来年の春も蒲公英を

ほらほら

来年の春も蒲公英を

 春の陽が射す、大学の裏手の駐輪場。くすんだアスファルトの隙間に、小さな蒲公英が咲いていた。鮮やかな黄色が目に焼き付く。雑草の一種に過ぎないそれが、妙に気にかかる。


 僕は無意識のうちにしゃがみ込み、指先で花びらをなぞる。春の風が吹き抜け、砂埃が舞う。蒲公英の茎がかすかに揺れた。


「蒲公英は去年も、今年も、来年も、ずっと蒲公英のままだ。花を咲かせ、綿毛を散らす」


 自分でも何を言っているのかわからなかった。だが、その言葉は、どこか自分自身に向けたもののようにも感じた。


 大学に入れば何かが変わると思っていた。だが、結局のところ、何も変わらない。講義に出て、試験を受け、漫然と日々を過ごす。期待していた「未来」は、曖昧なまま遠のいていく。


「何してんだ?」


 不意に背後から声がした。振り向くと、丹羽が自転車を押しながら立っていた。講義で何度か見かけた男だ。ぼさぼさの髪、覇気のない顔。だが、その目だけは妙に鋭い。


「蒲公英が咲いてるから」


 指差すと、丹羽はちらりと花を見た。興味なさそうにポケットから煙草を取り出し、火をつける。


「変わんねぇな」


「何が?」


「春さ。毎年同じように来る。俺たちみたいな奴が、こうして同じように見て、同じように考える。そして何も変わらない」


 僕は苦笑する。確かにそうだ。去年も、今年も、そして来年も、きっと何も変わらない。


「でもお前は、きっと何かを変えたいんだろ?」


 丹羽が煙を吐きながら、人の心を見透かしたようなことを言う。


 変えたいのか? 僕はただ、何かを言いたかった。何かを訴えたかった。でも、それが何なのか、自分でもわからない。


「でも、変わるっていうのは、俺たちの選択じゃないんだよ」


「選択じゃない?」


 僕はその言葉に引っかかった。変わることは、自分で選ぶものではないのか? 僕は今まで、変わらなかった。いや、変わる力がなかった。でも、それは僕の意思の問題だと思っていた。


「例えば、この蒲公英」


 丹羽が足を上げる。


「お前がどう思おうと、こいつは踏まれる運命なんだよ」


 ぐしゃり。

 彼の足が蒲公英を押し潰した。黄色い花弁が黒いアスファルトに滲む。


「おい、何をするんだ!」


 僕は思わず叫ぶ。


 丹羽は肩をすくめる。


「お前は最初から分かってたはずだ。踏まれるって。運命だよ」


 そう言い残し、丹羽は自転車を押して去っていく。


 僕は潰れた蒲公英を見下ろす。たった今までそこにあった花が、形を失い、ただの汚れに変わった。


 俺は立ち尽くしたまま、その場を動けなかった。




 次の日、また同じ場所に来る。


 僕は昨日のことを考えながら、丹羽を待っていた。やがて彼が現れる。昨日と同じ、無表情な顔。


「まだ蒲公英のことを考えてるのか?」


 僕は踏みつけられた花の残骸を指差す。


「でもさ、変わらないっていうのは、悪いことばかりじゃないんじゃないか?」


 丹羽は俺を見て、少しだけ顔を上げる。


「何かを求めてるんだろ?」


 相変わらず人を見透かすようなことを言う男だ。それならば、何故、僕が今ここにいるのかも分かっているのかもしれない。


「……」


「でも、それがどうでもいいとも思ってるんだろ?」


 僕は答えられない。確かに、変わらないことに安堵している自分もいる。でも、それに耐えられない自分もいる。


 そのとき、新たな蒲公英が目に入った。昨日の花とは違う。だが、同じように咲いている。


「変わりたければ、自分を変えるしかない」


 口をついて出た言葉に、自分で驚いた。

 そんなこと、今まで思いもしなかったから。


「変わろうとしなければ、何も変わらない。だから、変わるためには、変われるだけの何かをしなければならないんだ」


 僕はその事実に初めて気づいた。

 しかし、丹羽は静かに首を横に振る。


「自身を変えることも、変えないことも、選べるのは自分じゃない」


「……?」


「それは結局、周りが決めることだ。いや、決めるということさえ烏滸がましい。全ては、ただ激流に翻弄される笹舟のようなものだ。流れに任せ、やがては沈む。そこには何者の力も働きはしない」


「…………」


 僕は否定できなかった。自分が選んでいると思っていたことも、実はただ流されていただけだったのかもしれないと愕然とする。少なくとも、僕にそれを否定できるだけの経験はなかったかから。


 丹羽はまた煙草を取り出し、火をつける。


「変えられないなら、何をしても無駄か? 諦めて怠惰に、無感情に生きるか?」


 紫煙が風に溶けていく。その姿が、昨日の蒲公英と重なった。


 僕はまた足元を見る。昨日踏みつけられた花。その傍に、新しい蒲公英が咲いている。


「それでも、僕は……」


 何かを言いかけたが、言葉が出なかった。ただ、その花を見つめる。


「変わらないことが、本当に自由なのか?」


 丹羽の言葉を反芻しながら、僕は考える。

 結局、答えは出なかった。


 それでも、僕はまたここに来る気がした。

 そして、その答えを探し続けるのだろう。


 風が吹き、蒲公英がかすかに揺れる。

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