微睡 夢限書庫の逢瀬

 ふっと深山みやまあおいは瞼を持ち上げた。長い睫毛が揺れる。

 

 今、葵はソファに座っている。

 ビロードのように滑らかでふわりとした肌触りの座面は、これまで一度も座ったことがないけれど、もう慣れた感触だった。

 手を置いている手すりは木製だ。葵が手を伸ばしたときにちょうどいい位置で床に向かって曲線を描いており、丁寧にヤスリとニスがかけられていると思わせるツルリとしつつ握りやすい。


 顔を上げれば葵の背丈と同じくらいの書棚が作られた壁が目に入る。壁は葵の座っているソファを囲むように左から右へ円形に配置されている。けれど完全に葵を囲んでいるわけではなく、葵のちょうど右斜め後ろあたりで書棚の下段が扉になっている。更に右に進めば、葵の左斜め後ろ辺りで壁が途切れていた。

 窓が無く、ところどころに灯された洋燈が照らしている以外に光はない。部屋全体は仄暗いのに不思議と全てがはっきりと見えた。ただ、壁が途切れた先は靄のような、隙間を埋めるための書き割りのような、とにかくぼんやりとしていて上手く見ることが出来ない。


 ――またここに来れた、か……

 

 ひとしきり辺りを見回した後で葵は「うーん」と伸びをする。その手足は1年前に神響の衛士となった頃よりもずっと長くなり、幼かった顔付きも随分と大人びて青年に近付きつつある。


「――日向ひゅうが?」


 伸びを終えた葵はそのまま視線だけを動かして左隣へ声をかけた。

 葵が座っているソファは、密談椅子と呼ばれる、ふたつの椅子の背もたれがS字型に互い違いとなって繋がっているものだ。今、もう一方には、葵と似た髪色と服の少女が居る。日向と呼ばれた彼女は今、ソファの上で体育座りをして顔を膝に埋めていた。返事は無い。


「日向」


 もう一度。

 今度は――相手のソファに身を乗り出すように――体ごと向き直ってしっかりと声をかける。

 けれど少女はなお黙り込んだままだ。


 ――困ったな。せっかく久しぶりに夢で逢えたっていうのに。


 やれやれ、と葵はこめかみを掻く。


 葵と日向が今居る場所は、ふたりが同時に見ている夢の世界だ。

 日向が間借りする形で体を共有するふたりは、現実では直接会話出来ず、この書庫の夢でのみ顔を合わせることが出来た。

 それでも必ずしもふたり同時に同じ夢を見ると限らず、毎日見ることもあれば1ヶ月近く間が開くこともある。

 特に今回は最長記録を更新している上に、日向が体の主導権を握ることも少なくなってきており、葵が心配していたところだった。

 周囲から彼女何か悩んでいる様子だと聞いても、夢でなければ話を聞くことも出来ない。


 ――こうして逢えるだけでも奇跡なんだってことは、わかっているんだけど……

 

 もどかしさに頭を悩ませながら、葵は初めて夢を見たときのことを思い返す。


 ***


 神響の衛士となって、衛守府えもりふに運ばれた日の夜のこと。

 気付けば葵は書庫の密談椅子に座っていた。

 知っているようで知らない、どこか既視感を感じる不思議な場所を、葵はただぼんやりと眺めていた。

 ふと気配を感じて隣を見ると、互い違いになった椅子に並んで座る、自分と瓜二つの少女と目が合った。瞬間、彼女は笑って葵に手を振る。


「よう! 昼間ぶりじゃのう!」


 少女の明るい声が、徐々に葵の意識を、記憶をはっきりと呼び覚ます。

 目の前の少女が葵の生まれてこれなかった双子のきょうだいであること、怪物に襲われて死にかけたこと、鳳凰と出逢ったこと、彼女に「日向」と名付けたこと、息を吹き返した体で共に怪物と戦ったこと――たった1日で葵を取り巻く何もかもが変わったことを、全て。

