――夢幻―― 5 声冴ル黒猫
冬の空を、どんよりとした雨雲がおおっていた。日の出より早く降り始めた小雨に意欲が萎む上、指先がかじかむ程に外は冷えていた。窓だって結露して鬱陶しい。
こんな日の来客は本当に気が滅入る。来客を知らせる呼び鈴に誘われ、はい――と気だるい動作で事務所の扉を開いた。
榎本は目を見張る。寒空の下、玄関に驚くほどの美貌を兼ね備えた男が立っていた。地顔の男を美しいと思ったのは、正治以外に初めてのことだ。
柔らかい笑みの若い男なのに、ただならぬ雰囲気が滲み出ている。年は正治と幾ばくも変わらないだろう。童顔の割に鋭く吊った切れ長の目が印象的だった。どことなく猫っぽい様相だ。
正治が高級ブランドの首輪を付けた飼い猫なら、目の前の彼は過酷な自然界を生き抜いてきた黒い短毛の、野良猫のような雰囲気を持っていた。彼の訪問着にしてはカジュアルな装いと、日頃からフォーマルな正治との違いだろうか。
「初めまして、榎本さん」
男はふわりと癖毛を揺らし会釈した。上げられた顔には、柔和な人懐っこい笑みが貼り付けられている。小柄で柔らかい物腰の割に、吊った目が嫌に強い眼光を宿していた。
内部に秘めた理念だか理念だかが、目を通して浮き出てくるようだ。
高飛車で強情で傲慢。勝手なイメージだが、警戒するに越したことはない。
「ご依頼であれば生憎ですが――」と、ドアノブに掛けたままの手に力を込めた。
一方的な勘ではあるが、この男とは関わり合いたくない。早々に立ち去ってもらおう。
だが、遠回しに帰れと伝えようとした言葉は「お受けしていないのでしょう、存じています」と、遮られた。
取って付けたような柔和な笑みを崩さず、こういう者です――と男が名刺を差し出した。
榎本が受け取らずに黙っていると、相手は表情にも動作にもなんの乱れも見せず、目力だけでさっさと受け取れと言う風に、ジリジリと無言の圧力をかけてくる。差し出された淡い桃色の名刺に雨粒が落ち、その濡れた部分だけが色濃くなりふやけていった。
榎本は渋々名刺を受け取り「新聞社の記者、ですか」軽く目を通し言った。
「神﨑洋介と申します。僕も唇紅の殺人鬼を追っていて、先日須藤栄子さんからご紹介頂きました。本日伺うと栄子さんにお伝え願いましたが、どうやら
「いや、聞いているよ。確かに数日前、そんなことを言っていたな」
いかにも忘れていたと言う風に受け流したが、榎本は栄子に聞かされた話をしっかり覚えていた。
今日、この時間に神﨑洋介という男が訪ねてくることも、別に忘れてなどいない。ただ、栄子と話していた時分からどうにも気乗りしなかった。
翌日にでもよかったのに、洋介に会う日を何日も先伸ばしにしたほど、心底気分が乗らなかった。
四日後の午前十時――栄子から、どうしても会ってみてくれと懇願され、渋々承諾したのだ。
「ああ、よかった。ちゃんと話が伝わっていたようで、安心しました」
洋介はあからさまに眉を下げ、胸を撫で下ろす仕草を見せた。間髪いれず、それで――と続ける。
「交渉なんですが、僕と唇紅の殺人鬼について情報共有をいたしませんか」
「悪いがジャーナリストと共有することなんかなにもない。お引き取り願おう」
「お忙しいのでしたら出直します。ですが、僕はあなたにとって有益な情報を手にしています」例えば――含んだ間をたっぷり空けて「諏訪正治について」強気な笑顔を榎本に向けた。
正治の名を出された榎本は一瞬怯んだ。その隙を、洋介は逃がしはしなかった。
「事務所に入れて頂いても――?」
妖艶な笑みに強い眼光。彼から真っ当な人間と掛け離れた薄気味悪さを感じ取った。やはりこいつは黒猫だ。それも野良ではなく、醜悪な魔女に飼われた邪悪な部類――。
