図像学的恋愛論
南都大山猫
第1話 図像学的恋愛論
ページをめくる手が震える。そろそろ空腹が限界に達してきた。流石に何か食べなきゃ。でも、母からもらった昼食代は今、吉野さくらが読んでいるこの本に消えてしまった。夏期講習3日分の昼食代で何とか買える本だった。だから昨日も一昨日もランチを我慢して、ついでに夏期講習もサボって、カフェで読書三昧だった。「第三の居場所」とはいえ、コーヒーくらいは頼まなきゃね。
自宅から電車とバスを乗り継いてやってきた隣町のショッピングモール。夏期講習真っ最中の予備校はその向かい。自宅近くにも塾や予備校は幾つかあるんだけど、さくらがわざわざそこを選んだのは、家の近所だとサボりがバレる可能性があるからだ。
母を説得するために「あそこなら◯大合格者が15人も出てんねん」と説明したところ、母はふんっ!と鼻を鳴らしながら、「駅前の予備校やて◯大に大量合格!って出てたで」と反論してきた。うっ、手強い。
「ちゃうねん、隣町の予備校の方が、3人合格者が多いねん!」
「ほんまかいな」
「ほ、ほんまや」
「でも、あんたが通ってるの付属高やん。そのままエスカレーターで大学進学するゆうてたやん」
「ぐぬぬ…」
まあ、こんな感じで百戦錬磨の母に議論で勝てるわけはなかったのだが、なぜか母は最終的にOKしてくれた。「夏期講習なんて言葉をアンタの口から聞くなんて思わんかったわ。長生きはするもんや」と笑って。
母の言う通り、さくらの「大学受験のための夏期講習」など嘘八百だった。わざわざエスカレーター式に大学に行ける附属高校に入ったのだ。なんで受験せなあかんねん。「ブック・バグ」さくらは好きな本さえ読めれば、どうでも良かったのだ。就職はまあ、大学出ればどないかなるやろ。人はパンのために生きるにあらずや。私は本のために生きんねん。
思えばさくらの読書熱は突然始まった。きっかけは何だったのか。親が買ってくれた『大宇宙の少年』だったのか、『若草物語』だったのか、今となってはさくら自身も思い出せない。だがさくらは小学3年生の春に突然覚醒したのだ。自分の人生はたった1つや、1回きりや。でも本を読めば他人の人生も覗けるやん!別の人生を楽しむことができるやん、と。懸賞で宇宙服が当たったり、小説書きながら病気の妹を看取ったり、もし自分がそんな人生を送ったら、どうしてたやろな、きっと主人公とは違う道を選んでたろうな、そんな妄想に耽ることが楽しかった。ただ、その割に自分の人生は真面目に考えることもなく出たとこ勝負やった気がする。
そんな吉野さくらがいきなりハマったのがヤン・ステーンだった。それは中学3年生の春の図書室。劇的な出会いだった。吉野さくらはたまたま目に止まったオランダ絵画の画集をペラペラめくっていた。昼休みに級友が「フェルメール展観に行った」と言っていたのを思い出したからだ。
そう。オランダ絵画と言えば、まず頭に浮かぶのは、高度に写実的な技法で美少女を描きまくったフェルメールであり、光と影を自在に操ったレンブラントであろう。画集をめくるまで、さくらもオランダ絵画と言えばその二人くらいしか知らなかったのだ。でもさくらはフェルメールでもレンブラントでもなく、その画集におまけのようについていたヤン・ステーンの絵に惹きつけられてしまったのだ。ヤン・ステーンが描く当時のオランダの雑然とした空間とお行儀悪い人々の群れ。お世辞にもきれいとは言えない。でも、笑ったり、怒ったり、みんな表情が生き生きしてる。見たことのないゆるいライフスタイルやっ!そう思ったのだ。400年前のオランダ庶民はこんなスローライフを送ってたんかいっ。
ヤン・ステーンは1626年、日本で言えば江戸時代初期にオランダのライデンで生まれ、50年あまりの人生の中で、数多くの作品を世に送り出した。当時のヨーロッパは宗教画が主流だったが、オランダ絵画は風俗画が多く、特にヤン・ステーンは風刺の利いた作品を好んで描いたという。