「うん、久しぶり」

 たった数時間前の出来事なのに、眠ったことで実感が遠くなったせいか、或いは戦いの後から日向がずっと居なかったせいか、なんだか遠い昔の出来事か幻だったような気がして、葵は感慨深げに挨拶を返した。

 無邪気な日向を見ていると、きょうだいは間違いなく目の前に居るのだと実感が湧いてくる。


「……ん?」


 それから、ようやく葵は気が付いた。

 確かに日向の魂はこの世に存在しているが、肉体は葵の体の一部となってしまっている。衛士として戦っ神の力を借りているときでさえ、どちらか一方はひよこ姿で、ふたりが人間として肩を並べることは出来なかった。

 ――じゃあ、なんで今僕は彼女と顔を合わせているのだろう。

 首を傾げ始めた葵に、日向はまあまあと先を制する。

「ここはな、夢じゃ」

「夢……」

「うむ。夢は彼岸に近いとか実は全ての人間の夢が繋がってるじゃとか色々言われておるが、今妾たちが居るここ・・は少なくとも葵の脳みそが作り出した空間じゃ」

「なるほど……」

 日向の言葉を反復し、改めて周りを見る。言われてみれば確かに、周囲を取り巻く景色はこれまで葵が訪れた図書館や喫茶店、博物館など、葵の記憶にあるものを混ぜ合わせて模倣したようにも見えた。

「だからなんだか見覚えがあったんだ」

 納得する葵に日向がうんうんと頷く。

「夢じゃからほら、あの辺りなど上手く思い描けなくてなんかぼんやりしてるじゃろ?」

 と、日向が指し示した方に書棚は無く、かといって何か他の物があるわけでもなく、漠然と何かがあるような気配だけが漂っていた。

「あそこも妾達次第では、いずれなんか出来るかもしれんがのぅ」

 いつになることやら、と日向はクスクスと楽しそうに笑う。つられて葵もふふと笑った。

「いいね。ふたりだけの秘密基地って感じ」

「じゃろ? 葵ならそう言うと思った!」

 ずっと昔からそうしていたように、しばらく揃って笑い合った後、それで、と改めて葵が日向に問いかける。

「怪物と戦った後、目を覚ましたら日向の姿がどこにもなかったけど、どうして?」

 気配は感じていたし、声も聞こえたような気もする。けれど結局、眠る前に日向が葵の前に顕れることはなかった。

 ふむ、と日向は少し不満げに口を尖らせながら答えた。

「どうもな、"神降ろし"中じゃないとふたり揃って表に出ることは出来ないみたいなんじゃ」

「神降ろし……鳳凰の力を借りて衛士として戦う、あの特撮ヒーローの変身みたいな状態のことだよね?」

 五色の派手な装いに翼を持ったときのことを思い出す。確かにあの時は明確に鳳凰の力が流れ込んできて、通常ではあり得ない動きが出来た。

「うむ。戦いの最中、片方は基本的にひよこみたいな姿だったじゃろ? なんか気とか霊力とかそういうのの塊みたいな感じの。あれを作り出すのも鳳凰の力の一部なんじゃ」

「途中すごいふわふわしてたけど、そうなんだ」

「細かいことはツッコまんでよい! 重要なのは今の妾たちでは神降ろし無しに鳳凰の力を使えない、ということじゃ」

「今の?」

「そ、今の。契約の副作用で普段から意図せず神の力がはみ出ている衛士が居るってさっき聞いたじゃろ? 同時に、衛士としての経験を重ねるほど周囲に影響が及ばない程度にコントロールできるようになったとも。なら妾たちも鍛え続けれてれば、もしかしたら神降ろし無しでもほんのちょーっとだけ力を引き出して、ひよこを常に出せるようになるかもしれん」

