第5話 白蓮峠(はくれんとうげ)を越えて


黒霞の集落に辿り着くまで、才蔵の足音は、一度として途切れることがなかった。山道を踏み締めるその歩みは、規則的で静か。しかしその静けさは、不気味なほどの決意に裏打ちされていた。


月明かりすら届かぬ森の中で、才蔵の動きはまるで影の化身のようだった。地を這うように滑らかで、音も気配もまるでなかった。風に舞う落ち葉よりも静かに、獣すら息を潜める闇の中を、才蔵はただ前へと進んだ。


しかし、その胸の奥では別の音が鳴っていた。低く、重く、濁った不安が、心臓の鼓動に混じって蠢(うごめ)いていた。

四半刻(しはんとき30分)に見た夢——いや、あれは果たして夢だったのか。


才蔵の脳裏には、なおも炎に包まれた家々の幻影がくすぶり続けていた。赤黒く燃え上がる木造の家々、そして無惨に積み重なる死体の山。その光景はあまりに鮮烈で生々しく、現実と幻の境さえ曖昧になるほど、深く心に焼きついていた。


地面を踏む足の裏には確かな感触があるはずなのに、今にも空中に浮かび上がってしまいそうな不安定さに包まれていた。才蔵は思いっきり首を振り、意識を山道を走る事に集中した。


才蔵が走っているのは、常陸(ひたち、現在の茨城県)と下野(しもつけ、現在の栃木県)の境にそびえる白蓮峠(はくれんとうげ)の山道だった。


切り立った崖と複雑な起伏が続くこの峠は、古くから命を落とす者が後を絶たない“難所”として知られている。途中には、幾筋もの細流が合わさって流れ落ちる幻蓮の滝(げんれんのたき)という滝があり、昼間ならその名の通り、陽光にきらめく水煙が白蓮のように見えるという。


秋の今は、山々の木々が錦のように染まり、峠一帯がまるで絵巻物のような美しさを見せる。だが、深夜の今は違った。赤や黄に色づいた葉は月明かりの下でくすみ、不気味な影を山道に落としている。風が吹くたび、枝が軋み、落ち葉がざわつく音が、まるで誰かが後ろをついてくるような錯覚を呼び起こす。


才蔵はその不穏な空気を払うように、ただ黙々と走り続けていた。


白蓮峠を越えれば、忍びの里――黒霞までは一里にも満たない。

そこは才蔵がかつて修行を重ねた場所であり、生まれ育った故郷だった。


峠の頂を越えたとき、木立の隙間から古びた標柱がひっそりと顔を覗かせた。風に揺れる枝のあいだからそれが見えた瞬間、才蔵の鼻先をひとすじの匂いがかすめる。焦げ臭い、あの匂いだった。


夢の中で見た、あの夜の匂いと寸分違わぬ。幻と現実の境界が、ぐにゃりと溶けていくような錯覚が背筋を凍らせる。


才蔵の中に潜んでいた不安が、一気に弾けた。

胸の奥を何者かに鷲掴みにされたような圧迫感。心臓の鼓動が耳の中でどくどくと大きく鳴り響き、思わず立ち止まる。


「……そんな……」


口をついて漏れた声は、夜風にさらわれ、虚空に消えていった。冷えた風が袖口から忍び込み、才蔵は無意識に肩をすくめる。


そして、谷の底にぽつぽつと灯る光が見えた。黒霞の集落だ。


かつては温もりと誇りに満ちていたあの里が、今は不気味な沈黙と不穏な光に包まれている。才蔵は、言い知れぬ恐怖と覚悟を胸に、その地へと歩を進めた。


そのときだった。

木々の合間、谷の向こう――黒霞の集落のあたりに、赤い光がちらついた。風に揺れるように、揺らめいている。


才蔵は目を凝らす。そして次の瞬間、その赤がただの灯火ではないことを理解した。

それは――炎だった。


揺らぐ赤が徐々に広がり、やがて視界の奥にくっきりと映る。漆黒の闇に染まった山里を、赤黒い炎が舐めるように照らしていた。


「あの炎だ……」


言葉に出すまでもなく、才蔵の脳裏には悪夢の光景が否応なく呼び起こされていた。焼け落ちる屋根、焦げた木の臭い。すべてが、あの悪夢と重なる。

まるで、時間が巻き戻されたように遠くで燃え上がっていた。


「嘘だろ……!」


驚きと焦りが入り混じった才蔵の叫びが、白蓮峠の麓(ふもと)に虚しく響いた。

疲れ切っていたはずの才蔵の身体が、思考に逆らうように全速力で黒霞へと駆け出していた。


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