共に

梨多

 共に

 なあ、覚えてるか?俺のこと覚えてるか?思い出せるか?今はそれどころじゃないだろうけど、俺の笑った顔ぐらいは少しでも浮かんでいてほしいな。

 大丈夫だ。お前はこれまで十分楽しんだ。普通じゃ手に入れることのできないくらいの高揚感も、たくさん味わった。これで十分なんだ。これ以上を望むのは身分不相応ってやつだ。

 今夜、お前はここを旅立つ。おかげでお前の奥底からの汚い心の錆が、やっときれいに浄化される。もし運が良ければ、もう一度新しい世界でやり直しがきくかもしれない。どうだ、楽しみになってきただろう?

 それに俺が書いたこの手紙が届いているってことはどういうことか分かるか?察しのいいお前はもう気づいているかもしれない。そうだ、俺は逃げたんだ。俺はお前らのことを裏切った。お前を豚箱にぶち込んだのも、この俺だ。

 ただ被害者面するのはやめてくれよ。悲劇のヒーロー的な泣き方は絶対するなよ。俺はお前にひどい仕打ちをしたわけじゃない。俺はお前との約束は破っていない…。思い出した。今、俺の目の前には、あの丘でのことが色鮮やかに映っているよ。

 

 確かあれは、俺がまだ九つにもなっていなかった頃だったな。ちょうど親父が死んで、母親が蒸発した後だったな。俺は一人ぼっちで、食べるものもなくて、平気でそこら辺の店で盗みもやってた。あれくらい苦しい経験は未だにしたことがない。金なんか一銭も無くて、住んでいた家から追い出され、母親が残した借金の高利貸にも何度も追い回された。両親がいた頃からうちの家族が物騒に見えたからって、近所のやつらも俺のことをみなし児とかなんだとか言って、あの町から追い出そうとした。本当に苦しかった。腹が減って倒れそうだった。夏はまだよかったが、秋になると寒すぎて、夜なんか寝付けもしなかった。本当に辛かった。そんなとき、あの丘でお前と出会った。あの景色は一生忘れはしない。

 あのとき俺は死にそうだった。いろんなやつらに殴られ、蹴飛ばされていた。腹は減るし、寒くてやりきれなかった。幼ながらにも、もう死んでもいいんじゃないかと考えていた。だから最期にでもと思って、町のはずれにある小高い丘に登ってみようと思いついた。一度でいいから美しいものを目にしたかった。余った残りの力を全てそれに捧げた。疲れ切った体に鞭を打つように、何度もつまずきながらもやっと登り切った。目を上げて丘から下の世界を一望した瞬間、俺はこう思った。小さい。こんなにも簡単に、広いと思い込んでいた世界を見渡せる。昔住んでいた家や走り回った道の数々も、世界地図にある孤島くらい小さかった。俺が一生懸命に生き抜こうとした時間も、ここでは儚く見えた。どうしても美しいという言葉が出てこなかった。そしてとうとう力尽きた。ぐらぐらと左右に揺れる体を支えきれなくなり、草の上にばたりと仰向けに倒れた。

 「何やってんだ」。お前はこう言った。声は同い年くらいだったが、口調は乾ききっていて、変に大人っぽかった。地面に寝そべっている俺を見て、お前は俺の頬を音の鳴るぐらい叩いた。

「何弱ってるんだ。死んでんのか?」

 自分の他にも人がいたということと、いきなり頬を叩かれたという二つの衝撃で、俺はすぐさま起き直った。

「汚い面してるな。お前はどこから来たやつだ?」

 初めて俺の目に映ったお前の姿は、今でも鮮明に覚えているよ。体つきは俺と同じくらい華奢で、顔も薄汚れていた。けれど、目つきは歳のわりには鋭くて、あまり感情が表に出ない、表情が乏しい大人のような子どもだった。

