第15話 最後の選択
鏡の世界の玻璃の街。シンが「鏡の守護者」としての訓練を始めてから半年が過ぎていた。
琴音博士の指導の下、彼は鏡の力の本質を学び、二つの世界の境界を監視する方法を身につけてきた。その過程で、彼の体に残っていた鏡の性質は安定し、右腕の皮膚の下に微かに残る青い光沢以外は、普通の人間と変わらない姿に戻っていた。
この半年間、シンは鏡也とショウコと共に、新しい生活を築いていた。三人はそれぞれの役割—鏡の守護者、鏡の技術者、そして研究者として鏡の世界に溶け込みつつあった。
しかし、平穏な日々の中で、シンの心には常に不安があった。琴音博士の警告通り、二つの世界の境界は徐々に薄れつつあった。そして今日、彼らは重要な会議のために集められていた。
鏡の世界の中央評議会。硝子張りの大きな円形ホールに、重要な立場にある者たちが集まっていた。シンは鏡の守護者としての制服—青い上着に銀色の縁取りがある正装—を身につけ、ショウコと共に席に着いていた。
「始まるわね」ショウコは小声で言った。彼女は研究者としての白衣を着ていた。
ホールの中央にある円卓には、十二人の評議員に加え、琴音博士、そして鏡也の姿があった。鏡也は鏡の技術者として、黒と銀の制服を着ていた。彼の表情は硬く、緊張しているようだった。
最年長の評議員が立ち上がり、会議の開始を宣言した。
「集まりの皆様、今日はこの世界の存続にかかわる重大事項について話し合います」
彼は中央に設置された装置を起動した。ホログラムのような映像が空中に浮かび上がる。それは二つの球体—一つは青く、もう一つは赤く—が徐々に近づいていく様子を示していた。
「これが現在の状況です」琴音博士が説明した。「青い球体が鏡の世界、赤い球体が現実世界。八つ目の破片の力が弱まるにつれ、二つの世界は再び接近しています」
「接触までの時間は?」ある評議員が尋ねた。
「計算では、約一ヶ月」琴音博士は答えた。「接触が起これば、二つの可能性があります」
彼女はホログラムを操作した。一つ目の映像では、二つの球体が接触し、爆発的に崩壊していた。
「一つ目は、両世界の崩壊。二つの異なる現実が衝突し、互いに否定しあうことで、両方が消滅する可能性」
二つ目の映像では、球体が融合し、より大きな一つの球体になっていた。
「二つ目は融合。二つの世界が一つになり、新たな現実が生まれる。しかし、この過程で『矛盾』となる存在—同じ人物の二つのバージョンなど—は消滅します」
会場に緊張が走った。シンは前傾し、真剣に説明を聞いていた。
「対策は?」別の評議員が問いかけた。
ここで鏡也が立ち上がった。「私の研究チームは、三つの選択肢を提案します」
彼はホログラムを操作し、新たな映像を表示した。
「一つ目は強制分離」鏡也は説明した。「八つ目の破片の力を増幅し、二つの世界を再び遠ざける。しかし、これは一時的な解決策にすぎません。いずれ再び接近するでしょう」
二つ目の映像が表示された。
「二つ目は制御された融合。特殊な『鏡の門』を創り、二つの世界の融合を緩やかに進行させる。これにより、崩壊のリスクは減りますが、依然として多くの存在が『矛盾』として消滅します」
最後の映像が表示された。一人の人物が二つの球体の間に立っている姿。
「三つ目は『橋渡し』。適切な『鏡の素質』を持つ人物が二つの世界の間に立ち、両方の存在を調和させる役割を果たす。これにより、二つの世界は崩壊も融合もせず、並行して存在し続けることができます」
「この『橋渡し』を担える人物は?」評議員が鋭く尋ねた。
鏡也は一瞬躊躇い、そしてシンを見た。「私の弟、カガミ・シンが唯一の候補です」
会場に衝撃が走った。シンは身を固くした。ショウコが彼の手を強く握った。