胡散臭いしジャーナリストなど信用できない。新聞記者の情報網を侮っているわけではないが、情報収集能力なら警察と手を組んでいる榎本に、一端の記者が勝るとは思えなかった。
やはり追い返すか――そう思っても、正治に関する情報ならば話しは別だった。
躊躇ったが、結局は洋介を事務所に招き入れていた。正治に関することならば、どんなに些細な情報でも喉から手が出るほどに欲しい――正直、これが本音だった。
「それで、俺にとってどんな有益な情報を持ってきたんだ。交渉したいのなら、包み隠さず開示してもらおうか。小細工はなしにだ」
榎本は牽制するよう威圧的に告げた。
承知しています――と、やはり彼は柔らかいのに薄気味悪い笑みを浮かべ「あなたが血眼になってお探しの諏訪正治さんですが」ご存命ですよ――そう含むように言った。
「生きてるって? どうして――、なぜお前がそんなことを知っている」
「詳しい経緯は省きます。数日前、僕は諏訪くんにお会いしました。榎本さんもお会いになったはずです」
そう言われ、思案に耽ると「火事のあった現場でですよ」と、洋介が付け加えた。
言われなくとも把握している。榎本は少し苛立ち「姿を見ただけだ」と淡白に伝えた。
「ええ――、当然ですが存じています。僕は全て見ていましたから」
見ていたのならば、洋介にも正治の姿が見えていたということだ。あれは幻覚じゃないと証言されたことに、榎本の鬱々とした気分が少し晴れた。
正治は生きている。それがわかっただけでも榎本の心は軽くなり、前向きに洋介の話しに耳を傾ける気になった。
「神﨑――、と言ったな。なぜ、あんな火事の現場にいたんだ。偶然か?」
「偶然と言えば偶然ですが。燃えているだなんて思いもよりませんでした。僕は全焼した家屋の家主である
「吉浦さんに? ジャーナリストがいったい彼になんの用があるってんだ」
「実は僕、知っていたんです」
と、気鬱に色をなくした洋介の表情に、なにをだ――榎本は恐る恐る聞き返す。
洋介は低く「吉浦氏は命を狙われていた」言って目を伏せた。
榎本は「どういうことだ!」拳を強く握り込み言った。憤りに声と肩が震える。
「ご存知と思いますが、吉浦氏は
榎本もよく知っている。彼は希に見る親孝行な男性だった。初めて会ったときも母親を病院へ連れていくと言っていたし、迷惑に訪ねられても物腰柔らかく対応する。恨みを買うような人物には到底思えなかった。そんな彼がなぜ、一家で殺害されなければならなかったのか。
この事件は大々的に報道され、捜査本部も設立された。首を切断された遺体が三体。内一体は子供だった。一体は頚椎の骨折、もう一体は他の外傷は見受けられない焼死体。計五人の遺体は吉浦さん一家で間違いなかった。
「江神――」
洋介の急な囁きに、思案に耽っていた榎本の鼓動が、ぎくりと反応する。
「その反応は、覚えがあるようですね」
洋介は不適に笑い、言葉を続けた。
「江神消子――。調査をしている仮定で、僕も彼にたどり着いたんです。そして、この人物こそが凶悪な連続猟奇殺人事件、
「だからなんだ。江神と吉浦さんとなんの繋がりがあるって言うんだ」
「なんら繋がりはありませんよ。ただの偶然で、図らずも命を狙われることになってしまった。吉浦謙太郎氏一家の死は理不尽によって招かれたことなんです」
「家が近かったからか? なにかを見たか、邪魔になったから、とでも言いたいのか」
「実家が近かったと言うのは間違いではありません。近かったからかこそ、知ってしまったんでしょう。吉浦氏は江神消子を見てしまったんですよ。話しもしていないし、関わってもいない。江神消子を見てしまったから、吉浦氏とそのご家族は殺されたんです」