さくらは画集の中の大家族の絵に顔を近づけてみた。顔を近づけたところで、紙の匂いしかしない。でも、心なしか絵の中の人々の体臭は生活臭が漂ってくるような気がする。不思議なんだけど、雑然さと無秩序さが併存する空間の中に入り込みたくなってくる。家族で昼間っから酒飲んで騒いでるのもすごいねんけど、いきなりバグバイプ吹くヤツやとか、おっちゃん顔した赤ちゃんとか、タバコ吸ってる子どもとか、色々ヤバい。なのに没入感半端ない、っていうのはこういうことを言うんやね。うん。
それ以来、さくらはヤン・ステーンの虜になり、彼の画集を探し求めているうちに、絵画と文化に興味を持つようになった。大学に進んだら、とりあえず絵画と文化が学べる学科に行って、ヤン・ステーンについてもっと調べたい、最近のさくらはまあそんな感じのことを考えている。
話は変わるが、さくらは彼氏がいない。彼氏いない歴イコール年齢である。別に彼氏が欲しいと思ったこともない。現状、さくらの生活は平和だし、まあそこそこ幸せだし、やりたいことは山程ある。学内でカップルを見ても、羨ましいと思ったこともない。
ただ、最近絵画を見まくっているせいか、学内でも町中でも、くっついているカップルのポーズ、配置、身振りや仕草なんかが気になる。ヤン・ステーンやったらどうポーズ指定するんかな、このままやと絵面的につまんない、様式美ないわ、とか。さくらにガン見されてるカップルがさくらの心中を知ったら「余計なお世話や」って激怒すること間違いないだろう。ついでに教室で机の周りに集まって恋バナする女子グループも、話の内容(どうせ聞いても分からない)よりそれぞれの立ち位置が気になる。そこの人、左手を額にあてた方がええよとか、座ってる女子は頬杖をついて、とかついついダメ出ししなくなる。うん。かなりヤバいね、私。幸い、さすがにギリギリの自制心があるので、言葉にすることはない。ただ思うだけである。我思う、ゆえに我あり。なのでまだ誰からも変人扱いされていない。多分。
そんな極端な性格のさくらであったが、小学生の頃から勉強はそこそこできた…国語限定だったけど。もともと他人に関心がなく、競争する気も皆無だったので、塾はすぐ飽きた。というかライバル心むき出しの人間関係がイヤになったのだ。「なんぼ本読んだかて、テストの偏差値上がらへんやん」塾の授業が始まる前、さくらが夢中になって本を読んでいる横で、別の中学校から来ていた女の子グループが聞えよがしにそう言い放った。うっざ。さくらはその日のうちに塾をやめた。
母は何も言わなかった。というか、テストで何点取ろうが「お疲れさん」「ご苦労さん」しか言わない人だった。ただ、塾で言われたことを話した時は「そんなとこ行かんでもよろし」そう短く言い放っただけだった。
結局、中3の秋、担任と母のすすめで近所の私立高を受験することにした。そして奇跡的に特進コースに受かったので、今ココである。まあ、国語と英語、それに社会の成績は良かったからね。附属高校の隣には大学もある。通学時間も受験勉強に費やす時間もぜんぶ読書時間に回せるやん。なんて幸せなの、私、さくらはそう思って単純に喜んだ。
話は夏期講習に戻る。なぜにこの、ある意味、超合理的精神の持ち主である吉野さくらが突然夏期講習に行く!と言い出したのか。それは隣町にあるショッピングモールに通いたかったからだ。いや正確にはショッピングモールの中に入っている書店だ。そこは県内でも大手の書店というだけではなく、美術関連の本が揃っており、かなり広いスペースを占めていた。しかも、店内には試し読みする客用に椅子も置かれており、ゆっくり読みながら本を探すことができる。さくらにとって「夢の国」以外の何物でもない。椅子に座り、棚から引き出した本のページをパラパラとめくる瞬間の至福。できれば持って帰りたい。でも美術の本は高いのだ。交通費もかかる。これは…策を講じるしかない。
