第3話 初めての会話、壊れ果てた境界線
「私の名前こそが、『あすか』なんだ。」
明日は、なんとも言えない反応を見せた。
姿の見えない私から、まるで距離を取るように身を引く。
その顔には、疑いの色がありありと浮かんでいた。
「あれ? その反応、まさか信じてない?」
私は明るい調子で問いかけた。
けれど、明日の表情は変わらない。
「あなたが上履きの持ち主だって気づいたときは、本当にびっくりしたよ。
……運命かも、って思っちゃった。」
明日は明らかに引いた表情を見せた。
私は満足げに、くすっと笑って続ける。
「もし読み方まで同じだったら、どっちがどっちかわかんなくなるとこだったね。ふふっ」
でも、からかっていることに気づいていないのか、
明日は引いたままだった。
「『ふふっ』じゃないし! それだけでもうややこしいの!
いいから苗字を教えてよ。そっちで呼ぶから!」
ツッコミなのか、本気で混乱しているのか――
明日は少し荒れた声で返してくる。
「苗字? やだよ?
名前だけでも教えちゃったのに、苗字まで教えたら完全に身バレじゃん」
今度はちょっと渋る声で返す。
その反応を見るのが、少し楽しかった。
「本気で殴るわよ?」
そう言って、ポキっと指を鳴らす明日を見て、私は思わず笑みをこぼした。
「指を鳴らすのってよくないらしいよ?
ていうか、そこまで元気なら、いじめてくるやつらのことも殴っちゃえばよかったのに。」
――…あ。
その一言を放った瞬間、自分の軽率さに気づいた。
明日の表情がみるみる曇っていく。
さっきまでうっすら見えていた安心感が、目の前で閉じていくのがわかった。
「……ごめん。ちょっと、からかいすぎた。」
明日のまわりだけ、まるで世界の色が落ちたように見えた。
彼女は何も言わず、そっと体育座りになり、顔を腕にうずめた。
「明日……」
私の声に、返事はなかった。
顔を隠しているから、いつもならわかりやすかった表情も見えない。
ただ、肩が小さく揺れていることで――彼女が泣いているのがわかった。
私は、何も言えなかった。
ただ、その姿を見守ることしかできなかった。
……私にも、覚えがある感覚だった。
人との距離の取り方が、昔から苦手だった。
警戒心ばかりが先に立って、きっと周りからは近づきにくいと思われていた。
それなのに、一度心を開いてしまうと――私は急に距離を詰めすぎてしまう。
なんでも話したくなるし、なんでも知りたくなる。
境界線なんて、どこかに消えてしまうようだった。
でも、私の心は案外もろくて、すぐに傷つく。
ちょっとした冗談や、何気ない一言。
それだけで、勇気を出して開いた心が、あっという間に閉じてしまった。
……今、泣いている彼女も、似たような気持ちでいるのかもしれない。
下手に声をかければ、かえって傷を広げてしまう。
なぜだか、そういう確信だけは胸の奥にあった。
どうすれば、彼女の痛みを和らげてあげられるんだろう。
こういうとき、誰かにどうしてほしかったっけ?
私は、自分の中にその答えを必死に探していた。
でも、わからない。
答えはどこにも見つからない。
自分がかけられるはずの言葉が、思いつかない。
揺れる肩に、私の感情もつられるように、頬をなにか温かいものが伝った。
――誰にも見えない涙。
目の前の彼女にすら、気づかれることのない、自分だけのものだった。
長いようで短い静寂の中、屋上に昼休みのチャイムが鳴り響く。
それを合図にするように、明日は立ち上がり、涙を拭って屋上を出ようとする。
「どこへ行くの?」
混乱の中にいるまま、思わず声をかけてしまった。
明日は、私が立っている方向に背を向けたまま立ち止まる。
「まだいたんだ。……私が何をするのも、私の勝手でしょ」
その声には、先ほどまでの柔らかさが消えていた。
むしろ、出会った時よりも遠く感じる。
たぶん、彼女は私との間に壁を作ってしまった。
――いや、多分……その壁を作らせてしまったのは、私なんだ。
私の軽率さが、ひとりの女の子を傷つけてしまった。
あの子を見ていると、いつかの自分を見ているようで――
気づけば、簡単に心を許して、そして踏み込みすぎてしまった。
明日の姿が消えてから、しばらくが経った。
私は気持ちの整理もつかないまま、屋上にぽつんと立ち尽くしていた。
このままにしてはいけないことは、わかっていたのに。
気がつけば、私は昼休みのざわつく廊下を走っていた。
誰にも認識されないことをいいことに、人混みの中をただまっすぐに駆け抜けていく。
私が傷つけてしまった、あの子の姿を探して。
「いたっ!」
「うわっ!」
何人もの人にぶつかりながら、それでも私は止まらなかった。
誰も私には気づかない。ぶつかっても、驚くのは向こうだけだ。
どこにいるかなんて、確かな根拠があるわけじゃない。
それでも、あの子がひとりでいたいときに選びそうな場所――そんな気がして、私は走っていた。
足は自然と、校舎の中にある女子トイレへと向かっていく。
どこのトイレかまではわからない。
けれど、探さずにはいられなかった。
ひとつずつ、順番に。
どこかであの子が、今も静かに泣いているような気がして――
私は止まらずに、次の扉へと走り続けた。
校舎中の女子トイレをひと通りまわりきったところで、私は廊下の隅に腰を下ろす。
息が切れて、焦りばかりが胸を締めつけてくる。
でも、どこにもいない。
それでも、ほかに心当たりなんてない。
私は必死で思考を巡らせる。
焦りすぎて頭の中がからっぽになりそうな中、それでも、少しでも手がかりになりそうなものを――
……そうだ。
あの上履き。
あんな場所に捨てられていたってことは……
あの子のクラスも、その近くなんじゃないかな?
そう思った瞬間、私はまた階段を駆け上がっていた。
校舎4階、ある教室の前に立つ。
ゴミ箱がこの教室のすぐそばにあったことを思い出して、
まずはここから探してみようと思った。
そうして、私は教室の中へ足を踏み入れる。
もちろん、誰にも気づかれないまま。
開け放たれた扉を通った瞬間、
ちょうど目の前に、たぶんこのクラスの生徒らしき男子が立っていた。
私は息をひそめる。
姿が見えないとわかっていても、
警戒心と緊張で、体が自然にこわばっていた。
……でも、それもほんの一瞬だった。
「誰も私のことなんて見えてない」
そう自分に言い聞かせながら、私は静かに教室へと足を踏み入れる。
視線を教室の中に巡らせると、窓側の一つの席で目が止まった。
机の表面には、無数の落書き。
『死ね』
『キモい』
『空気読め』
『一生ひとりでいろ』
その机には、悪意だけが刻まれていた。
下の棚に押し込まれていた、ボロボロの教科書。
表紙に書かれた名前は――「津吉明日」。
思わず、吐き気がした。
こんなひどい言葉をぶつけられて、
こんな扱いを受けていたのに――
それでも、あの子は私に心を開いてくれた。
あのとき、どんな気持ちだったんだろう。
どれほどの勇気を振り絞って、声を聞いてくれていたんだろう。
なのに、私は――
あの言葉を、あんなふうに投げてしまった。
あれは、きっと。
彼女にとって、ただの冗談なんかじゃ済まされなかった。
……私の軽率さが、どれだけ深く彼女を傷つけたのか。
今になって、ようやく思い知らされる。
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