「聞いてんのか?どこから来たやつだ?」

 俺はずいずいと顔を近づけてくるお前が怖くて、仕方なく少しずつ口を開き始めた。身の上話をたどたどしくし、この丘まで来た経緯を大雑把に話した。

「もういなくなってもいい」

 俺は話の締めくくりにそう呟いた。するとお前は笑った。そして言った。

「俺と一緒に生きていこうぜ」

 聞き間違えかと思った。耳がおかしくなったと思った。これまで誰にも必要とされなかった俺に、そんなことを言ってくるやつがいるとは思ってもみなかった。

「お前は一人なんだろ?俺と一緒にいこうぜ」

 その言葉が胸に響いた途端、目の前の景色がとても美しく感じた。小さくて儚かったものが、急に意味を持った素晴らしいものへと変わった。

「お前は最後にこの景色を見たかったんだろ?俺がもっといい景色がお前の最後になるようにしてやる」

 俺は泣いていた。嬉しくてか、悲しくてか分からない。ただ泣いていた。

「幸せになってやろう。二人で。約束な」

 その後、お前は俺を家まで連れて行った。お前は自分も親がいなくて、俺と同じように盗みをやりながら生きていると言った。今住んでいる家は唯一仲の良い爺さんから借りているということだった。腹減ってるか、とお前は訊いた。黙って頷くとパンを投げてよこした。久しぶりの食事に俺は感激した。俺は口に頬張れるほど詰め込みながらこう思った。二度とこんな思いをしないでやる、と。


 俺らはたくさん悪事を働いた。けれど最初のうちは仕方のないことだった。飢え死にをしないように店から食い物をかっぱらうのも、汚い見た目を馬鹿にしてくるやつを蹴り飛ばすのも、まだ仕方のないことだった。だが歳を取るにつれ、だんだんと生活に余裕が生まれてきた。俺は学を身につけてみたくなってきた。そしてお前に相談した。

「俺が教えてやる」

 昔、家にいた爺さんから全てを教わったというお前は、そっくりそのまま俺に教えた。周りのやつと同じくらいの学を俺は一年で身につけた。お前は俺を賢いと言った。絶対に人並み以上に幸せになれるだろうと言った。そうだ、絶対になってやるんだと答えた。

 そして俺たちは、お互いが得たものを絶対に半分に分け合うという約束をした。かっぱらったものだろうが、自分で作ったものだろうがどんなものでもだ。見聞きしたものは共有しあった。もちろん幸せも半分に分けた。たまにそんなことをしながらお前は笑ってこう言った。

「俺らって二個一だな。一心同体ってやつだ」

 ちょうど十八になった頃だった。俺らは職を見つけた。土木の仕事で給料は多くはなかったが、もう盗みをしなくてもいいことに安心した。仕事の場では自分たちと同じような境遇のやつらがいた。お互い相談し合うことで仲良くなっていき、仲間となった。それから俺たちは二人だけではなく、八人くらいで行動するようになった。新しく入ってきた仲間は俺たちよりも様々なことを知っていた。喧嘩や博打、夜遊びなど様々なことを知っていた。俺たちはそれに染まった。あっという間に染まった。

 時たま俺は考えた。今の状態を幸せと呼ぶのか、今俺は幸せなのか、と。酒を交えながらお前に確認すると、そうなんじゃないかと答えた。実に曖昧で自信なさ気だったが、お前の目は輝いていたよ。心の底から楽しんでいるようだった。そのとき初めてお前の気持ちが分からなくなった。


 そうだ、もう一つ思い出すことがあった。これだけはお前も忘れていないだろうな。確か二十歳を過ぎた頃だった。お前は許されない事をしでかした。お前は人を殺した。刃で人の体を突き刺した。返り血がお前の顔に飛び散った。あの瞬間お前は何を考えていた?

 とても不思議だ。そんなにあの女が大切だったのか?そんなに金が欲しかったのか?本当に分からない。そんなに憎い相手だったのか?恐ろしいことだと思わなかったのか?訊きたいことは山ほどある。だけどその機会はもうない。

 俺は誰にも教わらなかった。恐ろしいことも残酷なことも、絶対にしてはならないことも。しかし直感が働くものだろう。自ずと理解できるものだろう。お前はそれを知っててやったのか?

 俺たちは酒場に逃げた。何人もの仲間や取り巻きを引き連れて、逃げ込んだ。

「殺しちまったんだなあ」

 お前は笑っていた。いつもの通り飄々とした姿勢は崩していなかった。

 女の名前を呼んだ。近くまでそいつを来させると、お前はそいつを抱きしめた。幸せそうだった。先刻の行いなんて身に覚えがない、という風だった。周りも俺以外青ざめてるやつなんて一人もいなかったし、みんなここが宴の場だというように笑顔だった。

