家族を守る為なら、俺は何度でも死ねる
此日トーヤ
プロローグ 世界一不運な少年の死
——ぐちゅり
それは、濡れた雑巾を握り潰したような、鈍く湿った音だった。
最初に感じたのは、得体のしれない謎の浮遊感と、腹部に伝わる窮屈感。
自身の足には地面を踏みしめる感覚はなく、身体がゆっらゆらと揺れているのをぼんやりと認識する。
(ここ……どこだ?)
壊れたブラウン管テレビのように、頭の中でザァザァと不気味なノイズが鳴る。
その雑音よって薄れていた意識を取り戻した少年——
(……あか……?)
視界に飛び込んできたのは一面の赤。
周囲が赤いのではなく、自身の視界そのもの赤く染まっているのだと理解するまでに数秒を要した。
赤く染まった視界の先。
朽ちたビル、ひび割れた道路。そこに人の気配はない。
次に視界に捉えたのは、自分の腹部へと伸びる細長い何か。
それは白地の部分が無くなったシャツを押し込むように突き刺さり、そこからは赤々とした血が溢れている。
理解が追い付かないまま、ポタポタと垂れる血の音だけがやけに鮮明に耳に届く。
(……?)
自分の腹部に突き刺さった何かへと視線を這わせ、それが何なのか確かめるべく頭部を動かす。
その視線の先にあったのは、幾枚もの花弁を携えた大きな花。
美しさすら感じてしまう程の、柔らかさを思わせる鮮やかな花弁の頭部を持つ異形の怪物。
その細長い茎が、腹を貫いていた。
(なんだこれ、夢————?)
現実離れした光景を前に、
今目にしているものは夢なのか、そんな事を考えてしまう程に置かれている状況は非現実的だった。
だが、そんな思考を否定するかのように、徐々に覚醒していく意識と共にじんわりと熱を帯びる痛みが腹部から広がっていく。
「ご……ぼッ……!」
喉の奥が焼ける。熱い、苦い、酸っぱい何かが逆流し、口の端から零れ落ちる。息ができない。
腹部から広がった痛みはもはや無視できない程に大きくなっており、
そこでようやく、
これは夢や幻などでは無い、れっきとした現実であり、自分が今、死の淵に立たされている。
いや、死の淵から突き落とされようとしている事を。
(痛い、痛い熱い痛い痛い熱い————!!)
脳内を埋め尽くすのは、熱と錯覚するほどの痛みと目の前に迫った死の恐怖。
それらから逃れようと口を開くも、そこから零れるのは詰まった排水溝のような湿った水音だけだ。
視界の端で、異形の怪物が蠢く。
花弁の怪物はまるで咲き誇る花が風に揺られるかのように、ゆらりと頭部を傾けて
まるで楽しんでいるかのように、ゆっくりと頭部を傾ける。
次の瞬間——花弁同士がこすれ、不快な「キィィィィィ……」という音が鳴り響いた。
「っ、……ッソ、ォ……!」
自身の死を一つの娯楽として消耗しようとしているその怪物を前に、
痛みと恐怖で埋め尽くされる体を怒りで無理やり動かし、激情のままに握りしめた拳を怪物へぶつけるために持ち上げた。
その瞬間、ずるりと音が鳴って腕の感覚が消える。
——べちゃり
水気を含んだ何かが落ちた音。それが自分の腕が溶けて落ちた音だと気づいたのは、一拍遅れてからだった。
「——————は?」
地面に落ちたソレにはもう人の腕であった頃の面影はなく、地面にぶつかった衝撃で破裂したのか、半液状になって甘い香りを放ち続けている。
そんな凄惨な光景を皮切りに、
「なんで、おれのうで……」
視界に飛び込んできた非現実的な光景を前に、
そんな思考が出来るほど、
甘い香りと共に溶けて
そんな末路に満足したかのように異形の怪物がその細長い腕を蠢かせ、半液状となっていた
——ベシャッッ!!
およそ人の体からするような音ではないような、水っぽい音を立てながら
地面へと叩きつけられた少年だったモノには、もう手足と呼べるものは無く不格好な芋虫か、もしくは衣服を飾るトルソーのようにも見える。
「……吾!!……う……!!」
既に首や瞼の筋肉も腐敗し蕩けてしまった
長いポニーテールの先を赤く染めた少女が、死にゆく人を前に表情を絶望に染めながら祈るように必死に叫んでいる。
その少女を視界に収めてすぐに、
(クソ、目まで溶け——)
霞んでいく視界と、広がる不快感。満足に光を捉えなくなった瞳ではハッキリと見る事は出来ない。
だが、モザイク越しの視界でも自分を殺した異形の怪物が一歩、また一歩と恐怖心を煽る様なゆっくりとした足取りでその少女へと迫っていくのは判別出来た。
「と……うか……にげ——!」
それは、たった数日前に出来た友人を気遣った叫び。
もう既に自分が助からない事を悟り、せめて自分以外だけは助かって欲しいと願う、非力な叫び。
だが、その叫びと志半ばで不自然な水音が混じって途切れてしまう。
既にその体は生物のものではない。つい数分前までは自分の体だった溶けた肉と血の水たまりの中で、
(——あぁ、これが俺の最期か……)
僅か十七年と少しの人生。その最期の直前でも、その頭を埋め尽くしたのは恐怖では無かった。
(
思い浮かべるのは、自分に残された最愛の家族の姿。
突如いなくなった父親に代わり、たとえ自分を捨ててでも守り育てようと誓った妹たち。
彼女たちを守るためならば、どんな事でもして来た。
だが、それもここで終わり。陽の光すら当たらない異界の中で自分は死に、行方不明として処理され妹たちの元へは骨すら戻らないだろう。
『——君には、魔術の才能があると思うよ』
次々と映り替わる走馬灯の中で、そう自分へ微笑む女性の姿が浮かぶ。
(もし、俺に本当に魔術の才能があるなら、妹達を、皆を守れる力が——!!)
心の中で上げた叫び声。
その全てを叫び切る前に、テレビの電源が切れる様に、プツンと少年だった物の意識が途切れた。
《次回予告》
守るために離れた少年と、ただ隣にいたかった少女。
「巻き込むつもりはない」その言葉が、誰より彼女を傷つけた——
——次回、『隣にいたいだけなのに』
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