「なぜシンなのか?」琴音博士が質問した。
「彼は両方の世界に存在した経験を持ち、『鏡の力』と共鳴する体質を持っています」鏡也は説明した。「そして、彼の中には『八つ目の破片』の欠片がまだ残っている。それが、彼を『橋渡し』の役割に適した存在にしています」
シンは自分の右腕を見た。皮膚の下に残る青い光沢。これが『八つ目の破片』の欠片だったのか。
「しかし、その役割には大きなリスクがあります」鏡也は続けた。「『橋渡し』となる者は、二つの世界の間に永遠に閉じ込められる可能性があります。彼は存在も非存在もないリンボ状態に...」
シンはゆっくりと立ち上がった。「俺にその役割の詳細を説明してもらえるか?」
鏡也は弟を見つめ、静かにうなずいた。「『橋渡し』となる者は、自分の意識と存在を二つの世界の間に拡張する。それにより、両世界の存在を認識し、調和させることができる。しかし...」
「しかし?」
「それは人間の意識が本来耐えられる限界を超えている」鏡也は率直に答えた。「あなたの記憶、あなたの人格、あなたの存在そのものが...変容する可能性がある」
「探偵として死ぬか、無名の男として生きるか...」シンは呟いた。
「何?」鏡也は混乱した顔で尋ねた。
「いや、何でもない」シンは首を振った。「他に選択肢はないのか?」
琴音博士が立ち上がった。「もう一つ...可能性があります」
彼女はショウコを見た。「ショウコさんの存在もまた特別です。彼女は『八つ目の破片』を作り出した人物であり、すでに一度、二つの世界の間に立った経験を持ちます」
ショウコは静かに立ち上がった。「私は...その可能性を考えていました」
シンは彼女を見つめた。「ショウコ...」
「私の研究が、すべての始まりでした」ショウコは静かに言った。「私が責任を取るべきです」
「でも、それは...」シンは言葉に詰まった。
「彼女が『橋渡し』となれば、二つの世界は安定します」琴音博士は続けた。「しかし、彼女もまた、永遠に二つの世界の間に閉じ込められることになるでしょう」
評議会は静まり返った。重大な決断が求められていた。
「時間が必要です」最年長の評議員が言った。「今日は情報の共有に留め、三日後に最終決定を行いましょう。それまでに、各自が考えをまとめてください」
会議は終了し、人々はホールから退出し始めた。シンとショウコ、鏡也は最後まで残った。
「私の選択を聞いて驚いたか?」鏡也がシンに尋ねた。
「少しね」シンは正直に答えた。「あなたは以前、世界の融合を望んでいた」
「私は...多くのことを学んだ」鏡也は窓の外を見た。「失われたものを無理に取り戻そうとする代わりに、今あるものを守ることの大切さを」
「兄さん...」シンは初めて心から尊敬の気持ちで兄を見つめた。
「でも、お前に『橋渡し』の役割を薦めたことは謝る」鏡也は真剣な表情で言った。「正直に言えば、別の選択肢を望んでいる」
「別の選択肢?」
「私が『橋渡し』になるべきだ」鏡也はきっぱりと言った。
「鏡也...」ショウコが驚いて声を上げた。
「私は元々、二つの世界の間に存在していた」鏡也は説明した。「私の魂はすでにその経験を持っている」
シンは黙って兄の言葉を聞いていた。確かに、鏡也は事故の後、鏡の世界と現実の間に閉じ込められていた。彼には経験があるのだ。
「三人とも、自己犠牲の準備ができているようね」琴音博士が近づいてきた。「しかし、最適な選択は慎重に考えるべきです」
「三日間...」シンは呟いた。「決断するには十分な時間だ」
三人は評議会を後にし、街へと戻った。夕暮れの光が玻璃の街を赤く染め、建物のガラスが美しく輝いていた。
* * *
