――唇紅―― 8 這い寄る彼岸



 榎本と正治は、山荘を明日にはチェックアウトし、一旦事務所へ戻ることを決めた。

 現地に留まり捜査を続けたい気持ちはやまやまだったが、これ以上本業を疎かにするわけにもいかず、八木婦人からの依頼を片付ける必要があった。


 昨夜の件から、子供でもターゲットになりうると判明し、早急に犯人逮捕に至りたいところではある。儀式を中断させられ、またしても死人がでたことで、地元民は酷く疲弊しているらしく、それも気がかりではあるが致し方ない。警察の働きに期待し、現時点では任せる他なかった。


「帰り支度はどうだ。明日には帰るからな」


「ええ、問題ありませんよ。大したものは持ってきていませんので」


 正治は淹れたてのコーヒーを榎本に差し出し、読み掛けの本を開いた。規則的にページをめくる心地よい音に聞き入る。

 ほどなく書籍を読み終えたらしい。正治は本を閉じ、表紙の上下を返してパラパラとページを流した。珍妙な行為だ。彼は手にする書籍を読了する度に、ああやって決まり事のように奇妙な動作をする。これまで幾度も、その行為がなんなのかを尋ねようとした。だが、紙風に揺れる前髪と、焦点の合わない伏せられた目元が妙に艶っぽく、どうしても魅入ってしまう。その余韻を断ち切ってしまうのが、なんだかもったいないく感じていた。


「読了後のそれ、いつもやってるがなんの意味があるんだ」不思議な行動だな――と、意を決して尋ねてみる。榎本は飲み終えたカップを、テーブルにそっと置いた。


「別段意味はありませんよ。いわゆる癖、でしょうか。特有の微かな風が心地よいと言いますか、なにかが見えてくるような気がすると言いますか」


 なにが見える――榎本の問いに、正治はううんと一つ唸って苦笑混じりに口を開いた。


「奇数ページですね」

 そう言って、相変わらず逆さまのままページを流す。左手に本の背を持ち右手で頭から終わりにかけ、一枚の狂いもなく紙を泳がした。


「やはり、これと言って理由はありません。本当に」ただの癖です――正治は本をテーブルに置き、替わりに自分用に淹れたコーヒーを手にする。冷めたそれを一口飲んで、チラリと時計を確認して口を開いた。


「もうじき、楠木さんが昨夜の報告にいらっしゃるはずです。九時に、と」連絡がありました――告げた正治の声は、昨晩から変わらず無機質なものだった。


 四度扉がノックされた。正治が扉を開く。姿を現した楠木麻里が深く一礼した。


「おはようございます。昨夜の縊死体のことでご報告に上がりました」


 正治が「お待ちしていました。中へどうぞ」と彼女を招き入れ扉を閉める。


 よろしく頼む――榎本の言葉にはいと返事し、麻里は報告書を読み上げた。

 被害者の少年の名は柿添庄司、まだ九歳なのだそうだ。死亡推定時刻は二十時、丁度儀式が始まった頃だった。庄司くんは両親と祖父と共に儀式に来ており、帰宅要請を受けた際に彼がいないことに両親が気付き、昨夜の騒動となったそうだ。両親の話では、これといって不審な点はないらしい。


 最大の謎は、大勢の目の前で起こった事件であるのに、目撃者は一人もいないことと、第一発見者の警官が聞いた声、だと麻里は言う。

 声、とはなんだ――榎本が問えば、はいと言って麻里は詳細を説明し始めた。


「第一発見者は新人の男性警官でした。その声と言うのが、社の中を見てごらん――と若い男の声だったそうで、耳元で聞くような囁き声だと言うんです。声を聞いた時点で周囲を確認したそうですが、声の主は見当たらず、不審な人物も見なかったと言っています。彼は空耳かと考えたそうですが、一応裏手から社の中を確認したそうです。ちなみに社の四方には、木枠の細長い窓が付いています。差し込んだお焚き上げの灯りで首を吊った人影が見え――、遺体の発見に至りました」


