第6話:何気ない変化
月曜日の朝。アラームが鳴る前に目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む光は少し眩しくて、目元に手をかざす。週の始まり。特別何かあるわけじゃないけれど、学校に行くというだけで、少しだけ気が引き締まる。
朝食は昨日の買い物で補充した卵を使って、目玉焼きとトースト。それにミルク。ゆっくりと口に運びながら、机の上に置いてあるスマートフォンに目をやった。
ツブヤイターの通知は、やはり静かなままだった。
それでも、昨日の投稿が自分の中ではしっかりと「やった」と思えるものになっていたから、満足感はあった。
支度を済ませて、制服に袖を通す。スカートの丈、シャツの襟、髪のまとめ方――まだ少し慣れないけれど、鏡に映った綾は、確かに高校に通う女子生徒に見えた。
通学路を歩く足取りは、無駄のないペース。イヤホンから流れるのは、静かなピアノのインストゥルメンタル。人の声がないほうが、朝の空気には馴染む。
学校に到着すると、靴箱でローファーに履き替え、そのまま教室へ向かった。
席に着いてノートを取り出す。朝のホームルームまでには少し時間がある。教室内は、すでに何人かの生徒たちが集まりはじめていて、あちこちでおしゃべりの声が飛んでいた。
「綾ー、おはよ!」
明るい声とともに奈帆が近づいてくる。
「おはよう」
俺は、静かにそう返した。
奈帆は綾の席の隣に腰かけるようにして、こちらを覗き込む。
「なんかさ、今日ちょっと涼しくない?」
「うん。朝、風が冷たかった」
「だよねー。私もうちょい厚着すればよかったかも。綾はさ、そういうとこ抜かりないよね」
俺は少しだけ笑って、首をすくめた。
「そうでもないよ。ただ、天気予報見ただけ」
「いや、それがえらいの。私は朝ギリギリすぎて、天気とか見る余裕ないもん」
奈帆は笑いながら椅子を揺らした。ほんの些細な会話。でも、奈帆がこうやって話しかけてくれるだけで、どこかこの生活に馴染めていると実感できる。
「そういえばさ、昨日はどっか出かけた?」
「買い物。スーパーと……服も少し」
「服? うわー、それ見せてよ! 私とも今度服買いに行こうよ!」
「……え?」
「冗談だって! でも綾、服選ぶのうまいと思うよ。なんか、落ち着いてて綾らしいって感じするし」
俺は何も言えず、ただ小さく頷いた。奈帆は何も知らない。でも、その知らなさが、ありがたくもあり、少しだけ苦しくもあった。
やがてチャイムが鳴り、朝のホームルームが始まる。
俺はペンを手に取り、何も特別ではない月曜日の始まりに、またひとつ静かにページをめくった。
* * *
午後の最後のチャイムが鳴ったとき、教室の窓の外には、少しだけ赤みを帯びた光が差し込んでいた。
ノートと筆記用具を机にしまい、静かに立ち上がる。周囲では、友人同士で集まって話す声や、廊下に飛び出す足音が響いていた。
「おつかれー!」
どこからともなく聞こえるその声も、少しずつ背景のノイズのように聞き流せるようになってきた。
「綾ー」
バッグを肩に引っかけて、いつも通りの明るい表情の奈帆が話しかけてきた。
「じゃ、私部活行ってくるね。綾は今日、寄り道とかするの?」
「ううん。まっすぐ帰る」
俺はそう返す。声のトーンは淡々としていたけれど、それが奈帆にとってはいつも通りだったようで、彼女は満足そうにうなずいた。
「そっか、えらいな〜。じゃ、また明日ね!」
「うん。また明日」
奈帆が手を振って廊下に消えていくのを見送ってから、俺もゆっくりと席を立ち、教室を後にした。
教室を出るとき、ふと振り返って自分の席を見る。
あそこに座っている綾は、どこから見ても普通の女子高生に見えるだろう。けれど、制服の内側で俺はまだ確かにここにいて、その感覚が消えることはない。
校門を出ると、通学路には夕方の静けさが広がっていた。制服姿の生徒たちが前を歩いていて、みんなが当たり前のようにこの日常を過ごしている。
俺も、その中に混ざっている――少し前まで想像もしなかった姿で。
家までは歩いて十五分ほど。途中のスーパーに寄る必要もなく、まっすぐ帰れるのはどこか気が楽だった。
部屋に戻ると、俺はいつものように「ただいま」と小さく呟いた。手を洗い、制服を脱いで、部屋着に着替える。クローゼットに新しくかけてあるシャツワンピースに視線が行き、一瞬だけ手が止まった。
(あれを着て、どこかに着て行ってみたいな)
そんなことを思えるようになったのも、たぶん奈帆のおかげだ。
冷蔵庫を開けて、夕飯の食材を探す。買っておいたほうれん草と豚こま、それにしめじを使って、味噌炒めにしよう。ごはんは朝炊いたものがまだ残っている。
静かな台所に、包丁の音がまた戻ってくる。
誰かに見せるためではなく、ただ、自分のために。
それが、俺の、そして綾の、一日の終わりの風景だった。
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