第8話 消えた真実
暗闇の中、探偵は走っていた。
前方に一筋の光が見え、彼はそれに向かって必死に足を動かす。光源に近づくにつれ、それが鏡であることがわかった。巨大な鏡が暗闇の中に浮かび、輝いている。
鏡に近づくと、そこに映るのは自分自身ではなく、双子の兄、鏡也の姿だった。二人は鏡を挟んで向かい合った。
「どうして...」探偵は問いかけた。
鏡也は何も言わず、手を差し出した。その手には三角形の鏡の破片があった。破片が強い光を放ち、探偵の視界が白く染まる。
そして鏡也の声が聞こえた。「三回目で終わりだ...」
* * *
「っ!」
探偵は汗だくで目を覚ました。窓から差し込む朝日が彼の体を照らし、透明な右半身と、透明になりつつある左半身を浮かび上がらせていた。
彼は胸に手をやった。昨日激しく痛んでいた心臓部分の痛みは消えていた。しかし、透明な体の内側に、鏡の破片が埋まっているのがはっきりと見えた。
「まるで...時限爆弾のようだ」
探偵は呟きながら立ち上がった。外を見ると、玻璃の街はさらに崩壊が進んでいた。建物はほぼ完全に透明になり、輪郭だけが薄く残っている状態だった。地面も不安定で、歩くとわずかに揺れた。
「このままでは...」
「あと三日しかないわ」
突然聞こえた声に、探偵は振り返った。そこには硝子が立っていた。
「硝子!」探偵は驚いて叫んだ。「君は消えたはずでは...」
「完全には消えていないの」硝子は微笑んだ。彼女の姿はこれまで以上に透明で、ほとんど幽霊のようだった。「街が完全に消えない限り、私も形を保っていられる」
探偵は彼女に近づこうとしたが、硝子は静かに手を振った。「近づかないで。私の存在はもう非常に不安定よ。触れようとすれば消えてしまうわ」
「君が消えた後、私は...」
「知っているわ」硝子は静かに言った。「あなたが鏡の世界で見たこともね。胸の鏡の破片のことも」
「見ていたのか?」
「私はあなたの中にもいるの」硝子は説明した。「街の記憶であり、あなたの記憶の具現化。だから、あなたが見たことは私も知ることができる」
探偵は窓辺に腰掛けた。「あの鏡の破片...なぜ俺の中にあるんだ?」
「それが、あなたがまだ存在している理由」硝子は真剣な表情で言った。「鏡也があなたと本物の硝子に鏡の破片を向けたとき、あなたたちは『消された』。でも、破片の一部があなたの体内に残った。それがあなたをこの世界に繋ぎ止めているの」
「だから俺だけが戻ってきた...」探偵は理解した。「では、本物の硝子は?」
「彼女の中に破片はなかった」硝子は悲しげに言った。「だから彼女は完全に消された...どこかに」
探偵は立ち上がり、部屋の中を歩き回った。「鏡の世界の俺は...俺ではないのか?」
「違うわ」硝子は首を振った。「あれは『もう一人のあなた』。あなたが分離された結果よ。記憶を持つあなたと、肉体だけのあなた...」
「複雑すぎる...」探偵は頭を抱えた。
「あなたは今、重要なことを知るべき時にいる」硝子は話題を変えた。「あなたはあと三回、夢を見ることができる」
「三回...」探偵は先ほどの夢を思い出した。鏡也の言った「三回目で終わり」という言葉。
「そう」硝子は厳粛な表情で言った。「三回のうちに真実を見つけなければ、あなたも私も消えてしまう。そして、街も完全に消失する」
「どういうことだ?」
「あなたの胸の鏡の破片」硝子は説明した。「それは徐々にあなたの存在を侵食している。三回目の夢の後、破片はあなたを完全に消し去るわ。そして、あなたが消えれば、私も消える。街も同様に」
探偵は重い沈黙の中で考え込んだ。「三回の夢...」
「それぞれの夢で、あなたは過去の記憶の一部を見ることになる」硝子は続けた。「一回目の夢ではすでに、鏡也との関係の一端を見た。二回目、三回目で、さらに真実に近づくはず」
「夢を見るには、どうすればいい?」
「眠るだけよ」硝子は答えた。「鏡の破片があなたの中にある限り、夢は自然と現れる。でも...夢の中で見る真実に耐えられるかどうかは、あなた次第」
