赤満
タマハガネ
赤満
奈良県の南部には、吉野と呼ばれる名高い桜の名所が存在します。今から遡ること千余年前の平安の初め頃から、その華やかで美しい桜の景色は人々の心を掴み、当時の天皇陛下たちがわざわざ行幸して見にいらっしゃるほどの名景であったと伝わっております。
(今でも、吉野山には十数万本を数える桜が植わっており、観光客が跡を絶えない名所であります)
では紅葉の方はどうでしょうか。
有名な和歌には「ちはやぶる神代もきかず竜田川から紅に水くくるとは」とあるように、奈良県北西部に位置する竜田などが有名でありますが、実は「隠れた名所」が存在することはご存じでしょうか。
「赤(あか)満(みつ)の宵ににほへるもみぢ葉をあかず眺むや天の望月」
これは薫山天皇の皇子であり、歌人として活躍した香坂親王によって詠まれた和歌です。現代語訳すると、「赤満の夜に美しく照り映えているもみじの葉を天に浮かぶ満月が飽きることなく眺めやっているなぁ」といったところでしょうか。この和歌は「香陵集」という和歌集に収録された一首であり、平安末期ごろに詠まれたものとされています。お世辞にも秀句とは言えない句ではございますが、この句に興味を引く一語が見られますね。
「赤満」。聞きなじみのない言葉ですね。ですが、香坂親王がその紅葉の景色の素晴らしさを和歌に詠んでいることからも分かるように、この「赤満」という土地は、かつては天皇陛下や皇后・皇太子・名だたる貴族が秋になるとこぞって訪れる名所だったのです。
さぁ、今からその「赤満」という地がいったいどんな場所なのか。私が解説いたしましょう。
静岡駅から東海道本線に乗って富士駅へ。そこから身延線へと乗り換えて、しばらく揺られた後に、富士宮駅へと降ります。その駅には、一時間に三から四本来る身延線の列車とは別に、一時間に一本だけ来る「赤満線」通称「赤線」の列車がやってくるのです。
静岡のくびれている部分を北西方向に走るこの「赤線」。二両分の長さしかない小さな列車がゆっくりと山を登ってゆく小さな路線ですが、そこを走る車両の外観は見るものに強烈なインパクトを与えます。と言いますのも、この赤線を走る車両は名前にふさわしく、鮮烈な朱色をしているのです。京急レッドや名鉄レッドを彷彿とさせるような派手な発色の車体が美しい紅葉の山間をくぐり抜けていく様は、多くの鉄道ファンを魅了しています。
さて、その赤線に乗って、しばらく揺られていきましょう。赤線は北富士宮駅を通過し、淀川町駅、三沢駅を経由していきます。そして大中里駅を抜けると、そこは終着駅、赤満駅です。お察しの方もいらっしゃるでしょう。この駅を降りれば、かつての天皇陛下や殿上人たちがこよなく愛した紅葉の名所、赤満へ足を踏み入れることができます。
ところで「赤満」という地名が、なぜ付いたのかはご存じでしょうか。「赤で満ちる」。なんだか詩情溢れる命名ですが、その名に恥じない光景が、この地には広がるのです。というのも赤満では、古くから人為的に山の木々の選別が行われてきました。黄色く紅葉するイチョウやミズナラなどは間引かれて、カエデやナナカマドのように赤く紅葉する樹木だけが残されました。つまり赤満の山々の木々は、すべて赤く紅葉する樹木なのです。ですから秋頃となると、赤満の山野一帯は燃えるような赤一色に染め上げられるのです。山が赤色に変わる。その光景は筆舌に尽くしがたいほどに衝撃的なものです。特によく晴れた日に赤線の車窓から外の景色を覗くと、真っ赤に染め上げられた山脈と澄み切った群青の空とのコントラストが息をのむほど美しく、その大パノラマは奇跡の絶景と評されています。
常識の範疇を逸したその光景は、昔の人たちにとっても衝撃的だったようで、平安後期に執筆されたとされる短編物語集「駒少納言物語」には、こんな話があります。
――あるとき、紅葉を見に行くために、ある位の高い貴族が赤満を訪れました。しかし長い旅路を乗り越え、赤満に着いたときには既に真夜中で、辺りはすっかり暗くなってしまいました。そこで、その貴族は宿をとり、次の日になってからもみじ狩りを行うことにしました。さて、貴族は寝る前に、何気なく夜風に当たるために外へ出て、山の方に目をやりました。すると、見る間にその貴族は血の気を失って、大慌てをし始めました。騒ぎを聞きつけて駆けつけてきた従者がその貴族を落ち着けながら話を聞きますと、その貴族はこう答えます。
