かけそば

増田朋美

かけそば

パリ市内は、いろんなものが溢れ、電車やバスなどの公共の交通機関も発達している。空港もあったり、駅もあったり、バスもあったり、タクシーもあったり、乗り物には不自由しないところである。車もあれば、カフェのようなところもあり、レストランや、百貨店のような商業施設もある。それだけではなく、総合病院や、診療所などもあり、医療面でも充実している。そういうわけだから、この街では不自由なものはなにもないと思われた。だけど、やはりなにか足りないのだ。みんな笑顔でない顔で歩いているから。

「ねえ。」

トラーは、水穂さんのご飯のお皿を眺めながら、悲しそうに言った。

「ねえ、全然だめだわねえ。」

水穂さんは、何も言わなかった。ご飯のお皿は手もつけられていないし、全く食べようとしてくれないのだ。

「パンも、米粉のパンとして、遠くまで買いに行ったのに。お豆腐だって、通販サイト覗き込んで買ったのに。なんで食べないんだろう。」

「まあねえ、ここでは、日本とは違って、お前さんが食べられるもんは、苦労しなくちゃ手に入らないんだよ。ちょっとは、買いに行ってくれるとらこちゃんや、マークさん、そしてせんぽくんに感謝してさ、一生懸命食べるのが、恩返しなんじゃないの?」

杉ちゃんがそう言うが、返ってくるのは咳だった。

「なんで、、、。」

トラーは、半分なきそうな顔をする。

「おかしいですねえ、だって、薬だってちゃんと飲んでるし、ずっと安静にしているようにっていう指示だって守ってるでしょう。僕達は、非の打ち所なく看病しているはずなんですけど。」

トラーの幼名馴染のチボーくんは、不思議そうな顔をして、咳をしている水穂さんを見ているのだった。

「とにかく、本人にやる気が無いからこうなってしまうんだ。それではいかんと何回も言い聞かせているのに、全然言う事聞かないんだもん。そうではなくて、しっかり食べて、ちゃんと体を治そうと言う意思を持たなくちゃ。」

杉ちゃんがそういうのと同時に、水穂さんの口元から、赤い液体が漏れ出してきた。杉ちゃんが、ああまたやる!とでかい声で言うが、チボーくんは何も言わないで、水穂さんの口元を拭いた。こういうとき、グチグチ文句を言わないで、しっかりやることをやれるという姿勢は、ヨーロッパ人ならではだと思う。チボーくんは、すぐに水穂さんに薬を飲ませて、布団に横にならせてあげたのであった。そうすると、薬の中には、眠気を催す成分があったのだろう。水穂さんは静かに眠りだすのであった。

「あーあ、結局これかい。もう食べない日が何日続いてると思ってる!」

杉ちゃんが思わずそう言うと、

「少なくとも、僕が記憶している限り、2週間近く食べていませんね。」

とチボーくんが言った。

「このままだと、本当に餓死しちまうぞ。なんとかして食べさせなくちゃ。レトルト食品じゃだめだ。もっと、食べやすいものを。」

杉ちゃんとチボーくんは、食品の通販サイトを見て、一生懸命食べられそうなものを探し始めたが、

「そうだ!」

とでかい声でトラーが言った。

「どうしたのとらこちゃん。」

杉ちゃんはそう言うが、チボーくんは嫌な顔をする。トラーが、そういうことを言うと、必ず変なことが起きてしまうというのが常識であるからだ。

「ねえ水穂、ちょっと起きて!」

トラーは、水穂さんの体を揺すった。チボーくんは、何をやってるんだと止めようとしたが、水穂さんは、うっすら目を開けた。

「一番食べたいものは何?」

チボーくんはトラーに、あまり詰問するのは辞めたほうが良いと言ったが、

「あたし、少し杉ちゃんのこと見習うことにした。今回は、答えが出るまで質問するのは辞めないから。」

とトラーは言い続けた。水穂さんは、ぼんやりした意識の中で、

「そば。」

と小さい小さい声で答えた。

「蕎麦なんて、めったにこっちでは手にはいんないよ。蕎麦粥とか、ガレットにすれば手に入ると思うけど、もう少し、こっちでも手に入りやすいものを頼め。」

と、杉ちゃんがいうが、水穂さんは、眠ってしまってそれ以上答えられなかった。

「蕎麦か。」

と、トラーは、考えるような仕草をした。

「でもこっちでは、蕎麦の麺なんて売ってませんよ。」

チボーくんがそう言うが、

「テレビで見たことあるんだけど。手打ちそばっていうのが流行っているらしいのよね。」

と、トラーが言った。

「手打ちそばは、そば粉とつなぎにする小麦粉と水があれば作られる。」

と、杉ちゃんが答えると、

「そうなんだ!じゃあ家でも作れるのね!」

と、トラーは目を輝かせた。

「まあ、作れないことはないけどさ。広い場所が必要だわな。そば粉を広げられるような、大きな台と、あと蕎麦包丁っていう、蕎麦を切る包丁。それがなければ作れないよ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「あたしなんとかして手に入れてくる。水穂のことだもん。誰かがなんとかしないでどうするの。そういうことは、男には意外にできやしないわよ。」