 あくまで可能性じゃが、と日向は念を押した。葵はふーんと小さく呟き、


「じゃあ、鍛えるしかないね」


 と困り眉で笑いつつ、さらりと言った。

 日向が「かーっ」と叫んで天を仰ぐ。

「まーた葵は簡単に言いよる」日向は半目でビシッと人差し指を向けた。「あのな、人ならざるものの力を任意で引き出して使うのってめーーーっちゃくちゃ色んなモノを使うんじゃぞ? 気力とか体力とか精神力とか霊力とか! 神降ろし中は向こうが協力してるから比較的扱いやすいってだけで普通は出来なくて当然! 研究家どもも言っとったじゃろ? 神響の衛士であっても一歩間違えれば力に呑まれ暴走すると! 大体ただの神降ろしでさえめちゃくちゃ疲れたのに日常的に力を使おうとか、神降ろし中に月に向かってバッサバッサ飛んでいく方がまだ現実的じゃ!」

 プンプンと説教する日向に、葵はしばらく目をパチクリさせた後こう言った。


「心配してくれてありがとう」

「っだーーーーーーー!」


 頭を両手を押さえて日向はずっこけるように叫んだ。

「今そこ!?」

「え、違うの?」

「いやそうだけど! そうだけど! 絶対次に言うことはこうじゃろ!? 『でも僕は可能性がある限りやってみるよ』とかそんなん!」

「わあ、よくわかったね」

「伊達に生まれる前から引っ付いとらんわバカ! バカ葵!」

「いたたた」

 ポカポカと殴りつける日向に辟易しつつ、でも、と葵は続ける。

「やっと逢えたのに、神降ろし中しか喋れないのってやっぱり寂しいよ」

「ぐぬ……! それは、妾だってそうじゃけど……!」

 心底哀しそうに言う葵にそれ以上何も言えず、日向は悔しそうに身を震わせ、溜め息をついた。

「葵は妙なところで思い切りが良すぎるんじゃ……いつか事故って身を滅ぼしても妾は知らんからな……」

「あはは、覚えておくよ」

 苦笑しつつも否定しない葵に、日向はますますむすっと頬を膨らませる。

「大体、表に出とらんだけで妾は葵の体を通して全部ぜーんぶ一緒に世界を経験し知っておるわい。その気になれば体の主導権を奪うことだって出来るもん」

「え」

「今は意識がハッキリ形になったからの。実を言えば葵の脳みそもちょっと使っておる」

「そうなんだ?」

「うむ、あくまでほんのちょこっとだけなんじゃが……」

 例えば、と日向は書棚に目を向ける。棚に並ぶ本は厚さこそマチマチであるものの、どれも同じ背表紙だった。

「あれらは皆、葵の脳みそが記録した葵の記憶じゃ。開いてみればわかるが、葵がこれまで何を経験し、どう考えたのか全て書いてある」

 言われて、葵は立ち上がると目に付いた一冊を手に取る。パラパラとページをめくると、確かに葵がこれまで経験したことが全て――葵が覚えていないことも含めて記載されていた。

「うわ、本当だ。保育園に入りたての頃とか書いてある。殆ど覚えてないのに、見たら確かにそんなこともあったなあって気持ちになるよ」

 不思議な感じ、と物珍しそうにページをめくっていた葵の顔が、ふと怪訝そうな表情に変わる。ゆっくりと文字を追い、疑念が確信になった。

「……これ、日向の記憶は書いてないんだ」

 ポツリと呟いた言葉に、日向は至極当然といった調子で返す。

「そりゃ今日の今日までハッキリと存在してなかったからの。けど」

 日向もぴょんと立ち上がって、とことこと書棚に歩み寄る。手を伸ばし、一番端の本の、更に隣から1枚の紙を取り出した。二つ折りで簡素なそれは、葵が持っている本とは全く色が違う。

「これが妾の記憶じゃ!」

 頼りない紙を堂々と葵の前に掲げ、日向は続ける。

「確かにこれまでの記憶は無い。じゃが今は違う! 葵の脳みそは妾の記憶も本にし始めた! 二人分を記録するから葵の体には負荷をかけてしまうが、その分たっくさん見て、知って、経験して! この本棚を妾の分厚い本で埋め尽くしてやるわ!」