「山が赤々と燃え上がっている。山火事だ」
すると従者は笑いをこらえながら、こう言いました。
「失礼ながら申し上げますが、あれは赤満のもみじでございます」
その言葉を聞くと、貴族はハタと動きを止めた後、大声で笑い出して、「なんという失態か。恥ずかしさに顔から火が出そうである」と語ったそうです。そして、闇のなかでも見て取れるほどに赤々と浮かび上がる紅葉を改めて見つめて「なんという景色か。どこを探してもこのような景色が他にあるだろうか」と呟いたそうです。
これはあくまで物語であり、このエピソードが実際に起こったかどうかは定かではありません。ですが、このような物語が執筆されてしまうほどに、この赤満の里に広がる光景は、人々に強烈な印象を与えてきたのです。
赤満の紅葉が特別な理由は、これだけに留まりません。赤満の紅葉は「長い」のです。
紅葉は、基本的に気温の低下と日照時間の低下によって引き起こされます。ですから、通常、東海地方であれば、だいたい十月の中頃から十一月にかけて紅葉が起こるのですが、赤満の土地では勝手が違います。気温が下がり始める晩夏の頃には気候の変化を察知して、紅葉が始まるのです。そして十月の初め、早いときには九月の末頃には赤満の山林一面が真っ赤に染まります。これは赤満の木々に固有の現象であり、近隣の地域には見られないそうです。
このような事象が起こる要因はまだ調査されている最中ではありますが、標高が高いために冷涼かつ紫外線が強い気候であること。土壌の栄養が乏しく、秋季に入るとすぐに省エネ状態に入らざるを得ないこと。選定の際に、紅葉が長いものが意図して残された可能性があること。このような様々な要因が挙げられます。いずれにしても、その特殊な環境の下に、奇跡のような光景が実現していること。それは疑いようのない事実であると言えるでしょう。
さて、ここまでは赤満の紅葉の素晴らしさについて解説をしてきましたが、赤満の魅力はまだまだございます。赤満の町並は、紅葉に負けず劣らずの衝撃を私たちに与えてくれるのです。
先ほど申しあげました、赤線の終着駅である赤満駅は、東海道線にありがちな歩道橋のような形をした小さな駅でございます。これだけ聞くと、一見何の変哲もないような印象を受けられるかも知れませんが、赤線の車両に乗車している乗客は赤満駅が近づいて参りますと、きまって車窓に目を奪われるのです。理由は簡単です。赤満駅もまた、深い赤色で駅全体が塗装されているのです。赤線はゆっくりとしたスピードで山間の木々を分け入ってゆくように線路が通っておりますので、紅葉の間を走ってゆくことになります。そんな美しい自然の風景をかき分けた先に、深い赤色をした駅が現れるわけですから、観光客は山中に隠れた庵を見つけたような神秘的な気持ちになるのです。
話はそれだけに留まりません。なにも赤いのは駅だけではないのです。駅の改札を出て入り口を抜けると、そこにはなんとも不思議な町並が広がるのです。駅前の円形のロータリーのバス停は屋根もベンチも明るい朱色で彩られ、そこに停まるバスもロンドンを走るような明るい赤色で塗装されています。ロータリーの中央部には円形の植え込みが設置されていて、そこに大きく枝葉を広げた木々が植えられています。これらの木も秋頃には赤々とした紅葉を見せてくれるので、その頃になると、ただのロータリーですら見事な紅葉スポットに姿を変えるのです。
さて、ロータリー沿いの歩道をたどって駅前の大通りに出ましょう。するとこちらにも衝撃的な光景が広がります。片側二車線の道路は、左側には観光客らが宿泊する小豆色の六階建てのホテルがそびえ、右側には土産物店や書店、地元民も利用する食料品店などが立ち並びます。(ここは住民の建物なので、さすがに思い思いの色ではありますが)そして駅から通りに出てきた観光客を出迎えるように、道路をまたぐ巨大な鳥居がかかっています。もちろん発色の豊かな朱色です。さらに街路には等間隔にモミジの木が植えられております。この通りは「モミジ通り」と呼ばれ、この赤満を象徴する名所であります。紅葉のシーズンとなると、モミジの葉は燃えるような赤色に染まって通りを彩り、落ち葉は歩道のアスファルトの黒の上に赤い絨毯を敷きます。快晴の青空の日にここを訪れれば(先ほども同じようなことを述べましたが)澄み切った青色と町並の赤色のコントラストにきっと感動することでしょう。
しかし本当の見所はそこではありません。本当の魅力は夜にあります。日がとっぷりと暮れて、夜の帳がおりた頃合いに、モミジ通りに繰り出してみて下さい。通りを見渡してみると、街路に居並ぶカエデの木々は、枝や葉に取り付けられた橙色のイルミネーションに照らされて、温かみのあるオレンジ色を振りまいているのです。昼間に見られる鮮やかな赤色とは趣向を変えて、心の芯のところをじんわりと暖めるような温もりのある風景となっております。そこにホテルの窓から漏れ出でる橙色の室内の明かりが空に染み出し、右手には民家のまぶしいほどの白色光が照らします。道路をまたぐ鳥居も朱色の照明によって闇夜に煌々と浮かび上がり、そびえ立っています。それだけではありません。夜の時間帯となりますと、当然そこは観光名所である以前に赤満駅という住民も利用する駅の前なのであります。ですから、帰宅ラッシュの時間帯になって参りますと、モミジ通りの道路上は家路に帰る人々の乗用車のビビッドな赤いテールランプの筋を見ることができるのです。赤信号待ちの車両たちが織りなす赤色光の列、朱色の光と共に浮かび上がる鳥居、街路を彩る橙の紅葉、ホテルの間接照明のオレンジ色と家屋の明かり。その全てが暗闇できらびやかに輝き、日常の駅前通りを神秘的にも幻惑的にも思える光景に変えるのです。静岡県には、伊豆ぐらんぱる公園や時之栖、さらには富士市のコンビナートなど夜景の名所が各地に存在していますが、その数々の観光名所と見劣りしないほど、このモミジ通りは文字通り燦然と輝いているといえるでしょう。
他にも赤満には様々な観光スポットがあります。紅葉を近くで楽しめるトレッキングコースやキャンプ場は勿論のこと、赤満公園という町の中心部に位置する公園にもナナカマドやカエデがたくさん植えられており、紅葉狩りにぴったりの場所です。静岡の山奥に位置する田舎でありますから、ショッピングモールのような大型商業施設の類いこそありませんし、娯楽の少ない場所ではありますが、行楽には事欠かない。そんな印象の地域と言えるでしょう。
またお土産もよりどりみどりのラインナップです。モミジ通りのカエデの形を模した「赤満まんじゅう」は生地にクチナシ色素の着色料が練り込まれており、もみぢまんじゅうでありながら渋い赤色をしているのが特徴です。職場や学校に持ち帰れば、きっと注目を集めることでしょう。他にも、赤満の冷涼な気候で育ったお茶である「紅茶」(くれないちゃ)や、かつて天皇陛下の行幸の際に献上されたという日本酒「赤ら顔」などなどが駅前の土産物店で販売されています。実際に買ってみて、味わってみるのも良いかも知れません。
かつて天皇陛下も愛した、赤満の地。その歴史やこの地に伝わる神話や説話をひもといていくと、語ることは尽きませんが、その話は別の機会にするといたしましょう。ともあれ、他に類を見ない紅葉の織りなす名景に囲まれた赤満の土地を、訪れてみるのはいかがでしょうか。決して交通の便がいいとはいえない場所ではありますが、きっと他では体験できないような、素晴らしい思い出を残すことができること請け合いです。ぜひ、赤満の里を訪れてみてはいかがでしょうか。
参考文献
『香陵集』:「香陵集評釈」飯田洋行著、専心出版、一九七七年、二三頁
『建穏年間記』:日本古記録大全『建穏年間記』、沼東大学資料編纂所編、東風書店、一九六二年、一○九頁
『駒少納言物語』:『駒少納言物語注釈集成』、後藤和久編、揺籃出版、一九八二年、五七―五九頁
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