その夜、シンはアパートのバルコニーに立ち、星空を見上げていた。ノックの音がして、振り返るとショウコが立っていた。
「入ってもいい?」彼女は静かに尋ねた。
「ああ」シンは彼女を招き入れた。
ショウコはバルコニーに出て、隣に立った。二人は無言で夜空を見つめていた。
「あなたが『橋渡し』になるつもり...それがわかるわ」ショウコが静かに言った。
「そんなに明白かな」シンは苦笑した。
「あなたの目を見れば分かる」ショウコは彼の顔を見つめた。「決意に満ちている」
シンは深く息を吸った。「俺には、それしかできない。責任を取るべきなのは俺だ」
「私も同じことを考えているわ」ショウコは静かに言った。「私の研究が、すべての発端だった」
「でも、それは愛からだった」シンは彼女の手を取った。「鏡也を救いたいという、純粋な思いから」
「愛は時に、最大の過ちを生むわ」ショウコの目に涙が浮かんだ。
「鏡也も『橋渡し』になりたいと言ってた」シンは言った。「三人とも、自分が犠牲になるべきだと考えているんだな」
静かな笑いが二人の間に広がった。悲しみの中にも、愛情が感じられる瞬間だった。
「私には分かるの」ショウコが真剣な表情になった。「あなたが選ばれるべき理由が」
「なぜだ?」
「あなたは鏡の力とのバランスを保っている」ショウコは彼の腕に触れた。「鏡也は鏡の世界に傾きすぎていて、私は現実世界に。でも、あなたは両方の要素を完璧なバランスで持っている」
「それは...」
「それに、私は鏡の世界の中心にいるの」ショウコは続けた。「私の存在が、二つの世界を繋いでいる。だからこそ、あなたとの『入れ替わり』が必要なの」
「入れ替わり?」シンは驚いた。
「そう」ショウコは静かにうなずいた。「私は現在、二つの世界を繋ぐ『核』になっている。それをあなたに譲り、私が解放される必要があるの」
「それは...永遠に鏡の中に閉じ込められることを意味する」シンは理解した。
「そう」ショウコは彼の目をまっすぐ見つめた。「でも、それが最善の道よ」
シンは深く考え込んだ。永遠に鏡の中に閉じ込められる。自分の人格、記憶、存在そのものが変容する。それは、探偵としての自分の死を意味した。
「俺は...覚悟を決めた」シンはついに言った。「俺が『橋渡し』になる。自分の記憶と引き換えに、硝子と街を救う」
「シン...」ショウコの目に涙が溢れた。
「最後に、一つだけ知りたい」シンは彼女を見つめた。「本当の硝子...あなたとの思い出を、完全に思い出したい」
ショウコは優しく微笑んだ。彼女は彼の額に手を当て、目を閉じた。光が二人を包み込み、シンの中に記憶が洪水のように流れ込んだ。
彼女との初めての出会い。共に事件を追った日々。徐々に芽生えた感情。初めてのキス。様々な思い出が鮮明に蘇った。
そして、最後の記憶。赤い部屋で、彼女が八つ目の破片を取り出したとき、彼女が最後に言った言葉。
「あなたを信じている、シン」
記憶が終わり、シンは目を開けた。彼の顔には涙が流れていた。
「思い出した...すべてを」
「記憶は永遠に消えないわ」ショウコは微笑んだ。「あなたの中に、私の中に、そして街の中に、永遠に生き続ける」
シンは深呼吸し、決意を固めた。「俺は探偵として、最後の事件を解決する」
彼は街を見渡した。かつて彼が守ろうとした玻璃の街。そして、これから守るべき二つの世界。
「準備はいい?」ショウコが尋ねた。
「ああ」シンは微笑んだ。「心の準備はできた」
二人は静かに寄り添い、夜空の星を見つめていた。彼らの前には困難な道が待っていたが、その瞬間だけは平穏だった。最後の平穏。
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