今すぐ会える「元聖女」のアリシアさんは、夜間スーパーのレジにいる!

雲井咲穂

第1話 神様へのお願い

 ああ、神様。

 仏様。

 女神様、聖女様だってなんだっていい。

 お願いです。

 お願いですから。



「休みをください」


 平野幸太、三十五歳。独身。家族経営の小さなスーパーの店長を生業とする乙女座の男。


 彼の体は、もはや限界だった。


「お願いです。どうか、どうかお願いです……夜間バイトが見つかりますように!」


 古びたパソコンが乗るだけの簡素なベージュの机。その横の狭い事務室の片隅で、平野幸太は膝立ちになり、天井に向かって祈っていた。


「そろそろ気合と根性と精神論で乗り切ってきた一〇八連勤も限界です。朝から夜遅くまで出ずっぱりで休みなし。ゆっくりアニメを見る暇もない。副店長は失踪した嫁を探すために退職。後任を探すも給与が低すぎて応募すらない始末。友人には忙しそうだからと飲みにも誘われなくなりました。すでに他界した父の遺影を片手に、母は祖母を連れて世界一周旅行中です。唯一の妹もVチューバーの仕事が忙しいらしく、相手にもしてくれません。神よ、あぁ神よ! この哀れな子羊に、どうか、どうか神の恵みを与えたまえ!」


 特定の宗教を信仰しているわけではないが、アーメンとでも言いそうな形で胸の前に両手を組む。よれよれになった白いシャツの胸元にぎゅっと引き寄せた。


「どうか。どうかお願いです。このままでは、このスーパーの経営はおろか、自分の体を支えることすらままなりません……!」


 剛毛と称されるたっぷりとした黒髪に、ふわりと白い埃が舞い降りた。


 げっそりと深く刻まれた目の下のクマ。


 ややこけた血色の悪い頬。


 どこをどう見ても、最悪の健康状態である。


 連日連夜の無理がたたり、食欲はほぼなく、極限の状態だったのであろう。


 睡眠時間は二時間半。


 毎日深夜の一時過ぎに帰宅し、シャワーを浴びてから夕食を摂る。


 猫の砂をチェックし、掃除をして、水と餌を補充する。


 ところでこの妹が拾ってきた猫の名前は「勇者」といい、幸太に決して懐かない黒猫だった。


 総菜の残りにレトルトの白米。もしくは見切れ品の総菜パンと滋養強壮剤。


 洗濯物を取り入れて、洗ったものを干したところで気を失ってスマホのアラームに叩き起こされる。


 顔を洗って、身支度を整えて、ふらり、ふらりとしながら自転車をこいで職場に向かう。


 そういう生活を続けていると、必然的に人間というものは不健康な姿になってしまうらしい。


 最近は疲れが酷すぎて、朝剃ったはずの髭が夜には伸びる始末だった。


「神様! 仏様! 女神様! 聖女様! 八百万の神様! この世を創りたまいし、もう、何の神様でもいいので……どうか、どうかお助けくださいませぇえええええええ!」


 キエェエエエ、と絶叫した瞬間、ぱたん、と幸太はその場に倒れ込んだ。


 久々に大声を上げたせいか、突然、ひどい眩暈に襲われる。


 視界が真っ暗になり、ヒィヒィと息が荒くなる。


(なんだ。これは、過呼吸か?)


 息を吸おうとしても酸素が足りない。


 吸えば吸うほど呼吸が荒くなり、ひゅーひゅーと風切り音のような声が喉から漏れる。


 じっとりと汗が背中を伝い、指先が細かく痙攣する。


 チカチカと目の前が明滅しはじめ、脳をぐるぐるとかき混ぜられるような鈍痛が襲った。


(ヤバイヤバイヤバい! 閉店まであと三十分もあるのに!)


 明日、野菜カットのおばちゃんが出勤してきたときに死体を見つけたら……。


(正直シャレにならん!)


 死因、過労による何か。


 そんな検死報告書を残したら、恥ずかしすぎて成仏できない。


 どうでもいいことが頭の中を駆け巡る。


 視界は相変わらず真っ暗なまま。


 荒くなる呼吸音と、耳のすぐ横で聞こえる拍動。


 ズキンズキン、と呼吸をするたびに痛む頭。


 とうとう耐えきれないと思っていると、きーんと耳鳴りまでし始めた。


 ビクン、と体が痙攣する。


 ごま塩色の吸音ボードの天井の下、平野幸太は気絶した。

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