 ふはははは、と笑う日向に、しばらくポカンとした後、葵は吹き出した。

「うん、たくさん思い出を作ろう! 僕も負けないよ!」

「って、自分の脳みそが他人きょうだいに使われてることはスルーかい! ……ま、今更か。そういう妙にシスコ……前向きなところが葵らしいとこでもあるんじゃしな!」

「はは、そう言ってくれると嬉しいよ」

 ふたりの笑い声が書庫に響く。

 心なしか、葵が目を開いたときよりも明るくなった気がした。

 

「あ、そうじゃ。妾は葵が経験したことは知っておるが、葵が何をどう考えたかまではわからん」

「そうなんだ? 確かに僕も『日向ならこう考えるだろう』って予想はしても本当に合っているかはわからない。けど、それは僕側だけで日向からしたら全部筒抜けなのかと思ってた」

「ぜ〜んぜん! いくら体を同じくするきょうだいとはいえ、魂は別の存在であるように、思考もそれぞれ完全に独立しているようじゃ」

「へぇ……どういう仕組みでそうなってるんだろう?」

「さぁな〜? 考え始めるとキリが無いし、それよりもっと大事なことがある」

 好奇心で面白そうに瞳を輝かせ、資料を探したりしてみようか考え込もうとした葵に、日向が待ったをかける。「?」と、葵はキョトンとした表情で日向に視線を戻した。

「妾はこれまで葵の本を一切読んどらん。プライベートがあるからな。その、その代わり……」

 チラッと日向は自分の本に目を遣る。ああ、と葵はすぐに得心した様子で微笑んだ。

「僕も日向の本を読まないよ」

「……ホント?」

 おずおずと尋ねる日向に、葵はしっかりと頷く。

「もちろん。プライベートもあるけど、何よりも日向の本は日向だけの大切なモノだからね」

「……うん!」

 心の底から安心したという笑顔を見てニコニコしながら「やっぱり日向が妹なんじゃないかなぁ」と葵は考えるのだった。


 ***


 ――あの後「どっちが何曜日に出る」とか「お互いのプライベートなことにはなるべく目を閉じる」とか、色々決めたんだっけ。


 例えば日向が奏達とお茶会をしているとき。衛守府への所属と同時に転校した学校での振る舞い。身近なところでは風呂やトイレなど。

 お互い初めてのことばかりだったけど、夢で何度も話し合って手探りし続けて、イイ感じに収まってきていた――ハズだ。


「日向ってば」


 葵はもう一度、今度は心配を滲ませた少し強い声で話し掛けた。彼女の返事を待たずに続ける。

「何かあった? 僕ら、お互いの考えてることはわからないからさ」

 諭すように、けれど決して問い詰めるわけでもなく、むしろ迷いながら葵は喋る。

「もちろん、言いたくないなら構わない。だけどせめて……こうして一緒の夢に居るときは何か話がしたい、かな」

 結局いい言葉が見つからず、飾らない本音だけを告げた。

 日向は相変わらず黙り込んだままだ。

 ――こんなとき、奏さんや卯之助さんおとなならどうするんだろう。僕がもっと上手く話せたら……

 もどかしさに顔を曇らせながら葵も同じようにソファの上で膝を抱えた。

 

 妙に気まずい沈黙が二人の間を流れていく。

 

「…………ない?」

 ややあって先に口を開いたのは、日向だった。え、と葵が顔を上げる。

 相変わらず膝に顔を埋めたまま日向がモニョモニョと言い直した。

「……笑わない?」

 葵はパチクリと目を瞬かせた後、うーんと天井の方へ視線を向けながら答える。

「それは……内容による、かな。でも多分、驚いても笑いはしないと思う。日向が真剣に悩んでるなら、尚更」

 至極普通の調子で答える葵に、日向は更に数十秒考え込んだ後、小さく言った。

「……かしい」

「え?」

 