考えてみれば、母に率直に「本が買いたい」と言っても良かったのかも知れない。今となってはそう思う。でも、母に「また??」という表情をされるのが辛かった。あと、夏期講習に通う真面目な高校生の私、というのも演じて見たかった。思えば浅はかな理由だった。でも、一度ついた嘘はもう貫き通すしかない。3日間分のランチ代でとりあえずパノフスキーの本は買えた。アイスコーヒーはもう飲み干したし、グラスの中の氷は溶け切って温く色のついた水になっているけど、でもあともう少し読んでから駅まで歩こう。
「お前、隣のクラスじゃね?」いきなり夢心地モードは現実に引き戻された。嫌な予感がしてゆっくりと顔を上げる。そこには同年代の男の子が立っていた。背が高く手足が長い。Tシャツから出てる腕も顔もこんがりという表現が似合うくらいに日焼けしている。でも誰だか分からない。ヤン・ステーンの絵に出てくる誰にも似ていない。せめてポーズだけでもそれっぽかったら良いのに。
「えーっと、誰ですかね」
「あ、俺2組。特進の。五條雅史って言うんだけど」
「あ、五條君ですか…(知らねえ)」
「お前、何やってるん?昨日も来てたよな。てか一昨日も」
あっ、見てたんですか。カッコ悪いかも…。「ちょ、ちょっと事情があって、ですね」
「ふーん。理由ありなんか。にしても毎日カフェで読書なんて良い身分だな」
あっ、それ一番言われたくないセリフなんだよね。もう子どもの頃からずっと言われてきたからね。「さくらちゃん、何もせんと本ばかり読んでええご身分やね」って法事の度に従兄やら親戚の子やらに何度も言われたわ。余計なお世話や、と思ったけど、まあ確かに耳の痛い指摘ではあったのだ。
「ご、五條君は一体ここで何を?」さくらは話題を変えようと必死だった。
「俺?俺、このモールの隣のスイミングクラブで指導員のバイトしてんねん。俺、水泳部やし、昔はここのクラブで水泳習っとったから。OBとして教えに来てんねん」
「す、すごいですね」そうか、夏休みの五條君は勤労少年やったと。そりゃ、勤労少年から見れば私なんて、確かに「ええ身分」やわ。うん。
「俺、スポーツ推薦で大学行きたいからさ、気ぃ抜くことできへんねん。だから指導員やりながら空いてる時間もずっとプールで練習してんねん」
五條君は水泳部か。ウチの水泳部って強かったっけ。それにしても夏休みやというのにアルバイトに練習に真面目なんやな…さくらは先ほどまで「うっざ」と思っていたことをちょっとだけ反省した。
「で、お前は何してんの」
まだ聞くんかいっ。
「えっと、ランチ代ちょろまかした金で、念願の本を買ったんすよ」
「本?飯抜いて?」今度は相手が驚く番だった。そうです、飯抜きですが何か。
さくらは黙って人差し指で自分の座っていたテーブルの反対側の椅子を指さした。五條君は「俺、そろそろ戻らないとあかんねんけど」と言いながら、勧められた椅子に座った。好奇心が勝ったのだろう。さくらは、相席を勧めれば、五條は諦めて帰るだろうと予想していたので、ためらいもなく座ったことを意外に思った。
さくらは話が長くならないように気を使いながら、本が好きであること、最近はオランダ絵画にハマっていること、毎日このショッピングモール内の本屋さんに通って、本を漁っていること、をかなり端折って説明した。
「とまあ、そういうアホみたいな話なんすよ」さくらがそう自虐的に笑いながら話すと、「アホちゃうやん。やっぱりお前、すごいやんな」五條君はそう言った。