証拠は――榎本が問うと「全くありませんね、残念ですが」と、洋介は肩を竦めた。
「じゃあ、なぜ断言できる。お前は――いや、まずは、江神消子の存在をどうやって知ったんだ」
問えば「答えかねます」と一言、洋介は表情も声音も凍りついたように、無表情に答えた。まるで感情を切り捨てたと言う風だ。
その澄ました顔を忌々しく睨み付ける。
「あなたが僕をそんな眼で見るのですね。全く」図りかねる――と、微かに呟いた洋介の声音が、喉元に突き付けられる。先端の鋭利に尖った、冷たい牙を向く氷柱のように恐ろしい。
「あなただってきっと同じことを言いますよ。僕たちジャーナリストは、秘匿を前提として情報の提供をお願いしています。情報源に繋がる内容を開示することは、なにがあろうとお応え致しかねるのです」申し訳ありません――洋介は一変して、真摯な眼差しで言った。
こうも生真面目に頭を下げられては、榎本も折れるしかない。
「そうか、そうだな。俺も職業上、守秘義務は染み付いているよ」
「理解頂けてよかった――。榎本さんは確か元警察官、でしたよね。探偵も守秘を求められる業種ですし、僕の職業倫理もきっとおわかり頂けると思っていました」
洋介は初めに勝ち誇ったような笑みを浮かべ、それから吹っ切れたような実に穏やかな表情に落ち着いた。
言葉が巧いな――榎本が毒づけば「僕はジャーナリストです。記者と言うものは、言葉と情報を操る業種ですので」当然ですよ――と、臆面もなく洋介は目を細めた。
「確かにそうだな。やつらは言葉が巧みだ。気を引き締めていないと俺の立場が危うくなる」
洋介は可笑しそうに笑い、気を付けてくださいね――と、さも愉快に言って、ふっと蝋燭の火が消えるように笑みを消し、神妙な顔付きになった。そして、話を戻しますと静かに口を開く。
「あの日僕は、諏訪くんに会い話をしました。内容は本当になに気ないものです」
榎本は固唾を飲んで洋介の続く言葉を待つ。
「火事の現場から立ち去る彼の後を、こっそり追いました。幾ばくもなく僕の尾行はバレた――と言うより端から気付かれていたようです。なんの用だと聞かれ、男性の呼び掛けを無視して立ち去ったことが気になったから、と答えました。男性とは榎本さん、あなたのことですね。本日お会いして確信しました。
諏訪くんは、自身は探偵で先の男は上司である、唇紅の殺人鬼を追っている、訳あって単独行動をとっている、理由は言えないが上司やその他との接触を絶っている――、と教えてくれました。もちろん、僕がジャーナリストであることは明かし、唇紅の殺人鬼を追っていることも話しています。
たったこれだけの情報を得るのに酷く疲弊しましたよ。彼、僕の何倍も言葉が巧くて、それに秘密主義だ」
洋介は一旦話を止め困ったように愛想笑い、彼に尋ねたんです――榎本が口を開くより早く、そう言って話を再開した。
「唇紅の殺人鬼を追って身を隠すのなら、――江神消子にたどり着いたのじゃないか、と」
正治はなんと――榎本が続きを促す。
「なにも――。なにも答えてくれませんでした。ただ一言、この件から身を引くことをお薦めするよ――と、忠告を受けただけです」
洋介の話が本当なら正治は江神消子を知っているのだろう。江神の情報を得たために逃げているのではないか、と推測できた。
吉浦一家の件が事実であるなら、身を引けと言ったことにも頷ける。江神を追えば身を危険に晒す、と遠巻きに伝えているようだ。
正治はかなり危険な位置にいるはずだ。なにも言わず姿をくらましているのはそのためか。