「この口調、恥ずかしい」

 

「ええぇ!?」

 予想外の言葉に思わず素頓狂な声を上げる葵に、ほらぁと日向が拗ねたように口を尖らせる。葵は思わず大きな声でいやいやと首を振った。

「別に笑わないよ! ただ意外っていうか、最初は『かわいいから』って気に入ってたみたいだから驚いただけ!」

 今更という言葉をなんとか飲み込み、日向にどういう心境の変化があったのだろう、と、彼女の言葉を待つ。

 日向は相変わらず「あー」とか「うん」とかゴニョゴニョと独り言ちた後、説明し始めた。その声は気恥ずかしそうで蚊の鳴くような小さい声だった。

「うん……妾もな、最初はかわいいって本気で思ったんじゃ。だけど……いざ周りと話したり、色々知るうちに、もしかしてこれ、結構歳不相応っていうかイタいんじゃないかな、って思い始めて……」

 言いながらどんどん声が小さくなり、最後の方は殆ど葵には聞き取れなかった。そしてまたしても、日向は膝に顔を埋めてしまう。

 えーっと、と葵はなんとも言い難い顔で思案し、慎重に言葉を選ぶ。

「……その、そう思うなら変える……とか、どうかな? 慣れるまで、結構かかるかもしれないけど……」

「……」

「……」

「……した」

「え?」

「もう試した!」

 ヤケになったと言わんばかりに急に身を起こした日向が大声で叫んだので、葵は思わずビクリと身を引く。

「そ、そうなんだ……?」

「そう! でもダメなんじゃ……直らない、というより、どうやっても口から出る言葉がこの口調になってしまうんじゃ……!」

「えええ!?」

「どうもこれ、鳳凰を介在した代償みたいな縛りらしくってぇ……変えられないらしくってぇ……」

 しおしおと落ち込んでいく日向に、葵は必死で言葉をかける。

「で、でも、いいんじゃないかな、日向らしくてさ! 周りだってそこまで気にしてないと思うよ? そもそも僕ら事情が結構特殊だし!」

「そうかな……?」

「そうだよ! 実際、誰かにからかわれたりした?」

「ううん……」

「ほら! ね?」

「でも陰では何か言ってるかもしれんじゃろ……」

「気にし過ぎだって! 疑いだしたらキリがないよ!」

 葵の言葉に、けれど日向は微妙に納得していないような「うーん」だけ発して、体育座りのまま自身の右腕に顔をもたれかける。

 ――なんだか急に思春期が来たみたい。

 と、葵は妙な気持ちになりながら、そんな日向をまじまじと見る。

 同い年であることに違いはないけれど、日向が自我を持ったのは1年前で、良くも悪くも無邪気で無垢で、言わなくても言いたいことがわかる印象だった。

 それが今は、世界を知って大人になって、自分とは別人だとハッキリ言えるくらいに隔たりを感じる。それを喜んで祝うべきなのか、寂しく思うべきなのか、葵にはわからなかった。

 ただ……

 

 ――もしかして同じ夢を見なくなったのも、お互いに成長して、より独立したから?

 

 ふっと湧いた疑念は、すぐに不安へと変わった。

 日向の成長は嬉しい。彼女自身の思い出が増えていくのも嬉しい。

 

 でも、もしもこの先、夢でも逢えなくなったら?

 神響の衛士ではなくなったら?