「あれだけ警官を配備しておいて、なんて様だ。そんなだからサバ県警と言われたりするんだ。なにか手がかりになりそうなものの一つくらい、見つかっていないのか」


「耳も胸も痛いです。総力を上げて捜査していますが、これと言ってまだなにも」


 そうか――榎本は考え込むように俯き、顎に左手の指を添えた。なんの痕跡を残さない辺り、反抗は唇紅の殺人鬼によるものと思えなくもないが、やはり遺体の状態が気になる。正治は突発的な犯行だとも言っていたが、榎本には別に犯人がいるような気がしてならなかった。

 それからもう二つ――と麻里の透き通った声に、榎本は顔を上げ彼女を見た。


「まず一つ。古野幸恵さんの遺体についてです。他の被害者と同じ状態で発見されましたが、創傷が歪なのだそうです。失敗でもしたようだと汐見さんが言っていました。次に、黒鏡の廃屋側で身元不明の白骨死体が発見されました。十数年は経過しているようですし古い集落ですので、土葬でもやってたんだろうとも言われていますが」一応ご報告しておこうかと――麻里の報告に、ふうんと榎本は興味なく相槌を打ち「埋まっていたのか」と、一応尋ねてみる。


「はい。私も詳しくは存じませんが、地表に半分ほど出てきていたそうです。それから、その白骨体は両腕が欠損している、と聞いています」


 両腕のない白骨体ねえ――榎本は再び考え込んだ。関係があるとは思えないが、無関係だと切り捨てる気にはならなかった。


「報告は以上です。まだ捜査が始まったばかりでこれ以上はわかっていません。詳しくはまた後日に」


 麻里は榎本に一礼した。


「うん、ご苦労様」


 榎本がそう挨拶するれば、彼女はくるりと正治の方へ向き、真剣だった表情を恋する乙女の笑顔に変えた。

 おやおや――榎本は若者の恋路を目の当たりにし、せっかくなので見守ることにした。


「あの、正治さん。いつお戻りになるんですか」


 麻里は頬を赤く染め、媚びた口調で上目遣いに言った。


「僕たちは明日チェックアウトします。いい加減、宿泊代がかさみますので」


「そっか、一週間になりますもんね。皆良田警部から、随時お二人には調査報告をするように言い遣っていますので、捜査の方はご心配なく」


 榎本はソファにだらしなく座り、一週間も経つのか――時間の経過が麻痺してしまい、現在何泊目なのか、今日は何日の何曜日なのか、いまいち把握できていなかった。


「それで――ねえ、正治さん。明日の夜、家にきませんか。この間話していたミートパイご馳走しますから」


 麻里は未成熟ながらも、精一杯の色気を振り撒き、正治を誘惑にかけようと上目遣いに見つめている。


「それは――、大変魅力的なお誘いではありますが、あいにく先約がありまして。今回は申し訳ありません」と、正治は眼を伏せた。


 紳士な対応とはこの事か――なるほどと手を打ちたくなる。正治の応答は淡々としているが、なんとも気品溢れるもので、榎本はほうと感心した。


「そ、そうですか。では、また日を改めて誘いますね」


「ええ、そうしてください」


 そう正治に笑顔を返され、新米刑事楠木麻里は苦い笑みを残し、パタパタと慌ただしく部屋を後にした。

 正治の整った口から、疲労を含む小さなため息が吐き出され、すうっと部屋の空気に溶け込む。


「ほおう、色っぽいため息だな。なんやかんや言って、彼女と仲良くやっているじゃないか。それと、先約ってのが気になるな」


「もう、からかわないでください。明日は妻と食事に行くと約束しているんです」茶化す前に姿勢を正してください――正治はわざとらしく不機嫌な風を装い、榎本の座り方を注意した。

 はいはい、と大人しく従い榎本は姿勢よく座り直す。


「美人な嫁さんとディナーか、羨ましい。それにしても彼女、お前にご心酔だな」可愛いじゃないか――榎本がからかえば「冗談じゃない。僕は好みません」と返された困った笑みに、一瞬――牙を剥く威嚇の色が垣間見えた。