五條君によると、入学当初から吉野さくらは隣のクラスでも「話題の人物」だったらしい。ものすごくマイペースのド変人、図書室の座敷童、ぼっちクイーン、とにかく言われ放題だった。五條君は面食らいながらも、想像の斜め上を行く、今まで遭遇したことのないようなキャラだということだけは分かったと言う。しかも京都の中学出身の五條君は、さくらと同じ中学出身の同級生から色々聞かされて、「奈良の女子、恐るべし」と感心してたと。「でもな、学校でみかけるお前、意外に普通やし、なんか自然体やし、偏屈そうな感じちゃうしさ…で、よく見ると可愛いし…」五條の話の最後の部分は店内のBGMにかき消され、さくらの耳には届かなかった。
「あ、あざーす。変人でごめんね。でも、イジメられないし、ええ高校に来たなあと思ってます」さくらは笑いながら立ち上がった。「さて、そろそろ帰らんと。一応、午前中のみの夏期講習行ってることになってるし」
「明日も来る?」
「うん。サボったら母にバレるし。というかサボってるんだけどね(笑)」
「ほな、オレも休憩時間はここにコーヒー買いにこよ。また会えたらええけど。あ、大事な読書時間じゃましてごめんな」
確かにさっきまでは「うっざ」と思っていた。でも、何だろう。不思議な事に、本を読むのと同じくらい、いやもしかしたら、それ以上に楽しいひとときだったかも。さくらはそう思った。私、男子と日常会話するの初めてだったかも。うわあ、高校って偉大なり。帰路につくさくらの気持ちは説明のしがたい高揚感に満ちていた。
翌日、吉野さくらは読みかけの本をリュックに入れて、隣町の予備校(の方向)に向かった。本屋で時間をつぶした後、いつものカフェでいつものアイスコーヒーを頼む。早速、昨日飼ったばかりのパノフスキーの本を開く。いつもなら小一時間あれば数十ページは読めるのに、昨日は10ページくらいしか読めなかった。でも不思議と悔しい気持ちはない。なぜなんだろう。
五條君は昨日と同じくらいの時間に現れた。「よう」と手を上げながら。うん、絵画的でよろしい。五條君はさくらの向かい側に座ると自分のトレイをテーブルの上に置いた。そこにはサンドイッチとコーヒー。ヤン・ステーンの絵の中には描かれてなかった食べ物だ。当たり前だけど。ただ、サンドイッチを頬張る五條君はそれなりに絵になると思った。できればヤン・ステーン以外の画家に描いてほしい。
端的に言って五條君はハンサムだった。眼が大きくて、眉と眼の間が狭い。鼻の頭がちょっと上を向いていて、例えるなら…レンブラントの自画像にこんな感じのがあったと思う。そうだ、レンブラントに描いてもらったら良いんじゃないかな、めっちゃ陰影つけながら…ウフフ…。
「何笑ってるん?」五條君の眼が笑ってる。口元は相変わらずサンドイッチをパクつくのに忙しい。
「あ、いや。レンブラントの絵に五條君に似ている人物が描かれているなって思ったんすよ」
「おまえ、ホンマ絵が好きなんやな」
「全部じゃないんですけどね。オランダとかそれより少し前のフランドル絵画は好きですね」
「俺も少しなら美術史の知識あるで」
「ほうほう」
「吉野って、岸田劉生?あれの絵に似ているよな」
「えっ…岸田劉生…って、もしかして、れ、麗子像ですかね」マジか。
さくらは母には「アンタの顔って国籍不明よね」と言われることはあったけど、麗子に似ていると言われたのは、これが初めてだ。うーん。何とリアクションしたものか。「本物の麗子ちゃんとはかなり違ってて絵の方はデフォルメがキツいっすよね」って言ってみようか。いやでも、てことは、私の顔ってデフォルメされてるってことなんか。ピカソ的なんか、私の顔。これはキツいかも。
さくらが返答に困って目を白黒させているのも気にせずに、五條君は続ける。
「れいこ?そういう名前なんか、あの黒猫」
「黒猫?」
「そう、あの黒猫。お前に似てるで。その何考えてるのか分からんアーモンド型の眼とかさ」
「それは」