なにを見て、どんな情報を得たのか、危険があっても自身にくらい事情を伝えてくれてよくはないか。巻き込みたくないと思ったのだろうか、ならばなぜ洋介には話した。脳内でさまざまな自問自答が繰り広げられ、どれだけ思考の海をさ迷っても、正治の考えをわかりっこなかった。
「さあ、榎本さん。僕が開示する情報はざっとこの程度ですが、警察もあなたも手に入れていない情報でしょ」
洋介は言って、どうです――と、やはり不適に笑った。
「確かに、こんな情報は手に入れていない。これが本当に信用できるものなら、だがな」
「全く嫌な言い方をなさる。僕の情報を作り話だとでも思ってらっしゃいます?」
「ガセの可能性は大いにあるってことだよ。第一俺は、お前を信用などしていない」
「つまらない意地を張るのはお止めになってはいかがです。僕の情報をガセと思うならそれで結構ですが、ジャーナリストの情報収集能力を甘くみないで頂きたい」
初対面の癖にやけに噛みついてくる。所有する情報の優位性を節々に滲ませ、強気な態度を崩さない。こちらに怒りを彷彿とさせるよう、誘導されている気分だった。
「それに僕の話を信じなければ、あなたは諏訪くんの危急に駆けつけることができない」
洋介の冷静さを削り取ってくる巧みな言葉に、榎本は翻弄され始めていた。
「大切な弟子なんでしょう? 僕はあなたに好意的だし協力的だ。情報の収集能力だって、警察に劣っていない。むしろ、現段階では勝っているでしょう」
こめかみがひくつく。洋介の口振りから、情報共有など端から嘘だったに違いない。警察が入手した情報など、全て把握した上での言葉だ。
なにが望みだ――ひきつった左のこめかみを押さえ、榎本は尋ねる。発した声の低さに自身も驚いた。
僕は――冷血な笑みだ。
「あなたの見ている幻覚について知りたい――」
カッと榎本の視界が赤く染まった。
冷蔵庫の低く唸るようなモーター音が耳につく。事務所の窓から、傾いた日差しが差し込んでいた。茜色の空が目に痛い。
榎本はゆっくりとソファから腰を上げた。長時間座っていたために、ソファのクッションが尻の形に窪んでいる。テーブルには湯呑みが二つ。とうに冷めて変色した、飲みかけの緑茶が入っていた。
湯呑みを手に取り、シンクに運ぶ。シンクには湯呑みだけでなく、皿やコップなどさまざまな汚れた食器がかさばっていた。
暗鬱な気持ちでスポンジをてにし、洗い物を片付ける。惜し気もなく垂らした洗剤で、溢れんばかりの泡をまとった食器が積み重なる。泡に隠れた手元をぼうっと見つめ、黙々と手を動かした。
ふわふわと揺れる白い泡。どの食器を掴んでもつるつると滑る。落としてしまわないよう指先に力を込めた。
自傷的な後悔が胸中にじわじわと広がってくる。一つ深い呼吸をし、先の出来事を思い返した。
幻覚について知りたい――この言葉を聞いた瞬間、頭に血が登り更には我を忘れ、気づいた時には洋介を事務所から叩き出していた。
確かに聞かれたくはなく、不愉快には思う。だからと言って激昂するほどではない。理由はわからないが事実、榎本は洋介を追い返していた。
彼岸の悪魔は今も尚あなたを蝕んでいる――と、去り際に吐かれた台詞こそが、今の榎本の思考を蝕んでいくようだ。
自身がどんな言葉を吐いたか定かでないし、どんな言葉を交わしたかも記憶にない。覚えているのは、事務所を去っていく洋介の後ろ姿。紺色のチェスターコートを着た後ろ姿だけを、鮮明に記憶していた。
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