 あまりの威圧感に榎本は怯みかけたが「まあ、そう辛辣な物言いをするな。彼女はお前に気があるんだ。温かい目で見てやれよ」と、取り繕うように言う。


「彼女が勝手に抱いた好意でしょう。高い声で纏わり付いてきて、正直面倒だし」気味が悪い――正治には珍しく下品な物言いだった。僕ばかり冗談じゃないと言う風に、正治は鋭い目で榎本を睨んだ。榎本は苦笑いを浮かべて降参と両手を上げる。


「綴喜さんがそのおつもりなら僕も問いましょう。あなたは、結婚なさらないんですか」


 俺は――瞳が一周空を舞い「しないよ」榎本は頼りなく答えた。


「理由を伺っても?」


 間髪いれずに問われ「収入も不安定で、いつ死ぬやもしれん危険な職業だからな」と当たり障りない返答をする。


「また、つまらない嘘を――」


 声の冷たさにゾッと肝が冷えた。まるで感情が読み取れない。聞きようによっては忌々しげにも感じ、恨めしそうにも感じる。どちらにしろいい感情ではなさそうだ。榎本の警戒心が、じわりと胸の内に広がった。

――下手に会話を途切れさせて不審を抱かせてはならない気がして、なにが嘘だよ――と努めて明るく、呆れを交え言葉を紡いだ。


「何年一緒にいると思ってるんです。あなたがそんな理由で人生をどうこう語る人だとは思えませんよ。デリケートな話ですが、彼女と婚約の手前までいっていたのでしょ。別れた理由はきっと彼女も理解していませんよ」


 なんでそのことを知っている――語気を強めて問えば「周知の事実です」と、綿毛のように柔らかい返答が降った。ころころと目まぐるしく変わる表情。次いで変わる空気。まるで感情が読み取れない。


「やめといた方がいい、易々と話せるもんじゃあないからな」


「好きな人がいるんじゃないですか。綴喜さんたら、たまあに」と正治は自身の右目を指し、そう言う目をしていますよ――甘ったらしく言った。


 その仕草に苛立ちが込み上げ「いったいどんな目だよ」投げ捨てるように言う。


「愁うような、でしょうか。いるのでしょ? 好きな人」


 そう威圧的に瞳を細められ、榎本は一つため息を溢す。


「いる――いるにはいるんだが」


 観念したとばかりに答えれば「どんな女性なんです?」逃がしはしないと問い詰められる。


「やめてくれ。易々とは話せんよ」


「いいじゃあ、ありませんか。僕は守秘義務を貫きますよ」


 やはり逃がす気はないらしく、正治は言葉で榎本に詰め寄ってくる。


「そういうんではないんだよ」


 曖昧に吐き出せば「では男性?」間髪容れず返される。榎本も負けじと「それも違う」素早く否定の言葉を返した。


「まさかあなた、猫や犬みたいな獣だなんて言いませんよね」


「飛躍しすぎだ」


 言葉を選ぶ間さえ与えない応酬に、榎本は頭を抱えた。額に添えた右手先が酷く冷たい。


「僕には、言えるでしょう」


 しっとりと正治は言った。榎本はそっと顔を上げ、正治の顔を仰ぎ見る。深淵の瞳に吸い込まれそうになる。全てが見透かされ、晒されるような感覚に陥った。


「聞いたら絶対に軽蔑するよ」


 言って、慌てて口をつぐむ。全てを晒してしまえば楽になれるかもしれない――なんて、甘い幻想が胸に広がった。


「僕がですか? しませんよ。綴喜さんに変な性癖があるくらい許容範囲です」


「変な性癖だとは失敬だな」


 喉元まで出かかった救いを飲み込み、淡々と応対する。胸中では、終われ、終われ、終われと願って止まない。


「単純な推量じゃあありませんか、嫌だなあ」


 どんな性癖だと思ってんだ――呆れた風に言えば、胸の内を引っ掻かくような含み笑いを返される。


「女性でも男性でもなく、動物でもない。単純に幼い子が好きなのかと思いました。そういった性癖は珍しくもないでしょ」


 妖にして艶、否、婀娜に眼を細められ、やはり焦燥感が沸き起こる。苛立ち、不安、恐怖、様々な感情がない交ぜになり脈が空打ち、鼓動が速まる。


「お前、俺がロリコンだって言いてえのか」


 はっきり否定もできずに、そう投げ掛ける。


「そう言っています」


 清々しく断言された。


 あのなあ――続く言葉も見当たらず、榎本が額に手を当て呻けば「どうやら当たりのようですね。潔く白状なさってはいかがです。必要ならば僕が更正して差し上げますよ」と、艶々と潤った甘く澄みきった声音で返された。