「なんでお前はそんな静かなんだ?」

 お前は俺の方を向いて話しかけた。横に座っている女は俺を見てきゃあきゃあと笑った。軽く舌打ちをして目を逸らした。

「ビビってんのかよ」

 取り巻きの一人が嘲るように言い放つ。醜い笑いが細波のように広がる。

「馬鹿にしてきたやつらを見返してやりたいんだろ?こんなのでへばってちゃあ、お前もまだまだだな」

 お前は静かに言った。またもや周りの騒がしい声が耳についたが、お前の声だけは恐ろしく冷たかった。俺のことを見放しているような、失望したような冷たさだった。そのとき初めてお前の存在を遠く感じた。


 お前は何人も同じように殺した。お前だけじゃない、お前の取り巻きたちもだ。だんだんとお前は大胆になっていった。持ち前の冷静さは欲望にかき消された。欲しいのは女や金だけじゃなくなった。お前は名声や権力をも持ちたがった。それを見て、幸せはこういうものなのかと俺は疑っていた。それをお前に訊いてみると、お前は自信ありげに頷いた。

 昨日のことだ。お前は火を放った。罪のない人々へ火を放った。前々から仲の悪い軍団に対抗するために、罪のない人々を巻き込んだ。もうお終いだ。お前たちはすぐ逃げた。反撃を恐れていたのか、捕まるのが怖かったのか、またはその両方だろう?その瞬間俺は悟った。こいつとはもうお終いだ。こいつを野放しにしておけない。どんなに怒りが溢れようとも、どんなに自暴自棄な状態に陥ろうとも、そこまでは行ってはいけなかった。何時間も走り続けて身を隠したお前は、俺にぽつりと呟いた。「上手くいったよな」。珍しくお前の声が震えていた。俺は、やっと我に返ったのか、と笑おうとした。そのときだった。お前は泣きながらこう言った。「お前は俺と一緒にいてくれるよな」。

 

 知ってるか、相棒。永遠の愛なんて存在しないんだぜ。俺はお前のことは大好きだ。だけどそれ以上に俺は俺のことが大切だ。ずっと誰かを想い続けるなんて不可能だ。知ってるか、相棒。純粋な恋なんて成立しないんだぜ。あんなのただの独占欲の塊だ。欲望を駆り立てるだけのものだってことを、お前は身をもって感じただろう。おとぎ話のフィナーレみたいに美しいものじゃないんだぜ。

 こんなことを素面で言おうものなら、お前は思いっきり笑い飛ばしただろうな。だけど俺は前からずっとそう思っていたよ。ずっと前から分かっていたよ。だから俺はお前みたいに女に溺れることもなかった。だから俺はお前みたいに仲間を信頼しきることもなかった。以前のお前みたいに、俺は冷静な姿勢を崩さなかった。

 伝えたいことは山程ある。だがこれ以上続けても長ったらしくなるだけだから、もうそろそろ終わることにしよう。しつこいようだがもう一つ言いたいことがある。最後にもう一つだけ言わせてくれ。

 俺はお前のことが大好きだ。お前とガキの頃から一緒に育ってこれたことには誇りを感じている。俺が今日まで生きてこれたのもお前のおかげだし、もしあの丘でお前と出会えてなかったら…と思うと今でもぞっとする。お前には感謝している。それ故にだよ。お前が今そこにいるのも、俺がこの手紙を通してお前と話しているのも、それ故にだよ。

 お前は俺との最後にこう言った。「これって幸せなのか?」。その問いに答えてやる。お前は幸せじゃないし、俺も幸せじゃない。約束したよな?二人で幸せになってやるって。言ったよな?全部半分こだって。俺はずっとその二つだけを考えていた。しかも俺は今でもなおその約束を守っている。それに対してお前はどうだ?お前は道を誤った。途中で見失った。底意地悪いやつらに汚染されて、取り返しのつかないことをして、もう戻れないほど遠くまで行ってしまった。お前は幸せになれない。どうにかして心を入れ替えたとしても、また同じことをしでかすだけだろう。俺だってお前といたら不幸になるだけだ。

 お前は今夜死ぬ。お前の罪は命よりも重いものとされた。お前は殺される。人生において最初で最後の清い痛みを知るだろう。俺は絶対に幸せになる。絶対に約束を果たしてやる。半分こって言ったよな?それなら俺はお前の分も幸せになってやる。お前が無駄にしただろう残りの人生の半分を、俺がもらってやる。俺がお前の分も幸せにしてやる。真っ直ぐに生きてやる。お前ができなかったことも俺が叶えてやる。だから見守っておいてくれ。どんなに遠いところからでもいい。必ず俺のことを見ておくんだぞ。約束だ。それじゃあ、あばよ。

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