影と氷の境界線
神崎諒
第一部:覚醒と選択
第1話 灰色の日常と黒い影
「だっる……」
放課後の気怠い空気の中、俺——神崎颯太は、教科書とノートを鞄に詰め込みながら、誰にいうでもなく呟いた。窓の外は西日に染まり始めている。特に予定もない、いつも通りの放課後。それが一番だ。波風立たない、平穏な日常。俺が愛してやまないもの。
俺がなぜこんなにも平穏を愛し、面倒事を嫌うのか。それは、多分、昔から損な役回りを押し付けられることが多かったからかもしれない。お人好し、といえば聞こえはいいが、要は断れない性格なのだ。頼まれごとを断れずに苦労したり、厄介事に首を突っ込んで痛い目を見たり。そんな経験を繰り返すうちに、いつしか「事なかれ主義」が身についていた。目立たず、騒がず、ただ静かに日常という名の穏やかな流れに身を任せていたい。それが、高校二年生になった俺の偽らざる本音だった。だから、この退屈かもしれないけれど平和な放課後の時間は、俺にとって何物にも代えがたい宝物なのだ。
教室にはまだ数人のクラスメイトが残って駄弁っている。その陽気な輪に加わる気にもなれず、俺はさっさと自分の席を立った。廊下を抜け、昇降口へ向かう足取りは軽い。早く家に帰って、昨日買ったばかりのゲームの続きがしたい。そんなささやかな楽しみが、今の俺の日常を彩る数少ない要素だった。
「神崎くん」
不意に背後からかけられた声に、俺は足を止めた。凛として、どこか硬質な響きを持つ声である。振り返ると、予想通りの人物が立っていた。今日転校してきたばかりのクラスメイト、月島栞だ。
腰まで届きそうな艶やかな銀髪に、吸い込まれそうなほど深い青い瞳。色素の薄い肌と整った顔立ちは、まるで精巧な人形のようだ。クラスの男子が(そして一部の女子も)色めき立つのも無理はない。だが、彼女が纏う空気は、その完璧な美貌とは裏腹に、人を容易に寄せ付けない冷たさを感じさせた。休み時間も誰と話すでもなく、一人静かに読書に耽っていた姿が思い出される。
「何か用?」
なるべく普段通りを装って尋ねる。だが、胸騒ぎがしていた。彼女のようなタイプが、わざわざ俺に声をかけてくる理由が見当たらない。面倒事の予感が、じわじわと背筋を這い上がってくる。
「少し、お話があります」
やはり、単なる世間話ではなさそうだ。彼女の口調は丁寧だが、有無を言わせぬ響きがあった。
「ここで?」
俺は周囲を軽く見回しながら聞き返す。まだ他の生徒もちらほらいる。
「場所を変えましょう。人目につかないところが望ましいです」
月島はきっぱりといった。ますます面倒くさい展開だが、彼女の真剣な眼差しから逃げることは許されない雰囲気だった。俺は内心で深くため息をつきつつ、表面上は平静を保って頷いた。
「……分かった。じゃあ、裏庭とかでいい?」
「ええ、構いません」
二人で連れ立って、人気のない校舎裏のスペースへと向かう。西日が壁に長い影を落としていた。裏庭に着くと、月島は俺から数歩の距離をとって立ち止まり、まっすぐに俺を見据えた。夕暮れの光を浴びて、彼女の銀髪がきらめく。
「単刀直入にお伺いします。神崎くん、あなたは『異能者』ですね?」
その言葉は、静かに、しかし鋭く俺の鼓膜を打った。心臓が嫌な音を立てて跳ねる。全身の血が急速に冷えていく感覚。なぜ、どうして、今日会ったばかりの彼女が、俺の、誰にも知られたくないはずの秘密を知っているんだ?
「……何のことだか、さっぱり分からないんだけど」
動揺を悟られまいと、必死で平静を装う。だが、口元が引き攣るのを感じた。月島の青い瞳は、俺の内心の動揺などすべてお見通しだといわんばかりに、静かに俺を捉え続けている。
「隠す必要はありません。昨夜、港区の倉庫街で発生した『原因不明の集団昏倒事件』。あなたはあの現場に居合わせ、そして、そこで異能を発現させました」
月島の言葉が、昨夜の悪夢を鮮明に蘇らせる。近道のために入った薄暗い路地裏。そこで目撃した異様な光景。黒いコートの男、苦しみ倒れる人々、そして自分に伸びてきた黒い煙の腕。死を覚悟した瞬間、足元の影に引きずり込まれ、気づけば別の場所にいた――あの不可解な現象。それが、俺の身に起きた変化。
「どうして、それを……あんた、一体何者なんだ?」
とぼけ続けるのは無意味だと悟り、俺は警戒心を露わにして問い詰めた。
「私は、政府の非公認組織『特異事象対策課』――通称『特対』のエージェント、月島栞です。本名は公開していません」
つまり、月島栞は偽名、ということだ。
「私たちの任務は、異能が関わる事象の調査、そして異能者の保護・管理、及び異能犯罪への対処です」
政府の組織? エージェント? 異能? まるで出来の悪いSFかスパイ映画の設定だ。だが、月島の揺るぎない態度と、昨夜の現実離れした体験が、それが嘘ではないと物語っていた。俺の知らない世界の扉が、目の前で軋みを立てて開いたような気がした。
「昨夜の事件は、『
月島は淡々と、しかし聞き取りやすい声で説明を続ける。彼女の話す内容は、俺の日常からかけ離れすぎていて、すぐには頭が追いつかない。
「私たちは、現場に残された痕跡と監視記録から、あなたが『鴉』の襲撃を回避した際に、新たな異能を発現させたと断定しました。あなたの異能は『影潜り――シャドウダイブ』。影から影へと瞬間移動できる、空間系列の希少な能力です」