 こいつはいったい、なにを探っているんだ――懐疑的な眼で正治を見る。


 なにを知っている。不味いことを口走ったか。いつ。あの時。曖昧な意識。なにを、まさか、どこまで――。榎本の脳内を不安が駆け巡る。思考をかき混ぜ、ぐちゃぐちゃに貶めて行く。わずかに捕まえた理性が、晒すな、暴かせるなと煩くわめいた。正治に悟られないよう静かに深呼吸し、ざわついた脳内を落ち着かせる。


「ううん、実をいうと自分でもよくわかっとらんのだよ」


 どうにか真実を口走らないよう、脳内で騒ぎ立てるもう一人の口をつぐむ。


「ほう、単純な子ども好きなのか、性的な感情があるかわからないと言うことですね」


 細められた正治の目が不気味だ。全てを見透かし、嘲笑うような瞳に恐怖を覚えた。


「いや、うん。やっぱり」この話はやめよう――言って榎本は腰を浮かす。終わりたい、離れたい、彼から逃げたい。


 逃げないでください――読まれたように降った台詞は、低く冷たい声音だった。聞き覚えのあるような、なにか引っ掛かる声。正治の顔を見ることができなかった。恐い。金縛りにあったように、少し腰を浮かせ屈んだ辛い姿勢から、全く身動きできなかった。


「恐がらないで。綴喜さん、あなたにはなにが見えていたのです」


 これ以上、聞きたくない――逃げ惑う悲鳴は声にはならず、唇だけが虚しく震える。


「お答えください。どんな幻覚を見たのですか」


 冷徹な声。容赦ない追撃。

 晒されたくない――胸中で叫ぶ。脈が空打ち呼吸が止まる。正治はなにを暴くつもりだ。全く彼の目的がわからない。


「眠る記憶は呼び起こされたのでしょう?」


 情けを排除しているくせに、妙に甘い声音が気味悪い。

 暴かれたくない――絶望的な恐怖が雪崩れ込み、脳裏が曇る。


「ねえ、綴喜さん」


 嫌な声音だ。指先のささくれをぴりと引かれ、赤い肉が露になるような痛みと不快感。もう限界だ。


「やめてくれ」

 ようやく絞り出した声は、か弱く無様にかすれていた。


「いけませんよ。僕の向こうに、いったいあなたには誰を見ているのです」


 透けて見える、重なって見える。血濡れの子供。彼岸の悪魔――。


 正治が恐い。尋問されているように彼の威圧に締め付けられる。苦しい。目が回る。景色が歪む。目の前が赤く染まる。赤に緋に、真っ赤に、赤に――。呼吸が乱れ、視界がぼやけ歪む。脳内でフラッシュが焚かれたように、断片的な映像が写し出された。


 小さな手。飛び散る鮮血。甘い馨り。肉の感触。口腔に広がる、妖美な味。


「もう十分でしょう? 教えてください。一人で抱え込まないで――」


 真っ赤に濡れた唇が、弧を――

 全てを掻き消すように、パッと脳裏に閃光が走った。


「やめろと言っているだろ――!」


 自身の荒げた声に驚き、思わずはっとした。ドクドクと鼓動が速まる。首が絞まる感覚に意識が遠退きそうになった。


「怒らせるつもりはなかったんです。ただ、あなたが苦しんでいるようだったから」


「悪いが、放っておいてくれ――」

 心底疲れたと榎本は大きく吐き出した。


 しばらくの沈黙の後、正治は無言で席を立ち「あなたの幻覚はますます強くなる。必ず強くなりますよ」必ずね――そう、凄味の効いた声で言い放ち、乱暴に扉を開閉し部屋を出た。


 去り際に吐き捨てられた言葉が、いつまでも榎本の脳内を徘徊し、徐々に蝕んでいった。

 彼が、最後にどんな表情をしていたのか、榎本にはわからない。


 これを最後に、諏訪正治は失踪した――。




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