トラーはでかけるしたくを始めてしまい、すぐに家を出ていってしまった。トラーは一度ひらめくと、そうやってすぐに行動に移してしまう人間だ。それが善と出るか、悪と出るかは運次第で、誰にも予想できるものではないところがまた怖いところでもあった。杉ちゃんたちは、そんな彼女をただ眺めているだけしかできないのだった。

トラーが走って向かった先は、モーム家から少し離れたところにある、ミゲルさんという、米農家の家である。この地域で米を作っているというのは珍しいが、それだけではなく、とうもろこしやぶどうなども作っていた。なんでも趣味で農業してるだけだよなんて公言しているが、意外にそうでもないのではないかと思われるほどの広大な敷地を有しているという。

トラーは、ミゲルさんの家の呼び鈴を何度も鳴らした。玄関のドアを何度も叩いた。

「どうしたのトラーちゃん。そんな顔してさ。なにか大変なことでもあったのかい?そんなに叩いたら、ドアが壊れちゃうよ。」

ヒゲを蓄えたミゲルさんは、ドアを叩きまくる彼女に言ったのであるが、

「お願い、そば粉を一袋分けて!」

トラーは、逼迫したように言った。

「あいにく、余っているのは、ないんだよ。」

ミゲルさんがそう言うと、トラーは、目に涙をためて、こういうのであった。

「水穂になんとかして食べさせたいの。だからお願い、少しわけて!」

「水穂?それ誰のこと?」

ミゲルさんは面食らった顔でそういったのであるが、

「誰だって良いでしょう。私が、一番好きな人のことよ!」

トラーは、そう強く言った。

「はあ、トラーちゃんが、好きな人ができるだなんて、その人はとてもいい顔なんだろうね。そうなんだねえ。」

ミゲルさんは、そう感心してしまった。トラーは男であればちょっと興味が湧いてしまうような、そんな顔をしている。つまるところ、美女であるということであった。そんな映画女優にもよくにた彼女が、少し激してしまうと、何故か美しいと感じてしまう男性もいるものだ。もしかしたら、カミーユ・クローデルも、そういう感じの顔だったのかもしれない。

「だからお願い。一袋わけてほしいの。好きな人に蕎麦をたっぷり食べてもらいたいの。」

トラーがもう一度ミゲルさんにいうと、ミゲルさんはその彼女の美しさに、圧巻されてしまったようで、

「ちょっと待ってな。」

と言った。そして倉庫に行って、そば粉10キロ入った袋を出してきてくれた。

「出荷するのは、これだけど、一袋なら、わけてあげるよ。」

「ありがとう!」

トラーは、にこやかに笑って、それを受け取った。本当に、泣いている女が泣き止んで微笑むと、美しいと見えてしまうのはなぜなのだろうか。特に、彼女はその技術には非常に優れていた。その微笑みは、ヴィヴィアン・リーが映画の画面で見せる顔にそっくりだ。本当にきれいな人だなと、ミゲルさんも思わずにはいられない。そば粉を手に入れて、意気揚々と帰っていく彼女を見て、ミゲルさんは、なんだか狐に包まれたような気持ちになってしまった。

