0と1の檻

@cantan

第1章 『遭遇』

シャワーの水滴が頬を伝い、排水溝へと流れていく。熱い湯を浴びても、心の底に張り付いた冷たさは消えない。




 鏡を見る。やつれた顔。無精ひげ。充血した目。数年前までは普通の会社員だったのに、今はフリーランスと名ばかりの無職同然。デスクの上には督促状が積まれている。クレジットカード、消費者金融、闇金──どれも返済期限を過ぎている。




「……クソッ」




 タオルで乱暴に顔を拭き、スマホを手に取る。残高を確認するためにアプリを開くと、画面に映る数字は「3,482円」。ため息が漏れる。




 ──俺が支えなきゃいけないのに。




 妹の美優(みゆ)は、この春から大学に進学する。学費と生活費を稼ぐために、昼はカフェ、夜はコンビニでバイトを掛け持ちしている。




『お兄ちゃん、今月バイト代ちょっと多かったんだよ!だから、はい!』




 そう言って、給料日になると俺に千円札を数枚渡してくる。




『お母さんには内緒ね!』




 笑顔で言うけど、本当は苦しいはずだ。それでも、妹は決して愚痴を言わない。




『だって、お兄ちゃんも頑張ってるでしょ?だから私も頑張る!』




 そんなことを言わせる兄貴で、いいのか?




 ──いやだ。こんな生活、もういやだ。金が欲しい。あと一歩、あと少しでも金があれば──




 スマホを握りしめたまま、ふと視界の端に浮かび上がった広告に目を留める。




──**「楽して稼げる最新AI、副業で月収100万円も可能!」**




 くだらない広告だ。詐欺みたいな誘い文句。いつもなら無視する。でも、今の俺は……。




 指が、無意識に画面をタップしかけたそのとき──スマホが震えた。




「……ん?」




 着信の名前を見て、少し驚く。




──相馬 悠真。




 高校時代の親友。サッカー部のエースだった男。卒業後はそこまで頻繁に会うこともなくなったが、たまにこうして連絡をくれる。




『久しぶり!元気か?今どこ住んでんの?』




「いや……まぁ、そこそこ」




『何それ、めっちゃ怪しいな。今暇?飲み行こうぜ』




 少し迷ったが、俺には断る理由もなかった。







「で、お前今どんな感じ?」




 居酒屋のカウンターで、相馬がビールを煽りながら聞いてきた。




 高校の頃から変わらない。明るく、社交的で、どこに行っても人気者。サッカー部のエースだった彼は、今ではスポーツ用品メーカーの営業職についている。結婚も考えている彼女がいるらしい。




「まぁ……ぼちぼち」




 適当に濁してハイボールを飲む。




「嘘つけよ、めっちゃやつれてんじゃん。仕事どうしたんだよ?」




「辞めた」




「は?」




 相馬の表情が一瞬、険しくなった。




「投資で失敗して、借金ができた。親父が死んでから、家の金のことは全部俺がやってたんだけど……色々あってな」




「……そっか」




 相馬は口をつぐんだ。




「で、次の仕事は?」




「探してるところ」




「……まぁ、お前ならなんとかなるだろ」




 そう言ってくれるのは嬉しいが、今の俺には空っぽの慰めにしか聞こえなかった。




「相馬は順調そうだな」




「まぁな。でもさ……最近思うんだよ。結局、俺の人生って、“普通”なんだなって」




「は?」




「高校のときは、プロ行きたかった。でも無理だった。大学行って、就職して、営業やって、彼女できて、結婚考えて……俺の人生、先が見えすぎててさ」




 贅沢な悩みだ、と思った。でも、俺が言えた立場じゃない。




「なぁ、俺らもう27だろ。これからどうするよ?」




「……さぁな」




 そんなこと、俺が一番聞きたい。




 ふと、スマホを取り出す。さっきの広告がまだ画面に残っていた。




 ──**「あなたの新しい相棒、『オルガ』をインストールしますか?」**




 不意に、相馬が笑う。




「なんだよ、それ。新手の出会い系か?」




「違ぇよ」




 苦笑いしながら、俺は画面を見つめた。




「……試すだけなら、タダだろ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る