腰かけ腕と足を組む。パンツスーツが悲鳴を上げそうだ。
「あなた、綴喜が幻覚を見ていることを知っていたでしょ」
苛立ちを露にした、刺々しい口調で言い放った。ふんぞり返る彼女のパンプスのヒールが、ローテーブルに当たっており榎本は気分を害した。彼らの会話より、栄子の削れたヒールが気になって仕方ない。
存じています――洋介は角の立たない口調で言い、対照的に「どうやって入手したのか話してちょうだい。それがなんに必要なのかもね」と、栄子は語気を荒らげる。
足を下ろせと口を挟めず、榎本は苦くタバコを咥えた。
栄子の質問や態度が琴線に触れたらしく、洋介は一瞬目尻を震わせ、感情の全てを置き去りにした芯まで凍る声音で「お答えできません――」と、一言だけ静かに告げた。
答えなさい――栄子が怒気を強めても、洋介はできませんと頑なに拒み続けている。
「答えろと言っているのよ! バカの一つ覚えみたいに、できないできない言うんじゃない!」
怒りを露呈させる栄子を「おい、そうがなるなよ」榎本は遮り、なだめる。
「うるさい! あなたは黙っていてちょうだい。洋介くんもいい加減答えなさい! 痛い目見たくないでしょ」
よほど虫の居どころが悪いらしく、栄子は再び怒鳴り付けた。
ヒステリックな女は手に終えないな――榎本はどうしたものかと頭を掻いた。
洋介も洋介で、わざと栄子の怒りを逆なでている。そうとしか思えない威圧的な姿勢を貫いているし、相変わらずゾッとするような冷たい声音で、できませんの一点張りだ。
「あんた、本当になんなの。澄ました返事ばかりするんじゃないわよ! 黙秘なんてさせないわ。その情報は非合法に手にしたから話せないんじゃないの? そうなんでしょ!」
「なにをお怒りなのでしょう? 何度も申しますが、答えられません。記者である僕は、秘匿を最大の礼儀としています。どれだけ尋問されようと、どんな風に思われようと答えることはありません」
「なんて融通の利かない。あなたは綴喜と情報の共有をしているでしょ。彼の情報はこっちが仕入れたものもあるの。だから、私へも情報提供する必要があるんじゃないかしら」
恐れ入りますが――洋介は前置きし「栄子さんの属する組織から、僕の保有する情報の対価となる情報を提供していただいた覚えはありません」と、高圧的な雰囲気を含ませ、静かに言った。
その言葉に、なんですって――と栄子は真っ赤な激情を顔に映す。
先に謝りましょう――洋介は自ら栄子の逆鱗に触れようと、わざとらしく嘲笑い「嫌な言い方になりますが、警察が手にしている情報程度、すでに僕の手中にあります。現時点では僕が一方的に情報提供をしている状態です」記者とは――と、不適に間を取り「警察が求めるような正義の味方、ではありませんから」そう、冷血に言葉を紡いだ。
「なんて生意気な口を聞くの――! 殺人鬼の犠牲者がいるってわかってるのかしら。死人が出てんのよ。犯人に繋がる情報を手に入れたなら、警察へ開示するのが義務じゃないの。あなた、死人が出ているのに自分の功績を重視して、あまりに非道で傲慢だわね!」
「金切り声を上げるな! もういい加減にしてくれ。お前の態度こそどうなんだ」
耐え兼ねて榎本は声を荒らげた。栄子は一息の間閉口したが、洋介を睨み付け再び口を開く。
「これだけは答えてもらう。警察関係のカウンセラーからその情報を得たんじゃない?」
「いいえ、違います。――違うと断言できます」
「そう、嘘はないのね。綴喜と大事な話をしたいから、あなたは帰ってちょうだい」
「承知しました。榎本さん、スーツは後日取りに伺います。その時に改めてお礼をさせてください」失礼します――洋介は頭を下げ、濡れたコートを手にし事務所を後にした。
動じないだろ、あいつ――榎本は洋介に申し訳ない気持ちを隠し、栄子の機嫌を取るように冗談めかした口調で言った。洋介とのビジネス的な会話は酷く腹が立つ。体感済みだ。
「ジャーナリストって本当に嫌な職業よね。図太くてずる賢くて、昔っから嫌い。洋介くんはいい子だと思っていたけど、記者は記者ね。すぐ警察に食って掛かるんだから」
「だからって、あんな辛辣な態度はあんまりだ。こっちがペラペラ情報漏らせんように、あちらさんにも事情があるんだろうよ。守秘は義務でも秘匿は志なんじゃないのか」
「まあ、そう言うこともあるかしら――。でもさ、毎度思うのだけど、記者って間違いなく倫理観の欠如したヤツらばかりね。ああいうのが利己的って言うのかしら」
「確かに、神﨑は露骨だな。真実に真向勝負を仕掛ける当たり、職業病なんだろ。ああいう連中相手にいきり立つだけ無駄だ。神﨑は神﨑の目的のために行動してるんだしな」
どうせ記事のネタ作りでしょ――栄子は毒づき榎本の冷めたコーヒーをすすった。
「さあ、お喋りは終わりよ。ここからは真面目な話をしましょうか」
表情を堅くした栄子から、汐見の考察結果報告以降の話を聞かされた。
どの内容にも驚かさる。臨床心理士である楠木慶吉の語ったこと、娘の楠木麻里の奇行。中でも最も驚いたことが、楠木慶吉の語った江神消子像が、洋介の推測している江神消子像と一致していることだ。
やはり洋介の情報収集能力は侮れない。警察に勝れど劣らない事実を目の当たりにし、彼の終始強気な態度に合点がいった。
神﨑洋介が件の事件解決のキーパーソンであり、貴重な情報源であることを認めざる負えないだろう。
「その楠木慶吉なんだけど――、今朝死亡が確認されたわ」
殺されたのか――榎本が問うと「おそらく自殺ね。首吊りだったのよ」栄子は答えて「娘を亡くしたショックが大きかったんでしょうね。大切な娘二人を同時に失ったんだもの、相当よ。それに、あんな殺され方」酷すぎる――そう声を震わせ唇を噛んだ。
栄子――弱い声を出した榎本をキッと睨み付け「泣いたりしないわよ。私は、犯人を捕らえるまで泣かないわ」と、栄子は声を荒げて言い放った。目元を赤く染めて言葉を続ける。
「泣いてる暇なんかないの。萩野優利枝も唇紅の殺人鬼も必ず捕まえる。絶対よ」
そう断言した彼女の瞳には、正義の光が強く宿っていた。
榎本は一つ息を吐いて、無理するなよ――と、飾らない言葉で労った。
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