モーム家では、眠っている水穂さんを眺めて、杉ちゃんたちがこれからどうしようかとか、そんなことを話していたが、いきなり玄関のドアががちゃんと開いて、

「もらってきたわ!そば粉!」

とテーブルの上にドシンと重い袋を乗せた音と同時に、甲高いトラーの声が聞こえてきたので、杉ちゃんとチボーくんは急いで台所に行ってみる。

「ホンマに、もらってきたのか?」

杉ちゃんがそう言うと、

「そうよ。ミゲルさんからもらってきたから間違いないでしょ。さあこれで、蕎麦の作り方教えてよ。これであれば、当分水穂には、ご飯を食べさせられる。」

トラーは自信を持っていった。

「そうだけど、これの代金とかはどうしたの?」

チボーくんがそう言うと、

「そんなものどうだって良いわ。お願い杉ちゃん、蕎麦の作り方を教えて!」

トラーは、そう杉ちゃんに詰め寄った。杉ちゃんもなにか感じ取ってくれたらしく、

「わかったよ。じゃあまず、粉を混ぜるところからやってみよう。」

と、トラーに言った。そして、ボウルにそば粉と小麦粉を取り出してふるいにかけ、水であえ、すりこ木はないので、手を使って粉を捏ねる。この作業は結構大変で力のいる作業ではあったけど、トラーは何も文句も言わなかった。チボーくんは大丈夫かなと彼女を心配するような顔で見ていたが、このときの彼女は、必死で蕎麦づくりをしていた。全体がまとまってきたら、打ち粉をした蕎麦生地を広げて伸ばすのであるが、これもすりこ木がないので、手で伸ばした。そして伸ばしてはまとめる作業を5回繰り返す。今度は向きを90度変えてまた五回伸ばす。それを東西南北4方向繰り返し、手で薄く広げた。杉ちゃんはそれをする彼女を、上手だと褒めた。そして、打ち粉をして、半分に畳み、更に打ち粉をして4等分にたたむ。蕎麦包丁がないので、包丁の脇に木の箱を置いて切るという方法で、蕎麦を切った。これができてしまえば、あとは茹でるだけである。鍋に水を入れて沸騰させ、その中に蕎麦を入れて、3分ほどかき混ぜ、それをザルに開ける。これで蕎麦は完成であった。蕎麦のつゆは、以前チボーくんが手に入れた醤油を薄めて作った。

「ウン、初めて蕎麦を作って、ここまでできれば上出来だ。じゃあ、これで水穂さんに食べさせよう。」

杉ちゃんが、そういったとき、もう夕食時刻になっていた。

「杉ちゃんありがとうね。」

トラーは、にこやかな顔をしていた。

「日本の奴らはみんな知ってら。」

杉ちゃんはでかい声で言った。チボーくんは、そのやり取りで満足してしまうことができるトラーと杉ちゃんをなんだか複雑な気持ちで見ていた。

とりあえず、具材を用意することはできなかったので、その日は蕎麦につゆを掛けたかけそばにしてしまったが、なんだか、麺も切り方が一定しておらず、不格好な蕎麦だった。果たして水穂さんが食べてくれるかどうか、チボーくんは心配でならなかった。

「じゃあ早速食べさせよう。」

と、トラーは急いで、器をお盆に乗せ、水穂さんがいる客用寝室に行った。

「ねえ水穂、起きて。蕎麦、作ってみたよ。」

トラーは、サイドテーブルに蕎麦を起き、水穂さんの体を揺すった。

「不格好な蕎麦だけど、食べてやってくれや。とらこちゃんが、一生懸命作ったんだから。」

杉ちゃんがそう言うと、水穂さんはやっと目を覚ましてくれて、よろよろとベッドの上におきた。チボーくんはすぐにクッションを入れて彼を支えた。眼の前に、太さは揃っていないものの、灰色の蕎麦がちゃんとある。水穂さんは、驚きを隠せないようであったが、

「まあ、すり鉢も無ければすりこ木もない。蕎麦包丁もないけど、とらこちゃんが一生懸命、お前さんに食べさせたくて、作ったんや。お前さんも頑張って食べてやってくれや。」

杉ちゃんがそう言うと、トラーは静かに水穂さんに箸を渡した。その渡したときにチボーくんはなんとも言えない切なさを感じてしまったのであった。

「今日はかけそばで何も具材が入ってないのは申し訳ないんだけど。」

トラーは、にこやかに笑った。

「次は、具材が入ってる蕎麦を作ってみようかな。ほら、山菜そばとか、色々あるんでしょう?なんか急に蕎麦を作ってみたくなった。」

「そうだねえ。ただ、肉さかなは一切抜きだぜ。それは心しておいてくれよ。」

「わかってるわよ。ただ、言っただけよ。」

杉ちゃんとトラーがそう楽しく食べ物のことについて話をしてくれて、やっと水穂さんは箸を持ってくれて、そして蕎麦を口に入れてくれた。チボーくんは、また吐き出すかと思ったが、今回はそうでなかった。ちゃんと食べてくれて、それを飲み込んだのであった。

白状するとチボーくんは、飲み込むことができなくなったのではないかと思っていたのである。だけど、その問題ではなく、水穂さんが持っている問題は、別のところにあるらしい。それが何であるかはわからないけれど、とりあえず、今回食べてくれるということは、大きな進歩であることに間違いなかった。