「なに?」
「それは、岸田劉生ではなくて」
「あ、そなんや」
「菱田春草では?」
「あ〜、それや!その人や!きしだりゅうせい、じゃなくて、ひしだしゅんそう、なんか。名前めっちゃ似てるやん」五條君はゲラゲラ笑い出した。いや、笑い事ちゃうし。私、一瞬、結構な深さにまで落ち込んだんですけど。
それにしても、猫に似ているというのは新しい、とさくらは思ったし、大きな誤解はあったものの、菱田春草の黒猫ちゃんを知っているのは、五條君もなかなか見どころがあるわ、さくらはそう前向きに考えることにした。
それから数日、カフェで五條君に出会い、絵画の話をしたり、五條君の水泳談義をふむふむと聞いたりする日々が続いた。ヤン・ステーンを極める夏のはずが、五條君を極める夏になってきている。でも、それはそれで楽しいかも、とさくらは思った。
サンドイッチを食べた後、五條君が紙ナプキンで念入りに口元を拭きながら、「今日、少し早めに上がるんやけど、一緒に帰らないか」と言ってきた。五條君は京都方面やし、さくらは奈良だから、乗る電車は逆方向だ。でも、駅まで歩いたら20分は一緒にいられる。確かにテーブルを挟んで対峙する配置は少し飽きてきた。構図的にはもう少し動きが欲しい。ヤン・ステーンは歩く人物をどう描いていたっけ。今思い浮かぶのは『踊るカップル』だ。ステップを踏む若者が乙女に手を差し出しているが、乙女は微笑みもせず、男性から目を背けている。うーん。五條君は手をつなごうとするかな。そうしたら私はこう目を逸らして、身体は五條君に向けて、こう手だけ差し出すと絵になるかな。でも、構図的にバッチリなのかどうか、それを私自身が視認できないのが残念だなあ…。
「何考えてるん?」
「い、いや。何でもないっす」
「吉野って、俺が話すと、いつも考え込むよね。なんか俺、要らんこと言うてるんかな。」
「あ、全然そうじゃないっす」
「嫌なら嫌って言ってくれてええねんで」苦笑する五條君。多分、私のこと、うっすら怖い女って思ってるんだろうな。たはは…。
結局、さくらは五條君と駅まで一緒に帰った。でも、モール前のバス停にちょうどバスが来たので、つい条件反射でバスに乗ってしまった。バス乗ったら駅まで5分でしたわ。あっという間でしたわ。ヤン・ステーンなら…いや、あの時代、バスないし。
翌日のカフェ。五條君はなかなか現れなかった。まあ、時間はまだあるし…さくらは久々にちゃんと本を読み進めることにした。頬杖をつき本を読むさくらの視界に人影が立った。
「ねえ、一人?」
そこに立っていたのは若い男性の二人組だった。若いといっても20歳はゆうに超えてる。大学生かそれ以上かな…茶髪だし、しかも今どき流行りのマッシュパーマやし、スーツじゃないし、ダメージジーンズ似合ってないし。得体が知れないな、とさくらは一瞬でそう思った。うっざ。さて、どう答えるか。
「いえ、人を待ってます」よし、これで完璧だ。
「えー、さっきから見てるけど、誰も来ないやん。ねえ、俺たちとどっかいかへん?」
「いえ、待ってるんで。大丈夫です。来なかったらこちらから行きますし」 うざうざうざうざうざ。ところで私、相手が初対面だと共通語になるの今発見した。高校生って日々発見の日々やわ。
「ねえ、キミ高校生? ちょっと可愛いやん。俺たち、◯△っていうライブ配信アプリでは割と有名なんやけど、知らん?」
「知りません」うざうざうざうざうざうざうざうざ…おめえら、オッさんやん。前途有望な女子高生に声かけんなや。
「えー。俺ら、フォロワー5万人もおんねんで。今日はここらで配信しようとおもてるんやけど、どっか美味しい店教えてよ」
「あ、私、ここの地元じゃないんで」うざうざうざうざうざうざうざうざうざうざうざうざうざうざうざうざ…あー、うざ男が一瞬で消える呪文を誰か教えてくれ!
