第10話 禁じられた名前
シンは市庁舎に向かって歩いていた。
半分が鏡のように輝く体で、崩壊しつつある街を進む。足元の地面は揺れ、建物は透明で、空は現実と鏡の世界の境界が溶け合うように奇妙な色に染まっていた。
彼の頭の中では、三つの夢で見た記憶のピースが完全に組み合わさっていた。すべての真実を知った今、彼には明確な目的があった。市庁舎の地下にある鏡の扉に行き、自分の中の鏡の破片を使って本物の硝子を解放すること。
しかし、彼の心には疑問も残っていた。
「本当に俺が彼女を救えるのか...」
彼は立ち止まり、自分の体を見つめた。右半身は完全に鏡のようになり、左半身も徐々にその変化が進んでいた。自分自身が消えゆく存在だということが、痛いほど実感された。
「最後の被害者...ショウコ・カガミ...」
彼は呟いた。夢の中で、鏡也は彼女が最後の被害者だと告げた。しかし、それは彼が知る硝子とは異なっていた。硝子は探偵の記憶から生まれた存在。一方、ショウコは鏡也の妻であり、シンの義姉だった。
「何か...見落としている...」
シンは考え込んだ。そのとき、不意に空気が震えるような感覚があり、彼は後ろを振り返った。
そこには硝子が立っていた。
「硝子...!」シンは驚いて叫んだ。「消えたはずでは...」
彼女の姿は前とは違っていた。半透明ではなく、まるで実体を持ったように見える。赤いドレスは鮮やかに輝き、黒髪は風に揺れていた。しかし、その目には深い悲しみが宿っていた。
「シン...」彼女は静かに呼びかけた。「もう一度だけ、話をさせて」
「どうして...」シンは混乱した。「君はもう消えたはずだ」
「この姿は一時的なもの」硝子は説明した。「街が完全に消える前の、最後の瞬間。私に残された時間はわずかよ」
シンは彼女に近づこうとしたが、硝子は僅かに身を引いた。
「近づかないで」彼女は言った。「この姿も幻影のようなもの。触れることはできないわ」
「何を話したい?」シンは尋ねた。「俺はすべてを知った。鏡也が犯人だということも、本物の硝子が彼の妻で俺の義姉だったことも」
硝子は首を横に振った。「それだけじゃない。まだ知らない真実があるわ」
「何だ?」
「最後の被害者...ショウコについて」硝子は静かに言った。「彼女は確かに鏡也の妻だった。でも、彼女がどうなったのか、あなたはまだ知らない」
シンは緊張した表情で彼女を見つめた。「教えてくれ」
硝子は深く息を吸い、話し始めた。
「あなたは鏡也が最後の被害者を殺したと思っている。でも...違うわ」
「どういうことだ?」
「探偵が事件を解決するために、私を消したの」硝子の目から涙が流れた。
「何...?」シンは衝撃を受けた。「俺が...?」
「そう」硝子はうなずいた。「あなたが彼女を消した。それが真実」
シンは頭を抱えた。体が震え、心臓が早鐘を打つのを感じた。
「嘘だ...俺が義姉を...?なぜ俺がそんなことを...?」
「彼女自身が望んだから」硝子は静かに続けた。「すべてを終わらせるための、唯一の方法だったの」
シンの記憶が薄皮を剥がすように戻ってきた。あの日、赤い部屋で...
「赤い部屋で...俺と硝子は鏡也の計画について話していた」シンは震える声で言った。「そこへ鏡也が現れ...」
「鏡也が現れ、あなたたちを消そうとした」硝子は続けた。「でも、彼の本当の狙いは硝子だけ。彼女を七人目の犠牲者にするつもりだった」
「そして...?」
「硝子はあなたに言ったの」彼女の声は静かだった。「『私を消して』と」
シンの頭に激しい痛みが走った。記憶の最後のピースが戻ってくる。
彼は赤い部屋で、硝子—ショウコ・カガミと共にいた。二人は鏡也の計画を阻止するための最後の手段について話し合っていた。そこへ鏡也が現れ、鏡の破片を掲げた。
シンは硝子を守ろうとしたが、彼女は彼を押しとどめた。そして彼女の耳元でこう囁いた。
「私を消して。そうすれば、鏡也の計画を挫くことができる」
ショウコは自らの研究で作った特別な鏡の破片をシンに渡した。それは八つ目の破片。他の七つとは性質の異なる特別なものだった。
「私を消せば、鏡の扉は開かない。代わりに、世界は分離する。そうすれば、少なくとも片方の世界は救われる」
シンは激しく抵抗した。しかし、鏡也の攻撃から彼女を守る時間はなかった。ショウコは最後にこう言った。
「私を信じて。これが唯一の方法。私の魂は鏡の中に残る。いつか、あなたが私を見つけ出す」
迷いの中で、シンは八つ目の破片をショウコに向けた。光が放たれ、彼女の体が透明になっていく。最後に見たのは、彼女の微笑む顔だった。
そして同時に、鏡也の放った鏡の破片がシンの胸を貫いた。激しい痛みと共に、彼の意識は闇に落ちていった...