「どうだ、なにか感想でも言ってやってくれよ。せっかくとらこちゃんが初めて作っただぞ。なにか感想でも言うのが礼儀ってもんじゃないの?」

杉ちゃんに言われて、水穂さんは小さな声で一言、

「ありがとうございます。」

と言った。

「そんなこと言わないでいいわ。あたしにしてみれば、水穂が美味しいって言ってくれることが一番嬉しいことだもん。言葉なんて、どうせたいしたことないわよ。それよりも、たくさん食べてくれたほうが、よほど嬉しいことよ。」

トラーは、そう言っている。チボーくんは、なんだか彼女が、また別の世界に行ってしまったというか、遠くへ行ってしまったような気がしてしまった。それは、わかりやすく言えば成長したことになるが、チボーくんにしてみればなんだか寂しいことでもあるのだった。

水穂さんは、太さの一定しない蕎麦を咳き込むことなく食べてくれたのであった。それを見てトラーはますます喜んだ。結局完食というわけにはいかなかったけど、水穂さんは蕎麦を食べてくれて、一言、

「ごちそうさまでした。」

と、両手をあわせていったのであった。

「そんなこと言わなくて良い。それよりもたくさん食べてくれればそれでいい。」

トラーは、そう考えているようである。チボーくんとしてみれば、トラーが報酬を求めても良いのではないかと思ったのであるが、トラーは、そのようなことはしなかった。女性は、そういうことを思わないで、なにかをしてあげるということが本能的にできてしまうようなのだ。それは、まるで卵の殻を破るようにあるひ突然現れる。いつどこで現れるかは予測できない。チボーくんにしてみれば、それはなんとも言えない悲しいことでもあった。

水穂さんは、夕方の薬を飲んでまた眠った。眠ってばかりいるようだけど、そうしなければだめなんだと言うことを、みんな知っているから誰も文句を言うことはなかった。そういうふうに、公認されている人は、休むことを許される。だけど、身分の低い人は許されないと口にしていたトラーが、まさか人のために何かをするとは、信じられない光景だった。

「ただいま。」

トラーが、水穂さんの食器を洗っていた頃、マークさんが帰ってきた。マークさんとトラーは10年年が離れている。トラーが学校で問題を起こしたとき、マークさんはすでに働いていたので、とりあえず収入の面ではモーム家を維持することはできた。だけど、いつも仕事で不在であり、彼女の詳細についてはチボーくんが担ってきたようなところがある。

「あれ、どうしたの?今日なにか作ったの?」

マークさんが聞くと、

「とらこちゃんが生まれて初めて蕎麦を作ったのさ。まあ、かけそばだったんだけど、結構美味しそうに食ってくれたぜ、水穂さん。」

と、杉ちゃんが答えた。

「そうですか。」

マークさんは、お兄さんらしく嬉しそうに言った。

「今まで自分の不幸を語るしかしなかったトラーが、水穂さんに蕎麦を作るようになるとは思いもしませんでした。水穂さんがこっちにきてから、確実に変わってますね。それは嬉しいことです。」

「何を言ってるの、お兄ちゃん。あたしは、ただ水穂がどうしてもご飯を食べないから、なんとかしなくちゃならないなって思っただけよ。人間食べなくちゃどうしようもならないじゃないの。それくらいあたしだってちゃんとわかってるわよ。」

トラーは、お皿を洗いながら、そういったのであった。

「そうなんだ。リセで、人間は食べるためにいきてるから、働いていない人間は食べてはいけないと言ってた子が、そんなこと言うのはびっくりだよ。」

マークさんはそういうのであるが、

「お兄さん。トラーはきっと水穂さんにご飯を食べさせることに成功して、とても嬉しいんだと思いますから、それは言わないほうが良いんじゃありませんか。せっかく彼女が得た幸せに水を指すことになりますよ。」

とチボーくんはそういうのであった。なぜかそんな言葉が出てしまったのである。それは、自分でも予想していなかったけど、何故かその言葉が出てしまった。

「せんぽくんは、やっぱりとらこちゃんが好きなんだねえ。」

杉ちゃんが、小さい声でチボーくんに言った。

「そういうことなら、男らしく、好きだってちゃんといいな。曖昧にしておいてはだめだぞ。とらこちゃんみたいな女性は、そういう曖昧な表現が苦手だからな。」

「そうですね。」

確かに杉ちゃんの言うとおりだと思った。だけど、具体的にどうすればいいのか、チボーくんはよくわからなかった。それでは、行けないのはわかっているのだけれど、どうしても思いつかないのである。

「まあそのうち、お前さんがどんな態度を取ったらいいのか、わかってくるようになるさ。時間がたてばわかるよ。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。もしかしたら、杉ちゃんのように、国が違うとか、そういう人であればわかるのかもしれない。でも、トラーが確実に変わってきているということだけは、確かだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

かけそば 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る