 

 鳳凰を介して一人の人間となった彼女は、もし鳳凰との契約が無くなったら、どうなってしまうんだろう。


「葵?」

 漠然とした不安が顔に出ていたらしく、いつの間にか日向が心配そうに葵の顔を覗き込んでいた。

 似ているけれど瓜二つというほどでもない、より女性らしくなった日向の姿に、葵の不安は拭われるどころかますます深まったようで、日向も更に心配そうに眉を寄せる。

「葵も何か悩んでおるのか?」

 ――何でもないよ。

 葵はそう言おうとして、口を閉ざす。日向の眼差しは真剣で、誤魔化すのに罪悪感があった。それに、先に悩み事を話してくれた彼女に対して自分が話さないのは不公平で申し訳ない。

 どこまで話すか考え込んだ末に、葵は結局全て話した。

「ま、再び眠ってるような状態になるじゃろうな」

 対して、日向はあっけらかんと言い放った。その口調には諦観も達観もなく、ただただ事実を述べたという調子だ。

 流石に呆気にとられた葵は、反射的に「でも」と食い下がる。

「せっかく自我いのちを持ったのに、か?」

 葵が言うより先に、日向がつと眉尻を上げ、睥睨しながら彼の言葉を先取りした。言い当てられた葵は、黙ってこっくりと頷いた。

 

「ばーか」

 

 日向はバッサリと斬り捨てる。

「ほんっと葵は妙なところでお節介じゃな。元々存在しないものが存在し得ただけでもめっけ物、それ以上を望むのは身の程知らずで罰当たりじゃぞ」

「だけど……」

「だけど、なんじゃ? そんなにきょうだいが惜しいか?」

「惜しいよ」

 間髪入れずに淀みなく答える葵に、日向は少し困ったように笑った。

「冷静になれ。今は良い。怪物を倒すという共通の目的があるしな。それに16年間在り得なかったきょうだいに舞い上がるのもわかる。困らされていた分、反動で入れ込むのもな。けど、この先ずっと、この歪な共存が続くと本気で思ってるのか?」

「……それは」

 僅かに言い淀む葵を尻目に、日向は続ける。声は、わざと突き放すように平たく、冷たい。

「もし葵に大切な誰かが出来たとき、体を共にする妾を煩わしく思うかもしれん。或いは逆に、妾にそういった存在が出来たとき、葵は妾に体を譲れるのか? ……出来んじゃろ? 葵はあくまで自分と妾の両方が存在するのを是としてるんじゃから」

「……」

 葵は何も言えなかった。

 日向の指摘は無情でも、葵自身が意識していなかったことも正確に言い当てており――少なくとも葵にとっては――反論の余地が無かった。

 それでも悔しくて口を開いては何も言えず、首を振って閉じる。まるで駄々っ子だと冷静に見ている自分さえ否定したかったのに、どこまでも言葉は見つからない。

「……でも、僕は嫌だよ」

 ようやく絞り出した言葉はただの我儘で、それでも口にしないと耐えられなかった。

 日向はただ黙って微笑んでいる。彼女の顔は、先程まで年頃の少女だったのが嘘のように、ただただ優しく、凪いでいる。

 葵にはその姿が、鳳凰と同じく人の理を超えた存在のように見えた。

 ――嗚呼……

 二人を分かつ境界は深く、近いようでどこまでも交わることがないと、葵は悟った。例え日向の手を強く握りしめていたとしても、次の瞬間には手をすり抜けて何処かへ行ってしまう予感があった。

 

 それでも。

 

「……日向。指切りをしよう」

 

 それでも葵は、抗うことを選んだ。

 日向はキョトンと目をパチクリさせる。

「いいけど、なんで? どんな口約束をしても守れるわけじゃないと思うんじゃけど……」

「そうじゃなくて、衛士の"指切り"をしよう」

「……はあ!? お前正気か!?」

 

 "指切り"

 それは神響の衛士がたった一度だけ使えるもうひとつの力。

 衛士は一人だけ、自分が契約した人ならざるモノの加護を他の誰かに分け与えることができる。

 庇護を受けた者は衛士と同等の生命力を分け与えられると同時に、生きている限り衛士の力を向上させる。代わりに彼らが命を失えば、衛士も契約を失い、二度と怪物と戦うことができなくなるという、諸刃の剣めいた力だ。


 そんな重大でよく考えなければいけない力を、葵は今、日向に対して使おうとしている。


 当然、日向はあらん限りの罵倒と共に止めた。

「葵の馬鹿! 阿呆! シスコン! 兄馬鹿! 考え無し! 勢いで言うなあんぽんたん!」

 日向はガシガシと頭を掻きむしりながら喚く。

「そもそも妾達で"指切り"出来るのか!? いいや、出来たとしても駄目じゃ駄目! 気持ちは有り難いが気持ちだけで十分じゃ! そういうのはもっと大事な人としなさい!」

「嫌だ」

「嫌だじゃない! こんなときばっか頑固になるなボケナス!」

「こんなときだからこそだよ」

「はぁ〜!?」

 真剣に言う葵に、日向はますます困惑と怒りを深める。まるで意図が読めず、日向はひたすら睨みつけて牽制する他なかった。

「確かに未来のことはわからない。それは認める。でも日向のことを煩わしいと思う日が来るのも嫌なんだ。だから、今のうちに逃げ道を絶っておこう、って」

「……いや、全然筋が通っとらんが? むしろ逆じゃろ? 『あの時"指切り"を使わなければ』ってなるやつじゃろ、それ」

 どんどん眉間の皺を深くして半目になる日向に、葵は首を横に振った。

「違うよ。言い訳にしない為だよ。『これは僕自身が選んだことだ』って」

「……」

「どう?」

「どうも何も無茶苦茶すぎて開いた口が塞がらんわ」

 はぁーと盛大に溜息をついて日向は頭を抱えて俯いた。こういうときの葵は、例え無理筋だろうと一度決めたら梃子でも動かないことを、日向はこの一年で嫌と言うほど知った。

「思い切りが良すぎていつか身を滅ぼす……って、な〜んか1年前にも似たようなことを言った覚えがあるんじゃが」

「そうだっけ?」

 嫌味を込めて言ったつもりが葵は笑って流すので、日向はとうとう匙を投げた。

「あーあ、もう知らんからな」

 言いながらスッと右手の小指を差し出す。ふふ、と笑って葵も同じように右手の小指を差し出し、日向の小指にそっと絡めた。


「ゆーびきーりげーんまん、嘘ついたら針千本のーます、指切った!」


 誰もが知る指切りも、衛士が意思を持って交わせば誓いとなる。

 二人の小指の付け根がぽんやりと光り、向日葵をあしらった指輪が顕れる。

 "指切り"が成立した証だ。


「いや通るのかよ……」

 衛士同士、それも同じ存在と契約しているので、もしかしたら成立しないんじゃないかという日向の淡い期待は、あっさりと打ち砕かれた。

「鳳凰も葵もわけわからんのじゃ」

 ケッ、と悪態をつく日向とは対照的に、葵はニコニコと指輪を眺めている。その姿に、想像以上に面倒くさいヤツをきょうだいに持ってしまったと日向はますます嘆息するのであった。


 ***

 

「あ、そうだ。もうひとついい?」

「って、まだなんかあるんか?」

「まあまあそう睨まないで。ね、日向。交換日記やらない?」

「小学生か?」

「あはは。そこまで大層なやり取りをしようってわけじゃないよ。ただこの先、もし言いたいことがあってもまた同じ夢を見れなかったら直接言えないでしょ? その代わりに、せめて書き残しておこうってだけ」

「あー、それはそうじゃな。うん、いいよ。妾もまた前みたいに表に出るつもりじゃし」

「良かった! じゃあとびっきりかわいいヤツ用意しておくね!」

「そういうのはいいから。いやホントに」


 後日、葵が用意した小学生の好きそうなキャラクターものの交換手帳(しかも字がやけに大きく、ところどころふりがなが振ってある)に、「バカ」と一言大きく書いた付箋を日向が貼ることになるのだが、それはまた別の話であった。


 〜終〜

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神響の衛士~はじまりの歌~ 牧瀬実那 @sorazono

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