探偵は窓の外の崩壊した街を見つめた。「真実を知る前に、もっと教えてほしいことがある」
「何かしら?」
「本物の硝子について」探偵は振り返った。「彼女は...どんな人だったんだ?俺たちの関係は?そして、なぜ彼女が事件に関わっていたのか?」
硝子は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。「本当の硝子は...あなたが最も信頼していた相手だった」
「恋人だったんだろう?」
「それだけじゃない」硝子は首を振った。「恋人であり、同僚であり、そしてなにより...共犯者だった」
「共犯者?」探偵は驚いて声を上げた。
「そう」硝子はうなずいた。「彼女はあなたと一緒に、鏡也の計画を阻止しようとしていた。彼女はかつて鏡也の研究のパートナーだったの。『鏡の力』についての知識を持っていたのは、彼女だけだった」
「だから彼女が狙われたのか...」
「彼女はすべての事件の鍵を握っていた」硝子は続けた。「犠牲者たちの選び方、鏡の破片の力、鏡也の真の目的...すべてを知っていたの」
「では、なぜ彼女が消されたのかも知っているんだな?」
「それが...」硝子は言葉を切った。「私には完全にはわからないの。私は彼女の記憶の一部分だけ。彼女の知識のすべてではない」
「どういうことだ?」
「私は...あなたが知っていた硝子の部分だけよ」硝子は説明した。「あなたの中にある彼女の姿。でも、本物の硝子にはあなたも知らない部分があった。彼女自身の秘密、思い、計画...」
「彼女には秘密があったのか」探偵は思案した。
「おそらく」硝子はうなずいた。「なぜ彼女が最後に消されたのか。それは彼女だけが知っていた真実があったからかもしれない」
探偵は深く考え込んだ。本物の硝子の姿が少しずつ鮮明になってきた。単なる恋人ではなく、事件の重要な鍵を握る人物。鏡也の研究を知る人物。そして、自分自身のパートナーでありながら、秘密を持っていた人物。
「彼女を救うことはできるのか?」探偵は静かに尋ねた。
硝子は窓の外を見つめた。「可能性はあるわ。でも、それにはあなたが真実を知り、受け入れる必要がある」
「どんな真実でも」探偵は決意を固めた。
「それでいいの」硝子は微笑んだ。「では、二回目の夢に備えて」
「今すぐに?」
「時間がないの」硝子は痛切な表情で言った。「街はもうすぐ完全に消える。あなたの体も同じよ」
探偵は自分の体を見た。右半身は完全に透明で、左半身もかなり透明になっていた。胸の鏡の破片は強く光り、その光が体内に広がりつつあった。
「わかった」探偵はベッドに向かった。「でも、最後にもう一つだけ」
「何?」
「俺の名前」探偵は振り返った。「本当の名前を教えてくれ」
硝子は一瞬躊躇ったが、やがて静かに口を開いた。「カガミ・シン。それがあなたの名前」
「カガミ...」探偵—シンは名前を繰り返した。何か懐かしい響きがあった。「では、鏡也の本名は?」
「カガミ・キョウヤ」硝子は答えた。「鏡の双子...シンとキョウヤ」
シンはベッドに横になった。「俺が夢から目覚めたとき、君はまだここにいるか?」
「できる限りね」硝子の声は弱々しかった。「でも約束はできないわ。私の存在はますます不安定になっているから」
「わかった」シンは目を閉じた。「じゃあ、行ってくる」
「気をつけて」硝子の声が遠のいていく。「夢の中で見つけるものは、痛みを伴うかもしれないわ...」
シンは徐々に眠りに落ちていった。胸の鏡の破片が強く脈打ち、光を放っている。その光が彼の意識を包み込み、彼は夢の世界へと沈んでいった。
二回目の夢が始まろうとしていた。そこには、消えた真実が待っているはずだった。
* * *
夢の中、シンは玻璃の街を歩いていた。しかし、それは彼が知る廃墟でも、鏡の世界の完全な姿でもなかった。その中間のような、薄暗く、雨の降る街だった。
建物は存在するが、わずかに透明。人々も歩いているが、皆どこか焦燥感を抱えているように見えた。
シンは自分がどこにいるのかを理解した。これは街が消え始める直前の姿だった。七人目の被害者が消えた直後、街全体が消失し始めた時期。
彼は無意識のうちに足を動かし、特定の場所へと向かっていた。かつて自分が行ったであろう道を辿る。
やがて彼は小さなカフェの前に立った。中を覗くと、テーブルに一人の女性が座っていた。赤いワンピースを着た女性—本物の硝子だった。
シンがカフェに入ると、彼女は顔を上げた。彼を見た瞬間、彼女の顔に安堵の表情が広がった。
「シン!やっと来たのね」
彼女の声は、現在の硝子と似ていながらも、より力強く、生命力に満ちていた。
シンは彼女の向かいに座った。この瞬間、彼は完全に夢の中の自分になっていた。記憶を持ったシン。まだ事件の最中にいるシン。
「遅くなってすまない」彼は言った。「鏡也の追跡に時間がかかった」
「見つけたの?」硝子の目が期待に輝いた。
「ああ」シンはうなずいた。「彼は市庁舎の地下にいる。鏡の扉の前だ」
硝子の表情が暗くなった。「やはり...」
「七人目の犠牲者を得て、彼は扉を開こうとしている」シンは続けた。「今夜、彼の計画が完成する」
「止めなければ」硝子は決然と言った。「私たちだけが知っているの...彼の真の目的を」
「鏡の世界と現実を融合させる」シンは静かに言った。「彼は二つの世界の境界を崩壊させようとしている」
「そうすれば、失われた者たちを取り戻せると彼は信じているわ」硝子は悲しげに言った。「でも、そんなことをすれば...」
「両方の世界が崩壊する」シンは言葉を継いだ。「鏡也は理解していない。二つの世界は共存できても、一つにはなれない」
硝子はテーブルの上に一枚の写真を置いた。それは幼い頃のシンと鏡也だった。
「彼が本当に取り戻したいのは...」
「あの日に失ったもの」シンは写真を見つめた。「七年前...」
突然、カフェの窓ガラスが大きく揺れた。まるで波打つように。二人は驚いて立ち上がった。
「始まった」硝子が叫んだ。「鏡也が扉を開こうとしている!」
二人は急いでカフェを出た。外では奇妙な現象が起きていた。建物や人々が時々透明になり、またすぐに戻る。空には奇妙な光の渦が形成されつつあった。
「市庁舎へ!」シンは叫んだ。
二人は走り出した。しかし、街の状態はどんどん悪化していた。道路が揺れ、建物が歪み、人々が恐怖に叫んでいた。
市庁舎に近づくと、建物全体が青白い光に包まれていた。入口には数人の警官が倒れており、意識を失っているようだった。
「地下へ!」硝子が言った。
二人は急いで階段を下りた。階段を下るにつれ、周囲の現実感が薄れていくのを感じた。まるで夢と現実の境界を超えるように。
地下の大きな部屋に着くと、そこには鏡也が立っていた。巨大な鏡の扉の前で、彼は何かの儀式を行っているようだった。鏡の周りには七つの小さな鏡の破片が円を描くように配置されており、それぞれが強い光を放っていた。
「鏡也!」シンは叫んだ。
鏡也は振り返った。彼の顔はシンと瓜二つだったが、目の色が微妙に異なっていた。そして何より、その表情には狂気の色が見えた。
「遅かったな、弟よ」鏡也が微笑んだ。「もう止められない。扉はもうすぐ開く」
「やめろ!」シンは一歩前に出た。「そんなことをすれば、両方の世界が崩壊する!」
「崩壊?」鏡也は首を傾げた。「違う。新しい世界が生まれるんだ。鏡と現実が一つになった完璧な世界が」
「そんな世界は存在できない」硝子が言った。「二つの世界は別々にあるべきなの」
鏡也は硝子を見て、表情が変わった。「硝子...君まで俺に反対するのか。君は理解してくれると思っていたのに」
「私は理解している」硝子は静かに言った。「だからこそ止めなければならないの」
「七年前の約束を忘れたのか?」鏡也の声は苦しげだった。「俺たちは誓ったはずだ...失ったものを取り戻すと」
「あの約束は...」シンは言いよどんだ。頭に激しい痛みが走った。何か重要な記憶が蘇りそうで、しかし抵抗があった。
「思い出せないか?」鏡也は嘲笑した。「都合の悪いことは忘れる...それがお前の悪い癖だ」
鏡の扉が振動し始めた。七つの破片からの光が強まり、扉に集中していく。
「もう遅い」鏡也は満足げに言った。「扉は開く。そして、すべてが一つになる」
シンは硝子を見た。彼女の表情には決意があった。
「最後の手段よ」彼女は小声で言った。
シンはうなずいた。彼らには計画があった。最悪の場合の備え。
硝子がポケットから小さな物体を取り出した。それは八つ目の鏡の破片だった。他の七つとは違う、特別な破片。
「それは!」鏡也は驚愕の表情を浮かべた。「どこで手に入れた?」
「私が作ったのよ」硝子は冷静に言った。「あなたの研究から学んで」
「馬鹿な...それを使えば...」
「わかっているわ」硝子は悲しげに微笑んだ。「でも、他に方法はない」
彼女はシンに小さく頷いた。そして、破片を掲げた。
「やめろ!」鏡也が叫んだ。
しかし、遅かった。硝子が破片を鏡の扉に向けた瞬間、強烈な光が部屋中を包み込んだ。シンは硝子を守ろうと彼女に飛びついた。
光がさらに強まり、シンの意識が薄れていく。最後に見えたのは、驚愕の表情を浮かべる鏡也と、彼の手に握られた何かだった。
そして、すべてが白く染まった。
* * *
「っ!」
シンは汗だくで目を覚ました。胸の痛みが激しく、呼吸が苦しかった。
「硝子...!」
彼は周囲を見回した。事務所は前よりもさらに透明になり、ほとんど幻のようだった。窓の外の街も同様で、ほとんど何も見えなくなっていた。
「硝子...どこだ?」
返事はなかった。シンは立ち上がり、事務所の中を探した。しかし、彼女の姿はどこにもなかった。
「消えたのか...」
シンは窓辺に立ち、自分の体を見つめた。右半身は完全に透明で、左半身もほとんど透明になっていた。胸の鏡の破片の光は強まり、体内全体に広がっていた。
「二回目の夢...」シンは呟いた。「真実が少しずつ見えてきた」
彼は夢で見たことを整理した。鏡也の計画、鏡の扉、二つの世界の融合...そして何より、硝子の決断。彼女は何か「最後の手段」を実行したようだった。その結果が、現在の状況につながっているのだろうか。
部屋の隅に小さな光が見えた。シンが近づくと、それは硝子の姿だった。しかし、もはや人の形をしているとは言い難く、小さな光の集合体のようになっていた。
「硝子...?」
「まだ...ここよ...」かすかな声が聞こえた。「でも...もう長くは...」
「三回目の夢の前に消えてしまうのか?」
「おそらく...」光の集合体が微かに揺れた。「でも...大丈夫...あなたの中にも...私はいる...」
「三回目の夢で、すべての真実がわかるのか?」シンは尋ねた。
「そう...」硝子の声はさらに弱まっていた。「鏡也の真の目的...七年前の約束...そして...あなたの罪...」
「俺の罪?」シンは驚いた。
「受け入れて...」硝子の姿がさらに薄れていく。「すべてを...受け入れれば...救いがある...」
「硝子!」シンは叫んだが、光はすでに消えつつあった。
「最後に...」硝子の声はもはやかすかなささやきだった。「本当の硝子は...あなたを...」
最後の言葉は聞こえなかった。光は完全に消え、部屋には再び静寂が訪れた。
シンは膝をつき、床に拳を打ちつけた。「くそっ...!」
彼は立ち上がり、窓の外を見た。世界はもはや存在しているとは言い難い状態だった。そして、彼自身も同様だった。
「三回目...」シンは決意を固めた。「すべての真実を知り、受け入める。それが、本物の硝子を救う唯一の方法だ」
彼は胸の鏡の破片に手を当てた。痛みはあったが、それは彼がまだ存在している証だった。
「最後の夢に備えよう」
シンは再びベッドに横たわった。彼の体は徐々に光に包まれ始めた。三回目の夢—最後の真実への旅が、もうすぐ始まろうとしていた。
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