ライバルかな?
過去の思い出を舐めるように読み切ったブラウネは、翌日には今後の方針を大まかに定めていた。
陛下に近侍するために必要なことは、離れることであると即座に見抜いた。同じ職場で働く限り、彼が青佳と距離を縮めようとすることは決して無いだろう。
彼女が入社して間もない頃、本社内でささいないざこざがあった。
他県の支社長が本社の特定の女性職員に少々親密に過ぎる接し方をしていた。揶揄いではなく賛辞。ただし容姿や行動の性的側面を含むもの。週に一度本社で行われる支社長会議の度にそれは行われ、いつしか常態化した。
当の女性社員が何を感じたかは知らないが、周囲の社員は状況を危惧し総務部長に報告を上げる。昭和の基準で言えば許容範囲ともいえるコミュニケーション。だが、現代においては明白な問題と認識されうるものだった。そして報告は社長の耳に届いた。
社長たる彼が何を考えたかは分からない。上層部で為されたであろう検討の内容もまた。
青佳が知るのは結果のみである。
全社に通達がなされ、管理職に対するハラスメント研修が実施された。
代表取締役の名で出された通達には「従業員は会社のために存在するのではない。従業員の存在こそがすなわち会社である」と、要約すればそのような内容が書かれていた。
翌週の支社長会議から状況はガラリと変わった。問題の幹部が被害者である女性社員と口を利くことはなくなった。
問題は解決した。社長の断固たる決断の成果である。
当の女性社員は退職した。
入社して一年が過ぎ、先輩との関係も近しくなったころ、青佳は当時の内幕を噂として聞くことになった。例の女性社員は困ってはいたがそこまで嫌がってはいなかったのだ、と。
支店長が自身に対して行う度を超したコミュニケーションは確かに困る。だが、社内でも隠然たる影響力を持つ幹部職員との関係が「ギクシャクし」、結果「社内の雰囲気が悪くなる」ことを恐れていたのだという。彼女は社長との面談の中でそのことを伝え、事を大きくしないよう頼んだ。
しかし社長は問題を明るみに出し、処理した。
ブラウネは自身の記憶の中に存在する夫の行動を思い返す。サンテネリ国王グロワス13世であれば、決してそのような対応はしなかったはずだ。
当事者たる二人と面談はするだろう。そして問題行動に釘を刺す。水面下では主立った幹部職員たちと個別に話し、自身の取り越し苦労かもしれない懸念を伝える。1年ほど時間をおいてハラスメント研修が実施される。それも彼の発案ではあり得ない。幹部社員たちの自発的な提案として。それも「昨今の社会的風潮を鑑みて」といった予防線を幾重にも張って。
だが、社長たる彼はその道を取らなかった。恐らくは自身が持った理想に従い、白日の下、即座に、誤解しようのない行動に出た。立派なリーダーである。
青佳の同僚たる女性社員たちもそう評価した。立派なリーダーであると。
そしてこう付け加えた。
”でも、○○さんの気持ちもあるよね。あれはちょっとかわいそうだったな。わたしなら無理”
と。
「大改革」という未曾有の荒波を経験した彼女である。若い社長の拙速を笑おうとは思わなかった。その断固たる姿勢、理想を追求する動きが社会を変える可能性は十分にある。良かれ悪しかれ。
そしてふと思い返す。夫もまた理想を追う人であったと。表出する行動に違いはあれど志向は変わらない。
ここにいる夫がそうであるように。二人は同一人物なのだから、それは当然のこと。根拠は何もない。だが、女はそう信じた。
——上手くやる。
夫が口癖のように呟いた言葉をブラウネは思い出す。
——ええ、ブラウネも上手くやりましょう。
自身を取り巻く生活環境を観察し、家族に根回しをしたうえで彼女は行動に出た。
上長に退職の意を告げるという。
◆
会社という接点を失った後、夫とどのように関係を保つか。
いくつかの候補があった。彼がスポーツジムや趣味のサークルなど、何か外部の組織に参加しているのであればそれを使ってもいい。退職した自分は彼にとって利害関係にない他者である。親しく話しかけ距離を詰めたとしても、強く拒まれることはないだろう。
ブラウネは
まさに文字通り客観的に見て、青佳は”伴侶に相応しいタイプの女性”であるとブラウネは考えた。真面目なしっかりもので落ち着いている。浪費癖もない。学歴も突出してはいないが悪くもない。地方国立大学の法政経学部卒。父は地方公務員。母はIT企業の幹部。
——軍伯由来の子爵家ご令嬢といったところでしょうか。侍女として
そして今生の夫は王ではない。誠に幸運なことに。
——今生の陛下はまさに伯爵家のご当主ですね。やはり陛下とブラウネほどに釣り合いの取れた夫婦はありません。そのうえこの世界においては、妻は一人。素晴らしいこと!