そこまで調べ上げられているとは、まるで身ぐるみ全てを剝がされた気分だった。プライバシーも何もない。俺が望んでいた平穏な日常は、もうどこにもないのかもしれない。
「……それで、俺にどうしろっていうんだ? 監視対象としてマークするとか? それとも、何かヤバい能力だからって、どこかに隔離でもする気か?」
自嘲気味に問いかける。どうせろくなことにはならないだろう、という諦めの気持ちが強かった。
「いいえ。本来であれば、発現したばかりの異能者は保護観察下に置かれるのが通常です。ですが、あなたの能力は非常に有用性が高いと判断されました。そこで、私たちはあなたに『特対』への協力を要請したいと考えています」
「協力? そんなの無茶だな。俺は普通の高校生だ。昨日、わけも分からず力が使えるようになっただけの、ただの素人だぞ? そんな危険なことに首を突っ込むつもりはない」
俺は即座に拒否した。これ以上、面倒事に巻き込まれるのは絶対に嫌だ。平穏な日常を取り戻したい。ただ、それだけなのに。
「あなたの意思は尊重します。ですが、神崎くん、あなたは既に『奈落』にその存在と能力を認知されています。『鴉』は執念深い男です。一度目をつけた獲物を、そう簡単に見逃すとは思えません。我々の保護下に入るか、あるいは協力者となって自衛の手段を身につけるか。それが、あなたの身の安全を確保するための、現時点での最善策だと考えます」
月島の言葉は冷静だったが、その内容は俺に重い選択を迫るものだった。どちらを選んでも、以前のような日常に戻れないことは明らかだ。
「……少し、考えさせてくれ」
そう答えるのが精一杯だった。頭の中がぐちゃぐちゃで、まともな判断ができそうにない。平凡だったはずの日常が、足元から崩れ落ちていくような感覚に襲われる。
「分かりました。ですが、あまり時間は残されていないかもしれません。これは私の連絡先です。何か異変を感じたり、決心がついたりしたら、すぐに連絡してください」
月島はそういって、一枚のシンプルな名刺を俺に差し出した。白い厚手の紙に、名前と電話番号だけが印刷されている。その無機質な質感が、事態の深刻さを物語っているようだった。
「最後に一つ、忠告しておきます。あなたの『影潜り』は非常に便利な能力ですが、まだ制御が不安定なはずです。そして、異能の行使は大きなエネルギーを消耗します。無闇に使用することは避けてください。特に、人前での使用は絶対に。異能の存在は一般社会には秘匿されています。そして何より、『奈落』のような組織は、常に新たな異能者を、それも強力な能力を持つ者を探しています。不用意な能力使用は、彼らにあなたの居場所を教えることになりかねません」
その言葉は、警告であると同時に、俺の置かれた状況の危険性を改めて認識させるものだった。月島は軽く一礼すると、静かにその場を去っていった。夕闇が急速に辺りを包み込み始めている。一人残された裏庭で、俺はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
———どうして、俺なんだ。
その答えのない問いが、何度も頭の中をこだまする。
* * *
その夜、俺は自室のベッドの上で、月島から受け取った名刺をぼんやりと眺めていた。
『特異事象対策課 月島 栞』
現実味がなさすぎて、まるで手の込んだ悪戯の小道具のようだ。だが、昼間の彼女の真剣な眼差しを思い出すと、これが現実なのだと思い知らされる。
窓の外に広がるのは、いつもと変わらない彩波市の夜景。車のテールランプが流れ、街灯が等間隔に光を放ち、マンションの窓には温かな家庭の灯りが点っている。このありふれた、平和な光景のすぐ裏側で、人知れず異能者と呼ばれる存在がいて、組織が暗躍しているなんて、誰が想像できるだろうか。
自分の右手を持ち上げ、じっと見つめる。この手に、本当に影から影へ移動するなんていう、漫画みたいな力が宿っているのだろうか。半信半疑のまま、俺は試しにベッド脇の床に落ちる自分の影と、部屋の隅にある本棚の影を意識の中で繋げてみた。
――跳べ。
瞬間、視界がぐにゃりと歪み、一瞬の浮遊感の後、俺は本棚の前に立っていた。間違いない、成功だ。だが同時に、ずしりと重い疲労感が全身を襲う。短い距離の移動でさえ、この有様だ。月島のいった通り、制御も不安定だし、体力的な負担も大きいらしい。
俺は大きなため息をついた。
「マジかよ……最悪だ」
改めて、自分が『普通』ではなくなってしまった事実を突きつけられる。これから、俺はどうすればいい? 月島のいう通り、アビスとかいう連中に狙われているなら、もう以前のような平和な日々は望めないのかもしれない。考えれば考えるほど、気分が滅入ってくる。
――ピリリリリ!
思考の海に沈んでいた俺を、けたたましいスマートフォンの着信音が現実に引き戻した。画面に表示された名前は『健太』。クラスメイトで、数少ない気心の知れた友人だ。こんな時間に、一体何の用だろうか。嫌な予感が胸をよぎった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます