第7話


 翌日の朝七時、私が目を覚ました時にはやっぱりトマはもう居なかった。

だいぶ早く彼が家を出たのは気づいていた。


 このアパートは一階が駐車場になっていて、その出入り口にあたる部分のちょうど二階に私とトマは住んでいる。

駐車場に車の出入りがある時は、電動式の扉をリモコンキーで開閉する必要があるのだが、その電流が扉に伝わる音と、重い扉が開閉する音は、真上の私達のアパートまで響く。


朝方、私はその音を聞いていた。


薄ら目を開けてみると、隣で寝ていたはずのトマがいなかった。

窓の方に目をやるとまだ空が暗かったから、そのまま私はまた眠りについた。


きっとあの時の音がトマだったのだろう。



 朝食を食べ終わると、ソファーの上に横になり、窓から見える灰色の空をぼんやりと眺めた。


重い雲がのしかかるように広がっていて、雨が降りそうな天気だった。


しかし、昨日まであんなにトマに居てほしいと思っていた週末は、実際、当日になってみると全くといっていいほど、何も感じなかった。

むしろ、一人きりで居ることがとても心地良くさえ感じた。



いつもなら偏頭痛に悩まされるこの気が重くなるような薄暗い天気も、まるで青空を仰いでいるかのように清々しく、心が穏やかでいられた。


昨日は何に対して私は苛立っていたのか、振り返ってみるが、自分でも不思議なほど分からなかった。


 ふと、実家の両親を思い出してスマートフォンを手に取り、通話アプリを開く。

母親との通話履歴を見ると、最後に連絡をしたのはひと月半前だった。いつもは決まって平日の昼時で、思いついた時に電話をするようにしていたが、ひと月半も連絡しなかったのは初めてだった。


トマが日本語を話せないから、彼の仕事が休みの週末は電話を控えていたが、今日みたいな日は時間を気にせず、ゆっくり話せそうだと思った。



 画面の左上に表示された時計に眼をやり、八時間の時差を足す。日本は午後五時になるところだった。

まずは母親に電話をかける。

出なければ、父親にかけるようにしている。



アプリ通話の呼び出し音を久しぶりに聞いたように感じた。

自分の顔が映し出された呼び出し画面を見ていると、少ししてから父の顔に切り替わった。母の手が離せないときに、父が母の電話に出ることはよくあることだ。



「おう、道子。久しぶりだな。母さんはな、今、部屋で仕事してる」

父はそういってにっこり笑った。

還暦を過ぎて仕事を引退した父は、少し見ない間に目元が以前よりも垂れたように見えた。



「二人共元気なの?」

久々に顔を見て声を聞いたからか、少し照れくさい気持ちと、ほっと心が休まり、身体が軽くなったような気持ちがした。

そして画面に映るいつもの懐かしい父の表情をしっかりと目に記憶させた。



「ああ、元気元気。お前は何か疲れた顔してるなあ。ちゃんと食べて寝てるのか?」



「うん。食べてるし、よく寝てるから大丈夫。今日はトマが山に行ってて居ないから一人なんだ」



「ああ、そうか。冬でも山に行くなんてタフなんだなあ」

父はそういって、小皿に入ったピーナッツをひとつまみし、口に運んだ。


 昔から、父は週末になると、夕方早くから晩酌をするのが好きだった。

食卓の椅子にゆったりと腰をかけながら、幸せそうな表情でウイスキーを飲む父を見て、微笑ましい気持ちになった。



「あら、道子じゃないの」

リビングに顔を出した母が父の背後に見えた。


「あ、ちょっとお父さん、もう飲んでるの?」

母の目が父の手元のウイスキーグラスへいき、眉間に少し皺が寄った。

「程々にしておきなね」とどこか呆れ顔の母。



父はにこにこ笑いながら、そんなのお構いなしとでも言うように、自分の時間を楽しんでいる。


昔からこうだった。

何も変わっていない。

私が日本にいた頃から見てきた光景だ。

懐かしくなったのと同時に寂しさが入り混じり、泣きたくなるのを堪えた。



「道子、久々じゃない?」

母が画面を独り占めした。

「何だか顔色が悪く見えるんだけど、光の加減かしら? 少しやつれて見えるわよ」



「そうかな、光の加減でしょ。それに今日こっち天気悪いから、多分そのせいだよ」

母が心配しないように、声を強く張って、元気そうに繕った。



「そう? 悪阻はないって言ってたもんね。私の気のせいかしら」



やつれて見えるのは、食欲がないからだ。

妊娠後期の妊婦にはよくあること、らしい。

子宮が胃を圧迫しているからだ、とインターネットに書かれているのを読んだことがある。



「お母さんは最近仕事忙しいの?」



「まあねえ、色々準備することが多いんだけど、でも好きでやってるからね。嫌ではないのよ」

と、母は疲れた表情をしてみせたが、なんだか幸せそうにも見えた。


「そっかあ。なら良いじゃん」私は安心したような、心がきゅっと何かに持ち上げられたように嬉しくなった。

           

母は五十歳を過ぎてから、今している日本語教師という職業に転職した。

それまでは大手外資系企業で長年勤務していて、いわゆる、バリキャリという女性に分類されるような人だった。


昔から、父も母も毎晩遅くまで仕事をしていたから、帰るのが夜十時を過ぎることも珍しくなかった。

夕飯は、母があらかじめ冷蔵庫に作り置きしてくれているものを、二つ上の姉と一緒に食べた。

手の込んだ料理はあまり食べた記憶がないが、それでも私は不満に思ったり、寂しいと感じたことなんて一度もなかった。


私は生まれた時からずっと、幸せだった。


 私も姉も、私立の中高一貫校に通い、さらに二人揃って四年制の私立大学に進学した。

父と母のお陰で、教育にたくさんお金をかけてもらえたし、私達はやりたい事を何でもやらせてもらえた。



そして、姉と私が大学を無事に卒業してしばらく経ったある時、母は突然日本語教師になると言って、十五年以上働いた職場を退職した。


彼女は、高給取りといわれるその仕事も、今まで築いてきたその地位も、簡単に手放した。


私はそれを知ったとき、すぐに悟った。


母は今まで自分がやりたかったことを我慢してきたのだ、と。

今まで働き詰めだった父と母は、何十年も家族のためにがむしゃらに働いて、自分の人生を後まわしにしてきたのだろうか、そんなことをずっと考えていた。


そして私と姉は、父と母が色々なものを犠牲にしながら育んだ、人生をかけて作り上げた、いわば「作品」のような存在であるのだと思うようになった。



だから私は彼らの「作品」として、完璧ではなくても、せめて、恥じの無いように生きていかなければならない、そう考えてきた。


父と母は、その作品の出来栄えに、つまり、今の私に、満足しているのだろうか。

彼らが費やしてきた全ては無駄にはなっていないだろうか。

それはずっと両親に聞きたいことだったが、でも、もしも、何か落胆していたり、失望していたとしたら、今の私は支柱を無くしたように崩れ落ちてしまうだろう。

そしたら私には本当に何も、誰も、なくなってしまうから、それが怖くて聞けなかった。



 私は両親を不安にさせたり、がっかりさせるようなことがないように、自分の世界でちゃんと生きていかなければならない、そう思った。

         


「そう言えば、先週の日曜日、久々に隣町の大型ショッピングモールに行ってきたのよ。洋服をお直しに持っていっただけなんだけどね。昔、道子と一緒によく来たなあって、思ってさあ」

母は懐かしむような、でも少し寂しそうな笑顔で言った。


「ああ、よく行ったよね。私が居なくなってから、行ってなかったの?」


「全然。一度も行ってなかったのよ。お父さんはああいう所、好きじゃないしね、一人で行っても面白くないじゃない?」

そう言って、眉をハの字にして微笑んだ母は、少し哀しそうにも見えた。


「うん」と相槌を打って、私は母と過ごした週末を思い出した。



 休日に、のんびり母と二人で買い物に出かけるのが好きだった。

カフェでゆっくりお茶を飲んだり、目的もなくお店をあれこれと見て回ったり、何でもないただの週末だけど、私は母と一緒にいるその時間を大切にしていた。

昔は姉も一緒に三人で行ったが、姉が結婚して家を出てからは、私と二人きりになった。

そして今は、母が一人になってしまった。何だか心の奥がぎゅうっとすぼむように、胸の辺りが痛くなった。


「でもね」と、母は続けた。


「あんな広い所だと、何ていうか、ここのお店のこれが欲しい、って決めて行かないと、色々あり過ぎて疲れちゃうでしょう。だから近くのある程度大きなスーパー行くくらいがお母さんには丁度良いのよ」

今度は、眉はハの字のままだったが、困ったように笑った。



「うん、そっか」

そうだよな、と今の自分に重ねた。


 一人きりで、週末の家族連れで賑わうリヨンの中心街に出かけたって、何だか疲れてしまうのだ。

一人きりで、少しお高めの珍しいドリンクが飲めるカフェへ行ったって、全く心が休まらないのだ。

それなら家で安いティーパックのお茶を飲んでいる方が、私にはずっと合っているし、心地が良い。

母が感じたのは、きっと私のそれに似た感覚だったのではないだろうか。



「でもさあ、道子。道子達が日本に帰ったときには、またみんなで出掛けようか。お姉ちゃんの家族も一緒にさあ」

穏やかな口調でそう言った母は、気のせいか、少し年老いたような、弱々しくなったようにも見えて、切なくなった。


「うん。行こう。そうしよう」

力強く私は言った。


「それと電話、いつでも掛けてきていいからね。お父さんならいつでも出れるから。ねえ? お父さん」

母は、横でテレビを見ている父もカメラに映るように、少し身体を傾けながら言った。


ほんのり顔が赤くなった父の目は、先ほどよりも、さらに横に垂れ下がったように感じた。


「おう、おう。いつでも出れるようにしておきます」

そう背筋をピンと伸ばし胸を張って言った父は、にっこりしながらピースサインを私にした。


そんなおちゃらけた父を見て、私はつられて笑った。



 通話を終えた後は、まるで自分が別の世界から瞬間移動でもしてきたかのような、物音のしない空間に一人放り込まれたような、そんな感覚に陥った。


カラカラカラ、という高い音が不定期に聞こえる。

音の方に目をやると雨が降っていることに気がついた。窓際に置いたブリキ缶の鉢植えに雨が当たり、素朴な音楽を奏でていた。

私はその音を聴きながら、一日中どこに行くわけでもなく、ソファーの上で、スマートフォンと一冊の小説を手元に置いて過ごした。



 ここに、もしトマが居たら、彼はソファーから動かない私を見て、溜め息をついただろう。

私に「旧市街まで散歩しに行こう」とか、家から遠いパティスリーの名前を出しては「あそこのガトーショコラを買いに行こう」と言い、何としてでも私を外に連れ出そうとしていたに違いない。


もし、私が妊婦ではなかったら、その誘いは、雨が降っていようと山の中を散策するプランに変わったはずだ。


 彼がインドアな私を好ましく考えていないのは、彼と一緒に生活していると自然と分かる。彼にとって、一日中家で過ごすということが、何か不健康なイメージを与えているのか、「家の中にいないで外に出ないと」と眉を曇らせながら彼はよく私に言う。



だから特に用があるわけでもないのに、歩いて三十分以上かかる場所にある、アジア食材店へ向かい、三パック五ユーロもする納豆をわざわざ買ってみたり、地下鉄を乗り継いで、懐かしさなんて微塵も感じない、つい半年前まで通っていた語学学校の近くへ行ったこともあった。


それらは私にとって、一種の努力なのだ。


この国に来る前にあった新しい物見たさのような冒険心は遠に消え去っている。残ったのは、日本に居た頃と何一つ変わらない、内向的な自分だけであった。



 自分の安全圏である「家」という領域から出て、見慣れない建物、見知らぬ人だらけの街へ一人繰り出すことは、胸がそわそわし、どこか落ち着かなくて、常に周囲に神経を張り巡らせるような、そんな疲れを伴うことなのである。


それでも彼の言う通りに外出しようと思うのは、トマを理解したいと思う気持ちと、この街とこの国の人に、慣れようとする気持ちが半分ずつあるからだ。



私が食事会に参加し続ける意義も、そういうところにある。



 結局トマは、夕方六時を過ぎても帰って来なかった。

予定の時間通りに帰らないことなんて、特に珍しくなかったから、私は彼に連絡することもしなかった。




 夜九時、彼からの連絡は何もないまま、私は彼の帰りを待たずに眠りについた。



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