同僚の噂話を辿って調べたところ、残念ながら彼は趣味らしきものを特に持ってはいなかった。ただ一つ、時計好きであろうことは分かった。これは分かりやすい。毎日出社する度に着けている時計が違うのだ。彼女は当然のこととして男の「コレクション」一覧を作成した。形と特徴を目に焼き付け、インターネットで検索すればよい。たったそれだけのこと。
——殿方の趣味は本当によく分かりません。腕は二本しかないのに、なぜあれほどに多くの時計を持つのでしょうか。これはいけませんね。婚姻の後は少し控えていただかなくては。この世界では子どもの教育にそれはお金がかかりますから。
しかしまだ先の話。今は情報を知っているだけで十分だった。
彼の「コレクション」の全貌と総額を。
外部のコミュニティを通した接触が上手くいかないとなれば、偶然を装って家の近所で出会うのも手だが、それも不確定要素が大きすぎる。
行き詰まったところに光明が差したのは、一家の食卓における会話の際である。
その日も同様に上司の話題になった。そこから彼の父——先代の社長に話が進む。彼女の父は県の高級職員である。その経歴の中で都市整備の部署に属したこともあり、彼女が勤める造園会社のことは当然認知していた。まだ先代社長のときに交流したこともある。
父は言った。先代の社長ご夫妻とは同窓でね。当時お会いしたときは仕事そっちのけで大学の話で盛り上がったよ。
——商会と政府の繋がりは太いに越したことはありませんもの。
一般に「コネ」と言われる様式が現代の日本で嫌われる、あるいはその恩恵を受ける本人すら若干の後ろめたさを感じるものである一方で、サンテネリに生きた彼女は全く違和感を覚えなかった。サンテネリには「コネ」以外の手段が存在しなかったのだから当然のこと。
父と未来の夫の両親——先代社長たる父は亡くなっているので母のみであるが——が知りあいとなれば話は早い。縁談の取っかかりになる。
ブラウネは全く躊躇しなかった。サンテネリにおける結婚とはつまりそのようなものである。自由な恋愛の末に、両人の感情のみを元に結ばれるなど、明らかな”異常”である。
彼女は夫との恋愛を楽しむことを決めていた。それは決定事項であった。だが、時期はいつでもよい。”前世”でそうあったように、結婚した後でも何ら差し支えはない。
「ねぇお父さん、——今度お会いする機会とかある?」
彼女はさり気なく尋ねた。父はちょっと考え込んで答えた。所属したサークルの同窓会があるという。話は決した。
「わたしも行っていい?」
なぜ? そう尋ねられても動じない。「自己研鑽」に目覚めたためであると、極めて自然に彼女は答えた。色々な人と出会い刺激を受けたい、と。父は若干の戸惑いを覚えながらも承諾した。
かくして見合いの土台は築かれた。
軍伯由来の家同士。しかも当主が同窓で仲は良好。仕事上の利害関係もある。
ブラウネは心内勝利を確信した。
◆
「まぁ。——その方とは親しくされているんですか?」
東銀座のシチュー店で、ブラウネの勝利は突然の揺らぎに見舞われた。彼女は動揺を隠しつつシャンパングラスを片手に問いかける。
「親しくとまではいかない。親戚の娘でね、長い付き合いなんだ。昔は家庭教師のまねごとをしたこともあるよ。彼女、それまで部活一辺倒だった割にはいざ受験となると集中力が凄かった。成績のグラフなんてほぼ垂直に伸びてたな。世の中にはああいう凄い人がたくさんいる」
——彼女。ふぅん。
「それは、社長のご指導が素晴らしかったんです」
「ああ、勘違いしそうになるほどだったね。私の天職は教師なんじゃないかって」
明白な冗談と知らしめるように彼は大げさに笑い、シャンパンに口を付ける。そして無意識に、何かを想起するかのように視線を宙に向けた。
「おいくつでいらっしゃるんですか? その方」
「どうだろう。ぼくの6つ下だから……28かな」
「わたしより年上の方なんですね。——わたしも社長に家庭教師をしていただけたら、もっと成績が伸びたかもしれません。残念」
「三沢さんは塾とか行っていたの?」
「はい。でも、成績はあまり……」
明白な謙遜である。
「そうか。でも、社会人になるとそんなの誤差のようなものだよ」
夫は早くもこの話題に興味を失いかけている。男の心の機微を察知して次の話題に移る準備をするが、彼女には一つだけ、絶対に手に入れておかなければならない情報がある。
「ひょっとしたら将来わたしもお会いすることになるかもしれませんね。その方と。——お名前はなんとおっしゃるんですか?」
今日は見合いの席である。
当然のことながら見合いは成立する可能性がある。その場合、夫の親戚と妻たる彼女が顔を合わせることもないとはいえない。
「
「マリさん。——覚えておきますね」
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