さくらはため息をつきつつ、ゆっくりと本をリュックにしまい込んだ。ヤン・ステーンの絵。確かにそこには俗物が多数描かれている。がしかし、彼らは絵の中から出てこない。しかもコイツらの俗物ぶりに比べれば、可愛いもんや。ヤン・ステーンだったらモデルにも選ばん連中やわ。せめてバグパイプでも持って…いや、バグパイプ持ってても全然可愛くない。ジョットの地獄絵で鬼に踏まれて欲しい。ワシの大事な時間を…メラメラと怒りの炎が滾っていた。不思議と怖いという感情は湧いて来なかった。それどころかさくらはどうやってコイツらに正義の鉄槌を下すか、しかも絵画的に完全な配置で。そればかりを考えていた。
さくらが席から立ち上がると、配信者コンビは嬉しそうに「あ、どっか行くワケ?ええやんええやん」と笑いかけてきた。うん、どっか行きます。アンタたちを成敗するために。はい。
さくらは店から出ると、隣接のスイミングクラブの方に向かって歩き出した。五條君、居るかな。さくらがクラブの入口に向かって歩いていくと、入口ドアの向こう側で、今まさに外にでようとしている五條君と目があった。五條君おったわ。
さくらは右手を五條君にむかって高く上げ、手のひらをかざした。かっこええやん、私…。さくらはこれから絵画の一部になるのだ。
五條君は歩みを止め、怪訝な顔をしてさくらを見つめている。さくらは続いて親指を手のひらに向かって曲げ、それから握りこぶしを作り親指を包みこんだ。五條君の動きが止まった。五條君は今度は真剣な表情でさくらを凝視している。さくらはもう一度、手のひらをかざし、親指を曲げ、そして握りこぶしを作った。五條君は、さくらの背後にちらっと目を向け、そして何も言わずに飛び出してきた。
「さくら、遅くなってごめん!」五條君は左手でクラブのドアを乱暴に閉めながら、右手を伸ばして、さくらの左腕を掴んだ。
「せっかくのデートだったのに、遅れてごめんな。仕事終わったし、なんか食べに行こうな。今日は俺のおごりな」そう言いながら、五條君の眼はさくらの背後の配信コンビをガン見している。五條君の方が明らかに頭一つ分大きいし、水泳で鍛えてるから体格も配信コンビとは段違いだ。例えるならミケランジェロの『最後の審判』で中央に描かれたキリスト像並みのマッチョなのだ。一方で配信コンビは所詮モブだし、ジョットの絵の踏まれ役なのだ。勝負は最初からついているのだ。
「すいませーん、この人が私の彼氏なんですよ、お・じ・さ・ん」さくらは最後の「おじさん」の箇所に思い切り力を込めた。
「おじさん」と呼ばれた配信者コンビは声にならないことをもぐもぐつぶやきながら、どこかに去っていった。「あ、俺たちを映さんでええの?おっ・ちゃ・ん!」伍條君はその背後からダメ出しをした。あかん、配信者コンビのライフはゼロや。繰り返してのおじさん呼ばわりは致命傷しか与えない。
「五條君、ありがとうね。カフェでいきなり絡まれて」
「いや、俺もちょっと仕事で手間取っちゃって…」
「じゃあ、私帰るね」さくらは配信者が去った方と逆の方向から帰ろうとした。伍条が慌ててさくらの腕を掴んだ。「いや、なんかさ、いきなりカップルはあれやけど…ええと、あの…あれやあれ、ら、ラインでも交換せえへん?」
帰宅して、さくらは今日の出来事を思い出していた。スイミングクラブの前で右手を高く上げ、握りこぶしを作るさくら、それを見て真剣な表情を浮かべる五條君、さくらの背後で息を呑んで成り行きを見守る配信コンビ。きっとめっちゃ絵画やったと思う。ヤン・ステーンなら笑いながら絵に描いてくれたと思う。「身の程知らずは失うばかり」なんて警告の紙も一緒に。そしてさくらの握りこぶしを瞬時にヘルプサインと理解した五條君も良かった。ハッとした表情は見事に絵になってたと思う。
夏休みが終わった。五條君は水泳部で頑張っているし、さくらはマイペースの読書生活を送っている。それでも放課後時間が合えば、さくらと五條君は一緒に帰るようになり、何となく休日に一緒にでかけることも多くなった。二人で居ても相変わらず絵の話に夢中だし、いきなり二人の空間配置やポージングにこだわったりするさくらだったが、五條君はそんなさくらを面白がっているようだ。さて明日のデートはどういう構図でキメようか。今日もさくらはそんなことを考えてニヤニヤしている。
図像学的恋愛論 南都大山猫 @bastet0929
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