「思い出したわね」目の前の硝子が言った。
「俺が...彼女を消した」シンは震える声で認めた。「彼女の願いで...」
「そう」硝子はうなずいた。「あなたは彼女の願いを叶えた。そのおかげで鏡也の計画は完全には成功しなかった。二つの世界は融合せず、分離された」
「でも、俺は...」シンは言葉に詰まった。「自分の手で最愛の人を...」
「彼女は知っていたのよ」硝子は優しく言った。「自分が犠牲になれば、二つの世界のうち少なくとも一つは救われると」
「だから俺は記憶を失った...」シンは理解した。「あまりにも辛い真実から逃れるために」
「そう」硝子はうなずいた。「あなたの心は真実を受け入れられなかった。そして記憶を閉じ込め、この崩壊する世界に取り残された」
「でも、なぜ君は...」シンは混乱した。「君は最初から知っていたのか?それなのに俺を導いた?」
「私はあなたの記憶と街の記憶から生まれた存在」硝子は説明した。「あなたの中にあった真実の欠片と、街に残された記憶が形になった。そして私は、あなたが真実を受け入れ、本物の硝子を救うのを手伝いたかった」
シンは沈黙した。すべての真実を知った今、彼の心には深い後悔と悲しみが広がっていた。
「だから、あなたの体が透明になっていくのよ」硝子は彼の体を見つめた。「あなたの罪の意識が、あなたの存在そのものを否定している」
「そして、鏡也は...?」シンは尋ねた。
「彼は今も鏡の世界にいるわ。そこでの彼は、この世界でのあなたとは別の運命を歩んでいる。鏡の世界では、彼の計画は成功しなかった。そして彼は...囚われている」
「どこに?」
「鏡の向こう側に」硝子は答えた。「彼自身が作り出した迷宮の中に」
シンは市庁舎を見つめた。「そして、本物の硝子は...」
「彼女の魂は鏡の中に閉じ込められたまま」硝子は悲しげに言った。「彼女を解放できるのは、あなただけ。あなたの中にある鏡の破片が、唯一の鍵」
「そのためには俺が消えなければならない」シンは静かに言った。
「そう」硝子はうなずいた。「あなたの存在と引き換えに、彼女は解放される。それが最後の真実」
シンは長い沈黙の後、決意を固めた。「理解した。俺は彼女を救う」
「本当に?」硝子の目に光が宿った。「あなたの存在が消えるのよ?」
「それでいい」シンは微笑んだ。「俺が彼女を消した。今度は俺が彼女を救う番だ」
硝子の体が揺らめき始めた。彼女の姿が徐々に透明になっていく。
「時間がないわ...」彼女は急いで言った。「市庁舎の地下へ行って。鏡の扉に、あなたの中の破片を使って」
「わかった」シンはうなずいた。「最後に一つだけ。君は...本当の硝子なのか?それとも記憶から生まれた存在なのか?」
硝子は微笑んだ。その表情には、これまで見たことのない優しさと深い感情があった。
「両方よ」彼女は答えた。「私は彼女の魂の一部。鏡に閉じ込められた魂の一部が、あなたの記憶と結びついて生まれた存在。だから私は彼女であり、同時にあなたの記憶でもある」
「だから君だけが俺を導くことができた...」シンは理解した。
「そう」硝子の姿はますます薄くなった。「最後に伝えたいことがあるわ」
「何だ?」
「彼女の最後の言葉...『私を信じて』」硝子の声も遠のき始めた。「その言葉の本当の意味を、鏡の扉で見つけて」
「待ってくれ!」シンは叫んだが、遅かった。
硝子の姿は完全に消え、彼は再び一人残された。空は奇妙な色に染まり、建物は不完全な残像のように揺らめいていた。世界の崩壊が加速していることを感じた。
シンは市庁舎に向かって歩き出した。もはや迷いはなかった。ただ一つの目的だけがあった。本物の硝子—ショウコ・カガミを救うこと。たとえ自分の存在が消えようとも。
彼の体は歩くにつれてさらに変化し、鏡の性質を強めていった。左半身も大部分が鏡のように輝き、人間らしさを失いつつあった。
市庁舎に辿り着いたとき、シンは空を見上げた。かつての玻璃の街は、もはや幻のようになっていた。これが最後の旅となることを、彼は知っていた。
「ショウコ...もうすぐだ」
シンは市庁舎の中に入っていった。最後の真実と、最後の選択が彼を待っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます