第14話 水と油の戦支度

半九郎は、里一番の嫌われ者であった。


しかし──忍びにとって、毒はすでに一つの“武器”である。


影に生きる者が、確実に相手を仕留めるには、時として刃よりも、毒のほうが頼りになる場面もある。

音もなく、痕もなく、ただ結果だけが残る。それこそが理想であり、勝利であった。


実際、半九郎の調合する毒は、即死、遅効、幻惑、痺れ──多岐にわたる。

任務の目的や地形、敵の特性に応じて的確に使い分ける技は、すでに“術”を越え、“業”の域に達していた。


事実、幾度となく彼の毒は、闇の中で静かに命を奪ってきた。

刃を交えることもなく、血を流すこともなく──ただ、一瞬の沈黙とともに、標的は崩れ落ちた。


ゆえに、毒を操る半九郎の存在は、烈道にとって欠かせぬ戦力であった。


それを知っていたのは、烈道ただ一人でよい。


彼にとって半九郎は、信頼の対象ではなく、干渉すべき相手でもなかった。

必要だったのは、信頼ではなく、沈黙だった。

──冷たくも、温かい沈黙。


それもあってか、烈道が半九郎をあえて逆撫でせぬのは、私情によるものではない。

黒霞の頭領として、ただ冷静に“合理”を重んじていた。

半九郎という男の扱いにかけては──この世で最も達者な人間、それが烈道だった。



だが──


弥八と同じ齢四十にして、いまだ独り身であった。


見合いの話が立てば、たいてい断られる。

「あんな不気味な男のそばに、娘をやれるか」

そう口をそろえる親たちにとって、半九郎の存在は、忍びである以前に“異物”だった。


鼻は低く、目は細く、色男にはほど遠い面構え。

無表情のまま口元だけで浮かべる薄ら笑いは、どこか不気味で、周囲の心をざわつかせた。

そのたびに、空気はひやりと冷え込む。


村人たちが遠巻きにしていたように、仲間内でも半九郎を快く思う者は少ない。


中でも、実直で少し短気な弥八にとって、半九郎との相性は最悪に近かった。

やりとりのたびに交わされるのは、皮肉と嫌味の応酬。まるで水と油であった。


普段は極力、言葉を交わすことも避けているが、こうして任務が絡むとなれば、どうしても接点が生まれる。


「もし弥八が毒で倒れるようなことがあれば、まず半九郎を疑うだろう」──そんな冗談めいた噂も、里ではまことしやかに囁かれていた。


もっとも、半九郎自身がそんなことをするはずもない。


彼はあくまで、黒霞の一員として命を預ける仲間に毒を向けるような真似はせぬと、烈道もまた信じていた。


そんな半九郎と弥八が、今この場に限っては珍しく、短く皮肉を投げ合っていた。

普段なら決して言葉を交わすことのない二人──だが、それが、

かえって妙に人間臭く感じられた。


死地に臨む準備を整える只中で、烈道はそのやり取りに、かすかな安堵のような感情を覚えていた。

人と人が交わす、ほんのわずかな温度──それがこの場に、わずかながらも人間の気配を取り戻させていた。


だが次の瞬間には、その面差しをすっと引き締める。

かすかに呆れをにじませつつも、鋭い眼光をふたたび仲間たちへと向け──


ちょうどその時、半九郎がようやく口を噤んだ。

その瞬間を逃さず、烈道が声を張った。


「──聞け」


その一言に、場の空気が一変する。

張り詰めた静けさが戻り、忍びたちの視線が一斉に烈道に集まる。



「弥八、迅太──」


烈道の声は低いが、しっかりと通る。その語尾に一点の迷いもない。


「すまんが、おぬしらは囮になってもらう。化け物の背後へ回り、声を上げて挑発せい。構わん、戦う必要はない。ただし、火玉だけは──絶対に当たるな。合図するまで待て。できるか?」


「はいっ」


即答する弥八。その隣で、迅太は黙って大きく頷いた。


「小次郎」


烈道の目が若者に向く。


「お前は、わしの館へ戻れ。鉄砲と焙烙玉を、ありったけ持ってくるんじゃ。矢も忘れるな。──よいな?」


小次郎は迷いなく「はいっ」と応え、すぐに立ち上がろうとした。


だが、その時。


「待て」


烈道が手をかざして制した。


「戻る頃には、儂らはもうおらん。裏山だろう。持ってきたものは麓の“塞ノ祠(さいのほこら)”の前に置け。焙烙玉、鉄砲、矢、ひと目でわかるように並べておけ」


「……はいっ!」


小次郎が力強く頷く。


烈道は目を細めて続けた。


「そのあとは、お前がみんなの援護じゃ。怪我人の補助、誰か危ないときは石や弓矢を使って揺動しろ。あの化け物以外、そこにいる者は皆、仲間だ。無理に戦うことはない。だが、冷静に動け。よいな」


その口調と眼差しの奥に、わずかではあるが──

老いた者が若き者を気遣う、静かな優しさが滲んでいた。


十六の小次郎は、一瞬だけ烈道をまっすぐに見返し──そして、瞳をそっと地面に落とした。


その目の奥には、かすかな戸惑いと、口には出さぬ悔しさが宿っていた。

──なぜ自分だけ、戦わせてもらえないのか。

血が滾る年頃である。刃を振るいたい気持ちも、仲間と肩を並べたい思いも、当然ある。


それでも、小次郎は命令に逆らわなかった。

忍びとは、そういうものだと、教わってきたからだ。


やがて、小次郎は静かに、しかし力強く頷いた。


先ほどの指の震えも消え、その顔つきには、若き忍びとしての自覚と覚悟が宿っていた。


烈道はその表情に確かなものを感じ、応えるように、そっと頷いた。


「よし、行け!」


烈道の声が飛ぶと、小次郎は背を向け、槍を手に駆け出そうとした──その刹那。


「おい、小次郎!」


押し殺した声で、それでも鋭く言い放った


「槍なんぞ放っとけ!」


父の声に驚いて振り向いた小次郎は、無言で頷き、言われるがままに槍を放り出すと、軽く腰を沈めて、闇の中へと素早く姿を消した。


その背中を見送りながら、烈道はわずかに目を細めた。

その表情に、誰にも気づかれぬほどの、かすかな優しさが滲んでいた。



静寂にひそむ気配が、じわじわと緊張へと姿を変えていく。

戦いの幕が、今、音もなく──しかし確実に上がろうとしていた。

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